documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 【読書メモ】『福田恒存 思想の〈かたち〉』

<<   作成日時 : 2012/04/13 07:59   >>

トラックバック 0 / コメント 0

浜崎洋介『福田恒存 思想の〈かたち〉』(新曜社、2011年)読了。

画像


福田恒存(1912-1994)は、主に戦後に活躍した評論家であり、シェイクスピア翻訳家であり、演劇人であり、保守派の思想家でもあります。

この研究書の著者の浜崎さんとは、以前勉強会でお会いして、その博識と深い洞察にたいへん感銘を受けていました。
これまで読みきれずにいたのは、もろもろ事情がありつつ、ひとつには正直に言うと、浜崎さんにお会いするまでは僕が福田にあまり関心を持たずにいたため、専門的な内容になかなかついていけなかったからです。
しかし、文学や思想が人間にとってどんな意味を持ちうるのか、そのことについて考えるヒントが絶対にこの本の中に書かれているはずだ、という確信は、浜崎さんにお会いしたときからあって、それを確かめるために読み通しました。

専門的な内容のため、かなりざっくばらんにまとめます。

  (第一章)

戦前の福田(最初期)がどのような思想を育てたか、その思想をどのように発展させながら戦後を迎え、文芸評論家として注目されるに至ったか、が論じられます。
小説を扱う批評家としての、初期の福田の姿です。

まず福田は横光利一を対象として論じます。
そして横光の小説の中に、超越的な位置に置かれた作家の自意識を見出し、これを批判します。
「前衛的な小説家である私は、凡俗の世界の中で起こるあらゆることを見通し、描き出す技術を持っている」という驕り(芸術家の高慢な自意識)に対して、福田は「カッコ悪いよ」と言ったわけです。

つまり、福田の目には〈芸術家/俗人〉という十九世紀的な対比を前提とし、「芸術家」を気取る横光の「自意識」そのものが、フローベールがその小説で剔抉した、「凡俗」からの「自己優越」を計算すること自体の「凡俗」性(ボヴァリズム)として映っていたということである。そして福田は、二十世紀における「芸術家」とは、もはや〈芸術家/凡俗〉という十九世紀的対照性に安住できず、逆に「芸術家」である自己を不断に問い返すことでしか自らの「芸術家」性を証明し得ないという逆説のなかにしか現われないというのである。[下線引用者]


下線部はつまり、
「おれって芸術家ぶってこんなこと書いてるけど、別におれが芸術なんかやることの正当性は客観的に存在するわけじゃないし、何の資格があってこんなことをやっちゃってるんだろう」ということを真摯に考えられる人しか、芸術家の名には値しない、
ということです。
(大衆社会では、芸術家も大衆の中のひとりに過ぎませんし、「おれって芸術家だから〜」と言いつのるエセアーティストと本物の芸術家を区別する、客観的な指標はないわけですから)
で、この「逆説」の考え方は、日本浪曼派の保田與重郎の「イロニー」の概念から大きく影響を受けたものだ、と浜崎さんは説明します。

次に福田が(横光よりも断然優れた作家として)論じるのは、嘉村磯多です。
嘉村磯多は「私はダメなクズ人間なんだ」という自虐に徹した私小説を書いた小説家なのですが、そこに福田は、優れた「イロニー」を見出します。
浜崎さんの(そして福田の)言葉で言えば、嘉村の私小説では、「他者への“後ろめたさ”」や「羞恥感情」が、「芸術家」の「自尊心」をも上回ってしまう。
書くことにより作家としての自分の優位性をこっそり確保する、という凡俗な「自意識」のからくりを、嘉村は逆転させた(書けば書くほど自虐が進むから)、というわけです。

