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zoom RSS 【読書メモ】『門』

<<   作成日時 : 2012/05/09 16:25   >>

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夏目漱石『』(角川文庫で)再読。

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じつはいま、人の書いたものを悠長に読んでいる余裕はないのですが……。
比較的短く、しっかりした構成と主題のあるものを読むことで、「自分にとって理想的な小説とはどういうものか」を考えたい、という不純な動機から、今回これを読み返しました。

『門』の冒頭では、のどかな秋の日の、宗助・お米夫婦の日常が描かれます。
いかにものんびりした場面のように思われますが、宗助の神経衰弱や、家のすぐ脇の崩れそうな崖のことがさりげなく語られ、この夫婦が危うい均衡の下で暮らしていることが伝わってきます。

宗助にとって、目下の悩み事は、弟の小六をめぐる金銭問題です。
親の遺産を相続する折り、宗助がすべてを叔父に丸投げしてしまったために、この金銭問題がいま浮上してきています。
したがって、宗助はこの問題を今度こそ解決しなければならないのですが、
宗助自身も妻のお米も社会的に消極的すぎて、うまく行動することができません。
というのも、宗助は昔、自分の親友である安井という男からお米を略奪しており、そのとき以来、宗助とお米はいわば世間に顔向けできなくなってしまっているのです。
(実際に社会的なペナルティを負いましたし、また自分たち自身でも、安井の人生をメチャクチャにしてしまったという罪障感から、積極的な社交性を持てなくなっています)

そんなとき、宗助はひょんなことから、坂井という裕福で社交的な男と親しくなります。
この坂井は、宗助が道義的な罪を犯さずに歳を重ねていたらこういう人になったかも知れない、と思わせるような人物です。
坂井は小六の問題の解決を申し出てくれて、宗助はタナボタ的に肩の荷が下りたと喜びます。

しかし坂井は、皮肉なことに、安井と知り合いでした。
宗助とお米にひどい目にあわされた安井は、紆余曲折を経て満州へ渡り、その後モンゴルで何かやっているらしいのですが、いま一時的に東京に戻ってきているというのです。
安井に対して自分たちのしたことが、坂井に知られたら。
自分がいま坂井と交友関係にあることを、安井に知られたら。
……不安に押しつぶされそうになった宗助は、休暇をとって禅寺に行き、座禅を組むものの、不安をぬぐい去ることはできません。

禅寺から家に戻ったとき、安井は再びモンゴルへ発っていて、宗助の危惧していたような事態は起こらなかったことが分かります。
とりあえず、不安は目の前から遠ざかりました。
が、いつまたどんな形で、自分たちの現在が脅かされることか……。
不安がまるで季節のように、いつまでも回帰し続けるであろうことを暗示して、この小説は終わります。

本格的な小説は、社会と人間との接点というか、交渉を描くべきである(でないと物足りない)と僕は考えているのですが、
『門』という小説は、宗助・お米夫婦と社会との没交渉をとりあげることで、逆説的に社会という主題を追究しています。

宗助とお米は、社会に背を向けて、2人だけでひっそり寄り添って暮らしています。
また宗助は、親の遺産の受け継ぎ方が分からず、いわば伝統からも切り離されています。
タテの伝統からもヨコの社会関係からも切り離された、近代の不毛な個人主義(その不毛さは、宗助・お米夫婦に子供ができない、という形でも表現されています)。
その個人主義は、本人たちが主体的に(つまり、「個人主義で生きよう」と思って)選んだものではなく、自分たちが他人を犠牲にしたことから来る罪悪感の結果として生まれたものだ、というところが、『門』のすごいところだと思いました。
「近代人は個人主義になったんだよ」と述べるだけではなく、「なぜ個人主義が生まれたのか」という成立以前の場面を、小説という形で描いているところに、漱石のテーマ探究の徹底ぶりが窺われます。

※ また、過去から不意に再来する何かが、現在の自分にとって非常に不気味で危機的な存在となる、というところは、フロイトを思わせます。

※ 技巧面でいうと、新聞連載小説だったこともあるのでしょう、一章ごとの場面転換と展開の仕方に特徴が見られます。
章や段落の冒頭で、現在時のアクション(の断片)を描いた後、そこまでの経緯を説明し、また現在時間に戻って場面を展開させる、というやり方をしているところが多い。

不純な動機から読んだのでしたが、非常に身につまされる、良い小説でした。
漱石の小説は、社会があるのと、個人があるのと、それらが三人称で書かれるのが良いですね。

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