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zoom RSS 【読書メモ】『小説のたくらみ、知の楽しみ』

<<   作成日時 : 2012/03/07 18:14   >>

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大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮文庫)再読。

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大江さんが1983年から1985年にかけて連載したエッセイです。
当時の大江さんの生活を背景に、彼の小説の書き方や書物の読み方、考え方が開陳されています。

前にこの本を読んだのは、いつのことだったでしょうか。
5、6年は前のことだったと思います。
確か、新作の演劇を構想しているときに、この本を持って品川方面へ(当てもなく取材に)行き、青物横丁あたりで読んだのでした。
ところどころに書き込みが残っていて、いくらか内容も覚えていました。

今回は(今回も)、尊敬する小説家の創作態度を参考にしたい、という気持で読み直したのですが、
再読して強く感じたのは、冷戦期の終わりに単行本化されたこのエッセイ(文庫化されたのは1989年です)が、「核爆発による人類の滅亡」の可能性に対するリアルな危惧によって貫かれ、「核状況」の下で文学は何を為すべきか(何ができるのか)、という問いをテーマに書かれている、ということです。
そして、いまこの本を読んだことは、読み直す前に僕が漠然と予想していたありようとは、かなり異なった読書体験になりました。
もちろん、作家の創作の舞台裏を見せてもらい、自分の参考にする、という当初の目的もかなりの程度満足させてもらったのですが、
それ以上に、現代という時代について考えさせられ、文学というものの現代における存在理由について考えさせられたのです。
(その「現代」とは、大江さんがこのエッセイを書いた当時と通じるところがありつつも、かなり状況の違ってきている時代です)

核戦争の危機が、かなりの程度リアルに感じられたはずの冷戦期において、「熱核戦争による人類の滅亡」という「いかなる再生の想像力をもよせつけぬ、[……]絶対的な滅亡」の可能性は、「巨大なニヒリズム」を生み出している、と大江は書いています。
そんな状況下で、どうにかして「積極的な希望へのヴィジョン」を作り出すことができれば、そこにこそ、文学の今日的な意義がある(はずだ)……というふうに、当然なります。
僕がいままとめたこのような大雑把な理路は、もちろん前提に過ぎず、この「巨大なニヒリズム」と「希望」との間の裂け目をいかにして埋めたり飛び越えたりするか、という問題が重要なわけで、大江もその問題に対して果敢に様々な仮説を突っ込んでゆくわけですが、
読んでいる僕はそのあたりから、本を半ば離れて自分の思弁のほうに気を取られてゆき、2012年の現在の状況についてゴチャゴチャ考えはじめました。

大江はこの本に収められた「手紙と提言」の中で、
「感覚鋭敏な新世代たちが、世界滅亡の戦争は起こりえぬと、根拠なく確信しているのです」
と批判的に述べ、核状況下では「世界滅亡の戦争」の可能性が恐ろしいリアリティーを持つ、ということを言っていますが、
1990年代以降(僕が物心ついてから)、少なくとも僕ぐらいの年代の人間は、その滅亡の可能性のリアリティーを、サブカルチャー的想像力(漫画、アニメ、ゲームなど)の中に閉じ込めてしまいました。
そして皮肉なことに、そのような「世界の終わり」を「(望んでもやって来ることのない)不可能なもの」と感じて、密かに憧れるようにすらなったのです(ロマン主義)。
どうしてこんなことになったのか。

冷戦の終結によって、アメリカとソ連による「大きな、ただひとつの対立」という大きな風呂敷がなくなり、
その風呂敷が消えた下から、局所的な多数の対立(民族紛争)がボコボコと姿を現しました。
(もちろん、それらの紛争は冷戦終結以前にも存在していたわけですが、風呂敷に隠されていました)
それらの局所的な対立や戦争においては、核を使うことは愚策です。
ある土地をどちらの民族が占めるかで争っているのに、そこで核兵器を使って土地そのものを汚染して人が住めない状態にしてしまっては、まったく意味がないからです。
だから実際、90年代以降の戦争において、核兵器が実際に使用されることはありませんでした。
いわゆる「抑止力」として以外に、核兵器が戦争において持つリアリティーというのは、感じられなくなってきたのです(変な言い方ですけど)。
(しかも、戦争のきっかけとしてまずは核兵器の保有のことでイチャモンをつける、というやり方が常套手段になった感があるのは、これもなんとも皮肉なことです。21世紀の現代における核兵器は、いわゆる「抑止力」か「突っ込みどころ」でしかないわけです)

……ですから、2010年代に生きる我々の大半は、「感覚鋭敏な新世代たち」でなくても、正直言って、「世界滅亡の戦争は起こりえぬ」と、経験的に「確信」してしまっています。
というか、「熱核戦争による人類の滅亡」のことなどほとんど考えもせず、
むしろ、終わりのない閉塞感の中の生活をどうやって生き抜くか、という問題のほうに汲々としています。

