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zoom RSS 【読書メモ】『文学のプログラム』

<<   作成日時 : 2012/03/15 08:42   >>

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山城むつみ『文学のプログラム』(講談社文芸文庫)読了。

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この本は、4つの文芸評論から成る評論集です(単行本は1995年に太田出版より刊行)。

(1)「小林批評のクリティカル・ポイント」(初出1992年)
1964年に終止符を打たれた小林秀雄のドストエフスキー論について論じたもの。

(2)「戦争について」(初出1993年)
太平洋戦争に対する文学者たち(小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎)の姿勢について論じたもの。

(3)「万葉集の「精神」について」(初出1995年)
保田與重郎の『万葉集の精神』(1942年)について論じたもの。

(4)「文学のプログラム」(初出1992年)
日本語の文の歴史(漢字の輸入から言文一致まで)について論じたもの。

素晴らしい本です。
文章は読みやすく、論旨もクリアで、独創的で、レトリックや分析に淫するところがありません。
世間で「文学」だと思い込まれているものに対する鋭い批判の書であるにもかかわらず(というか、であるからこそ)、文学への愛と希望に満ちています。

 (1)「小林批評のクリティカル・ポイント」

山城さんがどういうことを、どういうふうに書いているかは、(1)の「小林批評のクリティカル・ポイント」を紹介すれば分かっていただきやすいでしょう。

山城さんが言うには――
・小林秀雄は、ドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』について論じるとき、
「ドストエフスキーが本当に素晴らしい作家であるなら、その作家の作品を読んで自分が考えるくらいのことはドストエフスキー自身すでに考えているはずで、それでもそれをあえてドストエフスキーは書かなかったのだから、私がいまさら自分の解釈などを書いても意味がない」
と考えた。
・だから小林は、ドストエフスキーを論じるとき、作品に対する自分の解釈など書かなかった。
・では小林は、ドストエフスキーの作品を前にして、いったい何をしたのか。
・小林は、『罪と罰』や『白痴』を何十回と、ただひたすら読み込んだ。
・そして、まるで読者と一緒に『罪と罰』や『白痴』を読むようにして、それらの作品の中のある場面について自分の言葉で書いてゆくのだが、それはまさに、『罪と罰』や『白痴』そのものを小林がまた書いている、といったおそろしく荒唐無稽な試みになる。
・そこでは『罪と罰』や『白痴』が反復されているのだが、一字一句変えずに引用するわけではない以上、ドストエフスキーの書いた『白痴』と小林の書いた『白痴』は絶対に一致しない。
・この不一致こそが、「小林がドストエフスキーという他者と出会った」という出来事そのものを証し立てており、「解釈」(他人の作品をダシにして「自己理解」を語ること)を超えた「批評」の生まれる地点であった(小林にとっては)。
・しかも、近代の小説というもの自体、上のような「決して一致しない反復」からしか生まれえないものである以上、小林のドストエフスキー論は「批評」であると同時に「創作」であった。
・もちろん、小林のやったことはとんでもなくバカバカしいことではあるが、「読むこと」と「書くこと」、「創作」と「批評」の狭間で、徹底的に文学に忠実であった結果がこれなのであり、小林の仕事の中では最も意義深いものだ。
――とのことです。

僕が別の角度から言い換えると(山城さんも書いていることですが)、以下のようになります――
・ある作品を読むとき、読者は作者に対して、絶対的な「遅れ」を担わされている。
・「評論家」気取りの読者が、読んだテキストについて何か言いたくなることがしばしばあるが、読者は作者に対して絶対的に「遅れ」ているのだから、作者が答えなかったことを答えた気になどなってはならない。
・ただただひたすら、自分にとっての異物であるテキストだけと向かい合い、それを読めばよい。

こういう言い方が「作者」を権威化してしまうことは、また別の問題になるので、「作者」という言葉を「テキスト」と言い換えてもよいのですが、
これこそが、山城さん自身の「批評」を貫いている倫理でもあります。
つまり、偉そうに批評なんてしなくてもいいんじゃないか、ただ読めばいいんじゃないか、という、批評にとって自滅的な疑いを忘れないこと。
また、自分のエゴと他者とをつきあわせたとき、他者に重きを置くこと。

 (2)「戦争について」

ここでは、文学者と太平洋戦争との関わりが論じられています。

大雑把に言うと――
・小林秀雄は、逃げを打ったずるい奴。
・保田與重郎は、戦争による大いなる破滅に「美」を見てしまう人間の本性から目を逸らさなかったぶん、文学的真実に忠実だったと言える。
・坂口安吾は、破滅に「美」を見ながらも、さらにそのことに対して「後ろめたさ」をも感じたところが本当に文学的であり、保田よりもさらに優位にある。
――という感じです。

文学者の社会参加(アンガージュマン)の問題が主題であり、
文学者たるもの、「自分の筆だけで社会的に戦える」と信じて書いてゆかなければならない、という主張には感銘を受けます。

 (3)「万葉集の「精神」について」

保田與重郎が、社会的な危機の感覚の中、万葉集を論じることで、あるべき日本人の「精神」を示そうとした『万葉集の精神』。

非常にロマン主義的な(当たり前ですが)その書物の魅力を、まず充分に認めた上で、
山城さんは、「精神」に取り込まれえない万葉集原文の(文字の)物質性を取り上げます。

万葉集から「詩の火」を読み出そうとする保田の情熱は、じつは、万葉集を読めていないのではないかという恐れと表裏一体だったのではないか。

 (4)「文学のプログラム」

これは柄谷行人の『日本精神分析』に通じるような内容です――

・日本人は、漢字を輸入した後に作られた「漢文訓読」というプログラムのせいで、強烈な外部と直接に触れ合うことができなくなった。
・異物と接触したときのインパクトは中和され、やがて外部は同化されてしまう。
・だから日本語で何を書こうと、何を読もうと、結局はむなしいのではないか。


……とまあ、駆け足で内容をまとめてみましたが、息切れ気味です。
それこそ、山城さんが書いたことを僕がもう一度書く、みたいにしなければいけないような気もして……。

この本の山城さんが素晴らしいのは、
「私たちに必要な文学とはどういうものか?」
という根本的な問いを手離さないところです。とりあえず以上。

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