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zoom RSS 【読書メモ】『夢よりも深い覚醒へ』

<<   作成日時 : 2012/03/16 08:35   >>

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大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書)読了。

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社会学者の大澤さんが、ごく最近出版した本で、
「3・11後の哲学」という副題どおり、震災と原発事故を思想的にどう捉えるか、社会的にどのように対処するか、ということが主題になっています。

僕は大澤さんがたいへん好きで、10年ほど前からこの人の本はけっこう読んでいますし、影響を受けています。
この本も、ぜひともすぐ読まなければ、という切迫した思いとともに読みました。

『夢よりも深い覚醒へ』には、大澤さんがこれまでやってきた多様な仕事から、それぞれの要素が流れ込んでいます。
「第三者の審級」など、大澤読者にはすっかりおなじみの(水戸黄門の印籠のような)術語が出てくるのはもちろんのこと、
イエス・キリストが大きく取り扱われるところなどは、最近ベストセラーになった橋爪大三郎との共著『ふしぎなキリスト教』を思わせますし(もちろんそれ以外の著書でも大澤さんはよくキリスト教の話をしてましたが)、
オウム真理教への言及は『虚構の時代の果て』、
「裏返しの終末論」は『「正義」を考える』……。
そもそも、『夢よりも深い覚醒へ』の第一章には、去年文庫になった『文明の内なる衝突』の「補章」がほぼそのまま使われています。
大澤さんが、これまで手に入れたものをすべて使って、原発事故後の日本社会について考えようとしているのが伝わってきます。

昨日読んだ『文学のプログラム』の中で、危機的な時代の中での知識人のアンガージュマン(社会とどう関わるか、その選択と行動)について、筆一本で社会に対して責任を持つべきだ、と山城むつみが述べていたことを思い出しました。
自分がものを考え、書くことが、社会に対して何らかの有効性を持ちうると信じるべきだし、どうすればその有効性を発揮できるのか、真剣に考えなければならない。
『文学のプログラム』を読んだのも、『夢よりも深い覚醒へ』を読んだのも、僕自身がそう思い、考えるためのヒントを求めたからです。

ところで。
僕は大澤さんの著書が大好きですが、「得意」かというと、実はそうでもありません。

大澤さんの議論は、細部においてはものすごく鋭くて説得力があるものの、長いスパンでの論理の繋がりについて考えると、クリアにならない部分がところどころに残る――という印象が、僕にはあります。
細部の論理の繋がりが、まるでアクロバットのように鮮やかで魅力的なため、僕がそれに気を取られてしまう、ということかも知れません。

何を言ってるのか分からない、というわけではないのです。
結論として大澤さんが言いたいことは、とてもよく分かるのです。
しかし、大澤さんの本は、「結論を教えてくれる本」ではないんじゃないか、と感じます。

大澤さんはまず、「ここに問題があるよね」と指さしてきます。
次に、「みんなこんなふうに考えがちだけど、それってよく考えたら間違ってるよね」と言います。
さらに、「意外だろうけど、こういうツールAが役に立つよ。で、ツールAを使って考えられるだけ考えて行き詰ったところで、これまた意外だろうけどツールBを持ってくると、ほら、こうなるよね」というふうに、手取り足取り、考え方を教えてくれるのですが、
この手際が天才的すぎて、常人には真似できないものなのです。
(なにしろ、ツールAが「ノンアルコール・ビール」で、ツールBが「江夏豊」だったりするのですから!)

そんなわけですから、大澤さんがアクロバティックに繋げていった論旨を、アクロバット抜きに要約して説明しようとしても、
大澤さんの本を読んでいない人は、「はあ?」と言うだけかも知れませんし、
または、「そんなあらすじだけ聞いても、まったく面白くないし、自分にとって役にも立たない」と言うかも知れません。
(だから、『夢よりも深い覚醒へ』の要点のまとめや論旨の要約は、やればできるでしょうけど、ここではあえてしません)

……これって、何かに似てるなあと思ったら、文学なんですね。
大澤さんの本は、僕にとって文学(のようなもの)なのです。
意味不明な、けれど魅力的な言葉を多く含む詩、あるいは、解釈しきれない聖典(聖書とか)みたいなものなのです。
大澤さんが考えたことを参考にして、僕自身が考えていかなければいけないんだと思います。

一般的に、書物には、(1)僕たちの代わりに考えてくれる書物と、(2)僕たちに考えさせる書物、の2種類がありますが、
大澤さんの本は、(1)みたいに見える(2)なのです。

何度か読まなければならない本が、また増えてしまいました……。

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一点だけ、原発について、この本を読みながら思ったこと。
原子力発電所を稼動させ続けるには、明らかに社会正義にもとる不平等や搾取や加害を、何点も黙認し続けなければなりません。
立地の問題、労働者の問題、放射性廃棄物の問題などです。
「電力を調達する代案がない限り、反原発や脱原発など絵空事だ」という主張がまかり通るのだとしたら、
つまり、「代案がないからといって、悪が為されている社会を容認することはできない」と主張することが甘っちょろいのだとしたら、
社会に正義も平等も必要ない、ということになります。
正義とか平等とかを社会的に実現させていこう、という建前すら崩れてしまいます。

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