これは、「80年代後半の大江の、未来への見通しが間違っていた」ということではないと僕は思います。
ある意味、大江が思っていたよりも悪い方向へ来たのかも知れません。
核兵器のリアリティーを前にした「巨大なニヒリズム」は、克服されたのではなく、回避されたのでもなく、常態化したのです。
だって、いまも世界中にはとんでもない量の核兵器が存在しているのに、我々は怖がりもせずに暮らしているではありませんか。
僕自身、リアリティーを持ってそれらを怖がり続けることはできません。

「普段、べつに怖くない」ということのほうが、よく考えれば不気味です。

「怖がる」とはどういうことでしょうか。
自分にとってよく分からない何か、自分がコントロールすることのできない何かを、人間は怖がります。
我々が「怖がる」対象は、「他者」とか呼んでもいいですけど、要するに「異物」です。
「異物」としての核兵器は我々の外側にあり、我々を脅かし、怖がらせます。
しかし、その何らかの対象が我々の中に取り込まれ、「内面化」されたとき、我々はそれを怖がらなくなります。

「異物」としての、我々を怖がらせる原子力技術は、核兵器でした。
「内面化」され、我々が怖がらない(ようになってしまっていた)原子力技術は、原子力発電です。

正直に言って、1990年代から2000年代にかけて(つまり僕の人生の大半ですが)、僕は、「原子力発電は人類によって完璧にコントロールできると言えるものではない」と頭では思いながらも、その事故の可能性について、リアリティーをもって「怖がる」ことはありませんでした。
核兵器という「異物」の脅威が磨り減った(ように思われた)時代に、「内面化」されていた核の力によって起こった危機、それがこのたびの原発事故なのです。

結論ではなく、前提として、我々はいまそういう時代にいます。
「巨大なニヒリズム」の中で「積極的な希望へのヴィジョン」を見出さねばならない、という大江の文学的課題は、2012年のいま、こういう状況の中で、条件自体を大きく修正したうえで再考されなければ、僕たちにとって「役に立つ」ものとはならないでしょう。
(大江は『小説のたくらみ、知の楽しみ』の中で、「役に立つ小説を書かねばならぬ」と明言しており、そこがこの人の素晴らしいところだと僕は思います)

で、ここから先は、理論的にも実践的にも、今後の課題になるわけですが、
いまは2つの事柄についてだけ、ちょっとアイディアを書いておきたいと思います。

(1)「希望」について

「希望」の反対語は何なのでしょうか?
もちろん「絶望」ですが、これを別の言葉に言い換えることによって、我々が求めるべき「希望」の形を、より明確にすることができるかも知れません。

1980年代の大江にとって、「希望」の反対語は「巨大なニヒリズム」であり、より端的には、「滅亡」でした。
2010年代の我々にとっては?
やはり「希望」の反対語は「巨大なニヒリズム」であり続けているでしょう。
そしてその「ニヒリズム」の内実は、僕が思うに、「無力感」です。
「自分が何をしようと、世界は特に良くならないし、悪くもならない」という「無力感」を心に深く刻まれた人間は、基本的に何をしてもよく、何をしなくてもよく、行動の基準がなくなります。
(これは、「神がいなければ、善悪の基準がなくなり、すべてが許されてしまう(だからこそ神を在らしめねばならないが、しかし自分は神を信じられるのだろうか?)」というドストエフスキーのテーマとほぼ同じです)
社会的、政治的に、「無力感」を何とか取り払わないと、今後、個人が倫理を持って生きることはできないだろうと思います。
そして逆に、人間は、自分自身の倫理を持たなければ、いわゆる「元気」になれないのではないか?

(2)「顕現としての人間存在の不滅性」について

これは、『小説のたくらみ、知の楽しみ』の最重要キーワードであり、大江が文学の存在意義の中心に据えているものです。
もともと宗教学者エリアーデの用いた概念で、どういうことかというと、
「なにものも私が生きたという事実を、私がいたという事実を、それが短い間であれそうだったという事実を、あらためることはできない」
ということです。
そして大江にとって「顕現としての人間存在の不滅性」とは、
たとえ核兵器が人類を滅ぼし、そのとき、自分と障害を持った自分の息子が為すすべもなく死んでしまうとしても、自分の息子が生きたという事実自体は、けっして取り消されない、
ということです。
だからその「人間存在の不滅性」を証し立てるために、自分は小説を書く、というわけです。

まずは率直に、素晴らしい考え方だと思いますし、とても勇気づけられます。
そのうえで、「人間存在の不滅性」は文学を必要とするのか、文学などなくとも「人間存在の不滅性」は自足してしまうのではないか、とも思われます。
そして、「人間存在」が何であれ素晴らしいものであり「不滅」であるのなら、極端に言えば、社会を良くすることも、「良く生きる」ことも、必要なくなるのではないか。
……またもやドストエフスキーのテーマですが、このあたりのことを、あまり形式的な思考にハマりすぎないよう注意しながら、今後考えていきたいと思います。

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