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zoom RSS 【読書メモ】吉本隆明『擬制の終焉』

<<   作成日時 : 2012/10/29 21:50   >>

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ずいぶん長い間、ブログを書かずにいました。
2012年の夏から秋にかけては、引っ越しをしたり転職をしたり旅行をしたりと、いろいろなことをやってきましたが、本は吉本隆明のものを最初から読んできました。
先日読んだのは、『擬制の終焉』(現代思潮社、1962年)という一冊です。

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これがどういう本かというと――

六〇年安保闘争に「六月行動委員会」のメンバーとして参加した吉本は、その過程でつねに全学連主流派とその指導層をなしていた共産主義者同盟(ブント)の思想的、行動的な同伴者であった。[……]だが安保闘争はあの樺美智子が亡くなった六月一五日の国会突入闘争を頂点としつつ六月二三日の安保条約自然承認をもって実質的に終焉した。その後の過程でブントは解体し、活動家の多くが革共同へと吸収されていく。[……]『擬制の終焉』の第一部には、安保闘争敗北後の状況において、ブントの遺産をハイエナのように簒奪しようとする共産党、新日本文学会、丸山眞男ら戦後民主主義者、革共同らを相手に展開された激烈な闘いのドキュメントが収録されている[……]

(高橋順一「解題(「頽廃への誘い」)」『現代思想』2012年7月臨時増刊号)


全体は4部に分かれており、
 T → 政治思想評論
 U → 文学論
 V → 作家論モノグラフ
 W → 「これらは敗戦後数年間の極く初期にかかれたものである」(あとがき)
となっています。

以下、各論文の要旨をまとめます。

  T

□「“パルタイ”とは何か」(1960.6)
倉橋由美子の小説『パルタイ』にたとえて、旧左翼(特に日本共産党)と新左翼との対立、および前者の空洞化を描く。

□「擬制の終焉」(1960.9)
60年安保闘争では、旧左翼も新左翼も、自らの指導性に拘り、大衆から乖離した。
この錯誤と何重もの内部抗争のため、初めて社会的疎外と戦う機会を得たはずの大衆に、権力が移行しなかった。
「前衛」という擬制の終焉と、敗北を受け止め、真の革命を準備せねばならない。

□「白昼の部分と夜の部分」(1961.6)
安定化し膨張する戦後資本主義(白昼の部分)と、そこで疎外された下層労働者の生活(夜の部分)との二重構造があり、特に前者のせいで現代社会の総体的分析は困難だが、双方をひとつながりとして把握したうえで、大衆に根づきうる思想によって、真の社会変革を目指すべし。

□「慷慨談」(1961.2)
深沢七郎の「風流夢譚」とそれをめぐる右翼テロ事件をとりあげ、戦後社会において権力の問題の核心はもはや天皇制にはなく、独占資本にあることを説く。

□「葬儀屋との訣別」(1961.6)
60年安保闘争の後、新左翼の各勢力も、闘争の成果を自陣の手柄にしようとし、堕落してきている。
彼らは現時点を「変革期」=革命前夜だと言うが、本当は、敗北の後の「過渡期」であり、現在の諸勢力は、前期集団として否定され、踏み台にされねばならない。

□「現代学生論」(1961.4)
学生とは、まだ何も定まっていない宙吊りの時期だから、いまのうちに、世間の常識や支配的イデオロギーにとらわれずにたくさんのことを吸収し、思想の自立を守れる生活人へと育っていってほしい。

□「頽廃への誘い」(1961.6)
60年安保後、新左翼の各勢力は、前衛が労働者運動を指導する、という既成左翼と同型の誤謬に陥り、思想的頽廃の中で陣地争いに明け暮れている。
しかし、そんな考え方の前衛に、日本の労働者は決してついて来ない。
楽天的な各勢力は頽廃するに任せ、全否定してやろう。

□「現状と展望」(1961.12)
60年安保後、対立しているように見える「構造改革派」と「革共全国委(革命的共産主義者同盟全国委員会)」は、ともに吉本を「庶民を物神化している」、「前衛を否定している」と批判することで、共通の病原を露呈した。
革命の指導者だなどという前衛意識を捨て、消え去る媒介者としての謙虚な自覚を持ち、大衆の自己覚醒のときまで黙々と実践を続けよ。

□「前衛的コミュニケーションについて」(1961.12)
前衛が大衆をオルガナイズして、日常生活意識から覚醒させ、革命へ導く、という方向のコミュニケーションではなく、大衆の日常生活実体そのものを意識化することで、支配の秩序を打倒する思想を生む、という方向のコミュニケーションを考えるべき。

□「混迷のなかの指標」(1961.12)
すぐに革命は起こせないし、前衛意識など持っていてはいけない。
いつか大衆が自らの力で覚醒したときに、真の前衛を彼ら自身が選べるよう、思想的・実践的に準備しておくべき段階である。
また、真にマルクス思想にかなう芸術・文学理論を用意する必要がある。

□「未来は負い目」(1961.12)
新左翼の擬制前衛らは、大衆の意志と関わりなく、互いに急進性を誇示しあう。
旧左翼は旧左翼で世界の社会主義化に楽天的だが、既成のソ連・中国の共産主義は思想的優位を持ち得ていない。
我々は、新旧左翼どちらも、否定的に乗り越えねばならない。