しかしこの、自分の生活を素材に書き続けられる自虐的イロニーは、エスカレートするのを止められませんから、作家自身の生活もどんどん惨めになり、カスカスになるまで食いつぶされてしまいます。
イロニーの、自己喪失に至る無限後退(どこまでも止まらない自己言及のエスカレーション)を、どこかで食い止められるようなものが、芸術には必要です。
(それがないと、芸術の内容が自己言及だけになって不毛になるか、素材とされた自分の生活が崩壊するか、どちらかでしょう)
そこで福田は、芥川龍之介の「比喩」、太宰治の「道化」、三島由紀夫の「仮面」などといった文学的アイディアにそれぞれ注目してゆくことになりますが、
それらの作家たちの自意識の「イロニー」も、それぞれ形は違いますが、結局自殺によってしか無限後退をとめられず、
最終的に彼らと運命を共にすることはできないと思った福田は、自意識のジャンルと化してしまった小説に関わるのをやめます。

  (第二章)

それで福田はどうなったかというと、文芸評論家をやめて、演劇の分野に踏み出します。

演劇の登場人物は、自分を取り囲む「全体」を把握しきれないまま、「部分」として生きています。
他者から限定された、不透明な世界の中で、結果も読めないままにとにかく「行動」せざるをえません。
この不透明さこそが、透明を装う自意識のイロニーの無限後退を食い止めてくれます。
そして劇は、「全体」を自意識によって把握しつくすことはできない、という形で、自分をとりまく「全体」への実感を、登場人物に与えてくれます。

このあたり、非常に興味深い演劇論でもあるのですが、かなり論旨も複雑なので、精確にご紹介するのは難しいです。
ともかく、演劇との実践的な関わりを通して、福田は自意識のジレンマに対してクールに距離を置き、他者との共同の場や「全体」に重きを置いた思想を打ち立てることになります。
そのような思想こそが、福田の「保守」思想なのです。

  (第三章)

福田の保守思想のあり方を見るため、浜崎さんは、戦後の国語国字改革運動(現代かなづかいが普及されたこと)に対する福田の批判(「歴史的かなづかひ」擁護)に注目します。
言葉による演技的な模倣、というのがポイントになるのですが、このへんをまとめるにはちょっと時間がかかりそうなので、今回は割愛します(面白かったんですが)。


  *


ちなみに。
僕はこれまで福田恒存に対してあまり関心はなかったのですが、いちおう戦後文学専攻なので、「政治と文学」論争というのは知っています。
そして、福田の書いた「一匹と九十九匹と」という論文も、昔読みました。
で、去年の初め頃、僕よりも若い人が作ったお芝居を観たとき、誤解にもとづいてこの「一匹と九十九匹と」が言及されており、憤慨した覚えがあります。

その若い人の作ったお芝居では、「一匹と九十九匹と」を、
「政治で救える人は全体の99%、残りの1%を救うのが芸術(というか演劇)」
というふうに解釈していたのです。
これは間違った解釈であり、もしも福田の論文をちゃんと読んだのなら、そんな解釈はできないはずです。
「一匹」と「九十九匹」は、そもそも福音書の中のイエスが語った比喩ですから、単なる人数比の問題として読むことはできませんし(そんなこと、もちろん福田もやっていない)、
「政治だけで100%の幸福をゲットできる人々」と「文学によってしか幸福を得られない人」とを切り分けるなんてことも、できるはずがありません(それこそ、芸術家の自己優越を計算する自意識の凡俗性ではないでしょうか)。

福田の「一匹」と「九十九匹」を、ごく当たり前に解釈するなら、
――人間の生の条件の大部分は、政治的に制度を整えることで改善されてゆくだろうが、それだけで100%の幸せをもたらすことはできない、
というふうになると思います。
これは、浜崎さんも論じておられる、「部分にすぎない人間が全体を把握しつくすことはできない」という福田の思想の根本にも関わることだと思いました。
「全体」を見通したようなふりをして、そのうちの「九十九匹」を政治に、「一匹」を文学に割り振る、などという解釈を福田恒存が知ったら、悲しんだことでしょう。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

【読書メモ】『福田恒存 思想の〈かたち〉』 documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる