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zoom RSS 【読書メモ】ドストエフスキー『白痴』

<<   作成日時 : 2012/01/24 09:52   >>

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ドストエフスキーの『白痴』を、これも17年ぶりくらいで再読しました(木村浩訳、新潮文庫、1993年)。
上下巻で1150ページ。
10日近くかかったのでしょうか。

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昨年の終わりにフォークナーを読んで、時代を遡ってドストエフスキーに行っているわけですが、こんなふうに読むと、ドストエフスキーがフォークナーに与えた影響とか、ドストエフスキーとフォークナーの違いとかを考えてしまいます。

ドストエフスキーの長編では、各登場人物がメチャクチャ長くしゃべります。
それぞれの台詞がすごい分量になり、まるで短編小説が台詞の中に入っているみたいになることもしばしば。
また、その場にいない人物の消息を、まるごと台詞で説明したりします。
これを洗練させ、人物の語りや伝聞を地の文に落とし込む、という技術を使ったのが、フォークナーです。
ドストエフスキーが旧来の近代小説の技術だけで、イビツながらも偉大な作品を遺したあと、ジェイムズ・ジョイスらによる技術革新を経て、フォークナーが「巧く」ドストエフスキーの影響を消化した、と言えるでしょうか。

ドストエフスキーは、「自分がどうしてそんなことをするのか自分でも理解できないけど、変なことをやってしまうことが、人間にはよくある」という、きわめて「フロイト以後」的な人間観を持って小説を書いています。
さらに、自分の書いた登場人物について、「彼がなぜそんなことをしたかは(作者である私にも)分からない」みたいなことまで書きます。
この点も、フォークナーは巧く受け継いでいて、
「自分がなぜそんなことをするのか分かっていない人物」を登場させますし、
また、「伝聞から想像しただけだからこのときの彼がどう考えていたのか結局は分からない」というようなことを地の文で語れる手法を編み出しました。

はっきり言って、さすがにフォークナーのほうが巧いです。
ドストエフスキーは、面白いんですけど、小説の書き方としてあまりに破格なところもあり……。
『白痴』では、伏線もない情報の後出しが多く、また特に第一編と第ニ編の間で事が起こりすぎ、その説明がまた長ったらしい。

ただ、ドストエフスキーの地の文は面白くて、
基本は三人称でありつつも、ときどき「私」が顔を出す、まるで活弁士みたいな語りであり、説明をしてるだけのところでも独特の味があります。
そして、この活弁士のような語り手(地の文)は、自分の外部にある事実や事件について、「まずはこれから説明するのがいいのかな」、「次はこれについて言っておかなきゃいけないかな」などと、苦心しながら(やや下手ながら)語ってゆきます。
「作中の事件も、登場人物たちも、語り手(地の文)の外部にいて、それぞれが確固たる存在を主張している(ように見える)」ように演出が施された文体が、ドストエフスキーの地の文なのです。
ミハイル・バフチンが「ポリフォニー」と呼んだのは、こういうことなのでしょう。

「もうちょっときちんと伏線とか張って、巧く書いてもいいんじゃないですか?」とは思うものの、印象的な人物や場面も多く、面白い小説でした。
あんまり暗くないです。
むしろ、笑えるところ、思わず笑ってしまうところがたくさん。

ドストエフスキーのユーモアは、「変なことを大マジメに語る地の文」と「あまりにもキャラ立っている登場人物」だと思うのですが、
イヴォルギン将軍やレーベジェフは、登場するたびに「待ってました!」と思う、お気に入りのキャラです。

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