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zoom RSS 【読書メモ】高橋源一郎『官能小説家』

<<   作成日時 : 2012/02/23 10:05   >>

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高橋源一郎『官能小説家』(朝日新聞社、2002年)読了。

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この小説にはまず、タカハシゲンイチロウという名前を持つ現代の作家が「おれ」として登場し、朝日新聞に小説を連載し始めます。
「おれ」の書く連載小説の舞台は明治末期で(といってもマンションとか携帯電話とかがバンバン出てくるんですが)、そこでは、森鴎外が夏目漱石に頼まれて朝日新聞に小説を連載し始めます。
森鴎外の書く連載小説の舞台は現代(つまり、鴎外にとっては未来)で、そこでは、タカハシゲンイチロウという名前を持つ「おれ」が小説を書きながら生活しています。

現代のタカハシゲンイチロウと明治の森鴎外が、お互いに書きあっていて、それが一章ずつ交互に並んでいる、というメタフィクションの構造です。

現代の「おれ」は、生活も小説もパッとしないうえ、いきなり明治時代からタイムスリップ(?)してきた森鴎外や夏目漱石に悩まされます。

明治のパートでは、半井桃水という才能に欠ける作家が、樋口夏子という才能の原石を見つけ、彼女を「樋口一葉」という作家に仕立てあげます(「一葉」は、桃水と夏子の二人のペンネームになります)。
「一葉」の小説は話題となり、鴎外と夏子は対談という形で出会った後、激しい恋に落ちます。
そして、鴎外、夏子、桃水の、狂おしい三角関係に……。

まず感銘を受けるのは、この明治パートの恋愛が、ものすごい強度を湛えた文章で綴られることです。
こんなにオーソドックスに美しい(「文学的」な!)文章を、高橋源一郎が書くとは!
描写も心理表現も、クサいくらいにキマっていて、しかもクサすぎず、パロディではあるんだろうけれどもベタに没頭して読める、まともな近代小説なのです。
それに比べて、現代パートの文章は、「ああ、僕の知ってる高橋源一郎って、これだよな」という、ヘタウマなものです。

この『官能小説家』という作品が、すぐれて小説論的な小説になっているのは、
単にメタフィクションの構造を持っているから、ということではなく、
ましてや、小説の中でそれぞれの登場人物が「小説とは……なんだよ」みたいな小説論を語るせいでもなく、
このような対照性のためだと思います。

高橋源一郎は、「文学的」にキマった文章を書こうと思えばちゃんと書ける力を持っているし、また、その力を思う存分ふるいたいという情熱も持っている。
しかし、自分の生きる幻滅的な現代において、普通の人の恋愛なんかを描くときにその力や情熱を解放してしまうと、どうしてもアホみたいな純文学気取りになってしまって、現実から解離してしまうし、カッコ悪い。
そこで、明治時代の、しかも小説家が登場人物に選ばれたのでしょう。
「小説の中で、こんなに官能的な言葉によって恋愛をすることができるのは、実は小説家しか、しかも、小説の言葉が近代的な強度を持ち得た時代の小説家しかいないのではないか?」というアイロニーが、明治パートに込められているのではないでしょうか。
さらに、現代の作家が「小説のくだらなさ」を体現しているもうひとつのパートによって、「その小説を信じてはならない」というメッセージを発する。

そういう、「官能小説の不可能性」というテーマが、『官能小説家』という作品に、深い哀感を与えているのだと思います。

「官能小説の不可能性」とはいっても、『官能小説家』は、しらじらとした幻滅に支配された作品ではありません。
古典的なまでに見事な恋愛小説を読んだという手応えが、確かに残ります。
高橋源一郎の、「激しい恋愛と官能を書きたい」という、おそらく小説家であれば誰もが抱くであろう情熱が、明治パートには溢れているからです。
小説の不毛と、小説への情熱、その両極の間で激しく揺れ動いているのが、『官能小説家』という小説なのです。


細かい点。
現代の「おれ」が、タイムスリップ(?)してきた森鴎外に遭遇するシーンは、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』で「おれ」がセリーヌと会うシーンとそっくりです。
たぶんあそこから発想したのでしょう。
というか、現代パートはブコウスキーと文体も展開もそっくり……。

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