□「日本のナショナリズムについて」(1962.4)
従来の日本のナショナリズムは、天皇制イデオロギーと生活思想とによって上下方向に張った自然としてあり、また、天皇制を利用することなしにはインターナショナルな領域に参入できなかった。
敗戦によりこの上下の張力は切れ、ナショナリズムは水平に拡散した。
このことを踏まえたうえで、グローバリゼーションに対応しよう。

  U

□「近代精神の詩的展開」(1962.4)
文学における「近代的」なものとは、単に旧道徳から自由になることではなく、実生活感情として近代人の自意識をとらえる方向と、表現意識として生活感情を言葉の中に架空化する方向と、双方に展開した。
特に後者を軽視して、実生活だけから文学を評価することはできない。

□「マルクス主義文学とは何か」(1961.9)
既成左翼の社会主義リアリズム論は、社会に対する文学の効果なるものをきわめて表層的に捉えた現象論にすぎない。
この誤れる理論を否定して、自己表現としての面を拾い上げ、本質論から表現論に至る新しい理論を作り上げる必要がある。

□「想像力派の批判」(1960.12)
想像力とは、個人が社会から疎外されたところに生じる意識の作用である。
サルトルはこのことを逆側から看破し、想像力と自由を関連づけた。
江藤淳は疎外を指し示せてはいないが、自由を論じているし小林秀雄以来の批評原理に反措定を示せたからかなりマシ。他の批評家はダメ。

□「戦後文学の転換」(1962.4)
社会の膨化と不動化の進む現代の情況は、教条的な社会主義思想や娯楽という思考停止語によらず、新しい思想によって捉え直されねばならない。
家庭の崩壊に怯える狭い私生活を描くことで、無意識のうちに逆説的に社会情況を象徴している作家たちだけが、いまのところマシ。

  V

□「斎藤茂吉」(1962.3)
斎藤茂吉の短歌は、斎藤茂吉の持っていた近代的な個我意識と、彼が身につけた短歌形式の強いる伝統的声調とのせめぎあいとして、評価・分類できる。

□「萩原朔太郎」(1960.12)
萩原朔太郎にはやや異常なまでの生理感覚があり、それを形象化することで日本の近代詩に未踏の表現領域を拓いた。
彼はさらに過剰な生理感覚の思想的意味づけを求め、詩としては挫折した生活者というイメージを実らせ、思想としては自然主義とプロレタリア文学への否定に至った。

□「室生犀星」(1961.5)
室生犀星は自分の原点である出生を恥と思い込み、その感覚を十全に表現するため詩から散文に転じた。
彼は試行錯誤の中、出生にまつわる妄念を対象化し、生理感覚と自然の中に解消していった。
そんな文学は当然、社会を捉えることはできないが、そこで生じる苛立ちや不安も興味深い。

□「小林秀雄」(1961.2)
小林秀雄は個人の宿命を重視し、個人に宿命を与える現実は分析の対象とせず、戦争などの歴史過程を抗いえぬ必然として受け入れたため、「現実の必然から圧迫されたとき、初めて人間の内部に自由が起こる」という、逆説的かつ間違った論理に至った。
これは戦後も変わっていない。

□「本多秋五」(1962.2)
本多秋五は戦争の中で、机上のプロレタリア文学理論を捨て、人間の自由と歴史の必然の問題を、現実の生活そのものからさぐる方向へ移行しようとした。
彼のトルストイ論は力作だが、トルストイが小説全体で表現した自由と必然の絡みあいを、プロレタリア文学理論っぽく矮小化している。

□「埴谷雄高」(1960.4)
埴谷雄高の政治論文を、レーニン主義の逆転、政治嫌悪、などから捉える。
埴谷雄高は、政治を憎悪から生まれるものとみなし、政治自体の死を目標に設定した。
吉本はこれに対して、憎悪と疎外を自ら論じ、埴谷の問題点をあぶり出す。
(……のだと思います。ちょっと難しすぎて、完全に理解はできていません)

  W

□「古典論」(1947.7)
・「歎異鈔に就いて」……『歎異鈔』の中に、親鸞の人間的資質と仏教的な理念との逆説を読む。親鸞は資質としては、理念の体系などよりも人間を大事に思い、人間の生きる悲しみに真正面から向き合ったが、だからこそ逆に理念に惹かれたとも言える。
・「伊勢物語に就いて」……『伊勢物語』の文体の分析から、虚無思想を読み取る。

□「詩と科学の問題」(1949.2)
科学と詩を、ともに「自然を模倣する」ものとして捉える。

□「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法に就いての諸註」(1949.8)
マルクスの理論とランボーの詩的思想は、ちょうど真逆であり対立しているが、情熱と結びついていない方法など無意味だ、という点では、同じくらいの重要性を持つ。

□「方法的思想の一問題」(1949.11)
デカルト、パスカルと比較することによってヴァレリーを批判。
(これもイマイチつかみきれない文章でした……)

この本を読み、また、この本を読むために周辺知識を少しずつ仕入れることで、これまで弱点(たくさんありますが)のひとつだった、安保闘争と新左翼のあたりが、ちょっとずつ分かってきました。
なかなか難しくて、読むのは骨が折れたのですが。

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こんなふうに書き込みをしながら読まないと分からないところがあるので、なかなか進みません。
でも、初期から読み続けてきた結果、吉本隆明のことが好きになっている自分に、はっきり気づいてしまいました。

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