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zoom RSS 【読書メモ】吉本隆明「想像力派の批判」

<<   作成日時 : 2012/10/29 23:03   >>

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じつはこのところ、吉本隆明の評論を初期から読んでゆく、という勉強会に参加させていただいていまして、
10月は『擬制の終焉』の中の「想像力派の批判」という論文について、僕が発表する順番だったのです。
「想像力派の批判」は、小林秀雄の「様々なる意匠」、江藤淳の『作家は行動する』、ジャン=ポール・サルトルの『想像力の問題』といった超大物を相手取った、ものすごい論文で、理解するのもひと苦労でしたが、たいへん勉強になりました。

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そのときに作ったレジュメをもとに、まとめを載せておきます。

吉本隆明「想像力派の批判」(『群像』1960年12月号)要約――

※ 吉本は、小林秀雄への言及から筆を起こし、「様々なる意匠」で同時代の文学を隈なく見渡して批評した小林の身振りを模倣してみせます。

同時代の文芸批評家たちは、大衆に文芸批評を読ませることで彼らとつながる、ということができていない。
そのため、ギルドめいた集団を作って自閉してしまっている。
これはよくない。
私(吉本のことです)はこれから同時代の批評家たちを論じるが、
そのためには、それぞれのギルドにとってのドグマを論じるのが手っ取り早いだろう。

 @ 想像力派……福田恆存、中村光夫、江藤淳、佐伯彰一、村松剛、篠田一士
 A 政治と文学のあいだ派……平野謙、荒正人、本多秋五
 B 映像と活字のあいだ派……花田清輝、佐々木基一

それぞれの批評家が公式見解として打ち出している政治的態度を鵜呑みにして批評家を論じたところで、あまり意味はない。
保守派であろうが進歩派であろうが革命派であろうが、優れているものは優れていて、ダメなものはダメだ。
程度の問題でしかない。
文芸批評家を論じるには、文学的土俵で論じよう。

@の批評家たちは最近、想像力と言語の問題を論じている。

これは私(吉本)も興味を持って研究している主題である。
私(吉本)が「言語の芸術としての文学」における想像力、という主題について考えているのは、
プロレタリア文学理論を批判的に検討してきた結果、マルクス自身の芸術観のうえにひとつの理論を打ち立てなければプロレタリア文学の誤謬を正せない、と判断したからだ。

しかし、同時代の他の批評家たち(@)が想像力と言語の問題についてあれこれやっているのは、
私(吉本)とは違って、文芸批評の主流をなしてきたある批評原理への反発からのようだ。

その原理とは、小林秀雄によってもたらされた人性的な批評原理であり、作品の中から作者の宿命的な人間像を取り出すことを批評の目的とするものだ。
自然主義文学から私小説をつらぬきプロレタリア文学へいたる流れは、この原理によって扱いやすいリアリズムの系統であったため、平野謙ら「近代文学」派の批評家たちもこの原理を受け継ぎ、実証主義的な批評を行ってきた。

この原理は、私(吉本)から見ても、確かに問題を抱えている。
そもそも文学作品とは、言語の次元に作られる仮構の世界であり、
批評家たるもの、作品世界と現実世界との違いだけは、最低限わきまえねばならないのだが、
人性的な批評が実証性にのめりこんでゆくとき、しばしばこの区別が曖昧になる。

江藤淳が『作家は行動する』で平野謙を批判したとき、小林秀雄的な批評原理に対して、初めて反措定がなされたと言える。
江藤は必ずしも、現実的・倫理的な評価の視点を文芸批評から消し去ろうとしたのではなく、現実的価値(倫理)と想像的価値(審美性)とを、行動という点から新しく把握し直そうとしたのだが、
しかし、小林秀雄以来の批評原理に対して反感を持っていた佐伯彰一、村松剛、中村光夫、篠田一士らが江藤のまわりに群がり、想像力について論じて、現実的価値よりも美的価値、という潮流を作ろうとしている。
彼らの論理は間違っていたり足りていなかったりするので、私(吉本)が彼らを批判しつつ、想像力と言語についてちゃんと論じよう。

※ 一見したところ、吉本は@ばかりを批判しているように思えますが、
江藤によるAへの批判を取り上げることで間接的にAを攻撃していますし、
「想像力や言語をアクシスにして文学を論ずることは、スターリン支配下、政策(政治ではない)との吻合をもとめてゆがみにゆがんだ社会主義リアリズム論や、これとおなじ土俵でとびだしもやらずうじうじしているアバンガルド論[明らかに花田清輝のこと――清末註]を否定するわたしのたちばからもまた可能なはずなのだ」と言っていることから、Bへの攻撃をも含むことが分かります。

