documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 【読書メモ】ドストエフスキー『悪霊』

<<   作成日時 : 2012/02/19 10:01   >>

トラックバック 0 / コメント 0

ドストエフスキー『悪霊』(江川卓訳、新潮文庫)再読。
今年読み返したドストエフスキーの中で、いちばん面白く、かつ、いちばん不満の残る作品でした。
小説として、「読ませる」力と技がおそろしいくらいあるのに、小説としてのまとまり、小説としてのプロポーションが欠如しているのです。

画像


この小説は、ある町で起こった一連の事件(革命思想と無神論に関わる)を、語り手の「私」が後から思い返し、情報収集しながらジャーナリスティックに記録する、という体裁で書かれています。
また、あるひとつの奇妙な出来事を語るとき、その出来事についての真偽の定かでない複数の噂を用いる、という手法も、頻繁に採用されています。
これらのテクニックは非常にうまくいっており、こういった小説技術の面では、ドストエフスキーは『罪と罰』や『白痴』よりもずっと進歩しています。

しかし、神の存在や革命の是非といったテーマの面に目を向けると、
事件に関わった人物たちの、それぞれに興味深い思想は、バラバラに出てくるだけで、小説全体として練り上がってゆかないのです。
弁証法的にならない、と言ってもよいでしょう。
テーマを追いながら小説を読んでいっても、落としどころを見いだせないままで、読み終わったときに結局、事件としての破局だけしか残りません。

このことはたぶん、主人公であるはずのスタヴローギンが主人公になれていないこと関係があると思います。
謎めいたスタヴローギンは、もし『悪霊』が一般的な小説であったなら、作品内の思想の絡み合いの中心点にならねばならなかったはずです。
しかし、最終的にスタヴローギンは、小説の中心に居残れず、存在感が薄くなってしまいます。
彼よりも、ピョートルやキリーロフやシャートフのほうが印象深く、登場人物として魅力的です。
僕が思うに、ドストエフスキーはスタヴローギンを描ききれなかったのです。
本当は、あと500ページかけても、スタヴローギンをこそ書くべきだったと思います。

とはいえ、これはあくまでも、「近代小説の理想的なプロポーション」に照らしての話であり、
『悪霊』の奇形性、そのまとまりのなさ(すべてをまとめる中心点の欠如)は、「神(中心点)がいなければ生きられないが、神を信じることはできない」という、ドストエフスキーの宿命的主題にはふさわしい(その主題の小説論的等価物)と言えるかも知れません。

また、テーマの面でのバラバラさにおいては「小説としてまとまっていない」と言えても、
「一連の事件の中では実際にこういうことが起こり、それを「私」が情報収集してありのままに書いただけなのだ」というエクスキューズのきく体裁ではあるため、「小説として間違いだ」とは言えません。

ドストエフスキーは『悪霊』で、テーマを追究し弁証法的にまとめよう、小説としての結論を出そう、などとは考えず、バラバラさそのものを書こうとしたのかも知れないのです。
(また、バフチンは、このバラバラさに当惑しつつ、何とか擁護しようとして、「ポリフォニー」とか言い出したのかも知れません。)

僕はやはり、この小説は失敗作だと思いますが、これほど面白く、偉大な失敗作もありません。
小さくまとまった成功作なんかより、はるかに面白く、意義深いものだと思います。
思想的、テーマ的でない場面でも(むしろそのほうが)、素晴らしく面白いです。
身震いするほど。
シビレます。


細かい点。

・革命家たちの奇妙な会議のシーンは、間違いなく、安部公房の『壁−S・カルマ氏の犯罪』の「無機物の蜂起」の場面のお手本になっています。
・ピョートルの語る、存在しないかも知れない「中央委員会」は、カフカを思わせます。
・シャートフの妻がシャートフのもとへやって来てお産をするシーンは、たぶん、フォークナーの『八月の光』に影響を与えています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

【読書メモ】ドストエフスキー『悪霊』 documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる