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zoom RSS 【読書メモ】『明るい部屋』

<<   作成日時 : 2012/05/05 07:40   >>

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ロラン・バルト『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房)読了。

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バルトは20世紀フランスの思想家で、この人抜きには現代思想は語れない、という知の巨人です。
僕はこの人の本はこれまで4、5冊しか読んでおらず、遺作にして超名作といわれるこの『明るい部屋』は初読でした。

「写真についての覚書」という副題を持つこの書物は、写真の本質とは何か、という問いのもとに書かれたものです。
しかし、写真技術の歴史や、個々の有名作品に対する芸術論的な論考が書かれているわけではありません。
この本を書きながらバルトが考えたのは、「私が写真を見る、というのはどういう出来事なのか」という問題でした。
自分を「写真を撮る人間」とみなすこともできず、「被写体」として写真に写ることにも居心地の悪さを感じていたバルトは、もっぱら「写真を見る人間」としての「私」にこだわって、そんな「私」にとって写真の本質とは何なのか、ということを探究したのです。

だから、この本の中で最も大きく取り上げられた写真は、バルトの母の写ったものでした。
バルトは母の死後、愛する母の姿を追い求めて、妻を探しに冥府へくだるオルフェウスのように、遺された写真を整理してゆきます。
そんな中で、バルトが「これこそ母の真実の姿だ」と感じたのは、奇妙なことに、バルトが生まれるよりもはるか以前に撮られた写真に写った、少女時代の母でした。
この出来事から、バルトは、写真を見る人間と被写体との関係、写真と時間との関係、などなど、さまざまなことを考えてゆきます。

しかし、バルトはその特権的な一枚の写真を、この本の中に載せません。
(他にはたくさんの写真を載せているのに、です)
なぜならば、その母の写真は、「私」(バルト)にとってのみ重大なもの、「私」(バルト)だけを突き刺すものだからです。
このように、バルトは「私」という視点(およびその固有性)を手離さずに、そこにこだわってこの本を書いており、その姿勢はほとんど「倫理的」と呼びたいほどです。

その結果『明るい部屋』は、(たいへん平易な文章で綴られていることもあって)文学的な香りの高いエッセイとしても読めます。
もっと言えば、たとえばプルーストの『失われた時を求めて』のような小説の中に、この本の内容がそっくり埋め込まれていても、そんなに不思議はないようにも思えます。

『明るい部屋』の理論的な要旨は、おそろしく単純です。
人が写真を見たとき、そこに見出すものは、大きく2つに分類できる。

ひとつは、一般的な意味での関心に引っかかってくる「ストゥディウム」という要素。
これは、たとえば戦地の報道写真を見たとき、「現地の人はこういうところで暮らしているんだなあ」と思ったり、昔の人の生活を写した写真を見たとき「当時の人はこういう服を着ていたんだなあ」と思ったりする、そういう要素です。
文化的、社会的なコードに回収される要素、というか。
ラテン語の「ストゥディウム」はたぶん英語の「study」の語源でしょうから、僕はこの言葉に、「勉強になる」という内容を代入しながら読んでいました(それでほとんど意味は通りました)。

もうひとつは、突然写真から飛び出してきて、見ている「私」を突き刺し、傷を負わせる、「プンクトゥム」という「手に負えない」要素。
これは文化的、社会的なコードでは測ることができず、偶然、「私」だけに突き刺さってきます。
そして「私」が「プンクトゥム」を見出した写真こそが、「私」にとって忘れられない写真になるのです。

バルトはこの「ストゥディウム」/「プンクトゥム」という概念をいろいろ変奏しながら、写真について語ってゆきます。
分かりやすくてたいへんありがたい反面、理論的には、「こんなにチョロくていいのかな?」という気もします。
こんな形で一般性と固有性を対比させる(そして固有性の優位を謳う)というのは、図式としてはちょっと紋切り型にすぎるからです。

ただ、「ストゥディウム」と「プンクトゥム」は理論の入り口であって、後半では議論が多方面に広げられ、いくつかの論点が(短くふれられるだけでありながら)かなり興味深いですし、
それに、のびのびとしたバルトの筆づかいを追っているうちに、「紋切り型だからといってダメだと決めつけるのも、これもまた紋切り型なのかもなあ」と思わされもします。
実際、バルトの美点であるおおらかさ、のびやかさは、この本に愛らしさと美しさを与えています。


補足。

・バルトの概念「ストゥディウム」は、ベンヤミンの概念「気散じ」と関係がありそう。
・「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の対概念は、最近亡くなった吉本隆明の「指示表出」と「自己表出」に対応しそう(ただし、吉本の「指示表出」と「自己表出」が表現する主体の側の問題として分析される(たぶん)のに対して、バルトの「ストゥディウム」と「プンクトゥム」は表現を受け取る側の問題なので、いわば逆向きなのですが)。

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