@の批評家たちをひとりひとり槍玉にあげてゆく。

佐伯彰一は、「想像力とは、イメージを思い描き、作り出す力である」と言っている。
これは無内容な概念で、見解がないに等しい。
想像力をろくに定義せずに、文学作品の価値を決定する至上の位置に押し上げ、ドグマ化している。

村松剛は、「想像力とはイメージを形成する力であり、文学作品とは想像力の発現である」と言っている。
こいつは「イメージ」という語を、作品の漠然たる印象、くらいの意味でしか使っていない。
文学の言葉には、「概念(意味)」と「感覚」と「イメージ」があるはずだから、村松の見解は誤りである。

中村光夫はふたつのことを言っている。
まず、「言葉は「像」よりも観念に近い抽象作用を持つ以上、言語によって喚起された映像が、かならずそれを生んだ「像」(イメージのこと)とくいちがうのはあたりまえで、作家はそのコトバの再現力の不完全性を積極的に利用するものだ」と言っているが、これはまずまず妥当だ。
しかし、「自然主義文学は想像力を恐れ、その作品から想像力を排除しようとした」と言っているのは誤り。
自然主義文学者たちに「イメージ」がなかったかのように、現代から見たとき思えてしまうのは、彼らがある時代的な制約を受けていたからである。

田山花袋の「描写論」を参照してみると分かるが、
自然主義文学者たちは、個人の資質と、時代的な想像力の限界とを背負いながら、精いっぱいイメージを発揮する道を求めたのだ。
作家は、自分の生きる時代の社会の発展段階に応じて、自分の表現の目的や手段を選ばねばならないので、
想像力は時代の制約を受け、作家の個性を超える「あるもの」を含む。
近代文学の歪みを正す、という想像力派(@)の目標を達成するためには、まずはこのことを認識せねばならない。

篠田一士は、「自然主義文学は、言語の持つ「記号」としての側面と「もの」としての側面との二重機能を、「記号」の側だけに単一化したため、作品と実生活とを強引に結びつけなければ小説的世界を構築できなかった」と言っている。
この篠田のように、論じる対象をとらえていたはずの時代の制約を無視して、後から気楽に語ってはいけない。
論じる自分もまた自分の時代の制約の中にいる、ということに気づかずに、あたかも超越的な視点に立っているかのような気になってはいけない。
また、言葉はそれ自体が「もの」として実体になることはなく(篠田が参照したサルトルの理論は、ここに誤謬がある)、「意味」の表現であろうが「感覚」の表現であろうが「イメージ」の表現であろうが、すべて「記号」的世界なのだ。
さらには、篠田の「言語の多義性」にまつわる言語観(日常生活での言葉は意味が一義的、想像的世界では多義的)も誤りであって、言語は文脈の中で、いつも意味と感覚のニュアンスの多義性を持つ。

想像力派は、想像力と言語についていろいろ論じているが、非常に混乱していてダメだ。
私(吉本)の理論の基本を先に言っておくと――
対象の「概念(意味)」を運ぶ媒体である言語には、「概念(意味)」だけでなく「感覚」を伴う、という性質もあり、
この性質が用いられることによって、文学作品の中で「イメージ」が可能になる。
文学の表現上の問題は、もともと感覚やイメージを媒介しにくい言語を使って、意味とともに感覚やイメージを表出しなければならない、というところにある。
ちなみに、自然主義文学作品にイメージが不足しているように見えるのは、想像力の時代的制約のせいだけでなく、イメージよりも概念の思想的意味に価値を置く文学観のせいもある。

さて、想像力派の論客は、サルトルの理論(『想像力の問題』)からいくつかの重要な見解を借りているが、本当にサルトルの想像力論と格闘したとは思えない。

サルトルの理論をまとめると――
意識が対象を捉える捉え方には、まずは概念としての捉え方と、感覚としての捉え方があり、
これらの織目に「想像的意識」が生じる。
したがって、対象の捉まえ方には、概念的なもの(カントの「悟性」にあたる)、感覚的なもの(カントの「感性」にあたる)、想像的なもの(想像力)、がある。
想像力の本質的な条件は、意識が非実在物を存在するかのように考えうる力であり、
この力を人間が使うことができるのは、現実に縛られぬ自由を持っているからである。

私(吉本)から評価すると、
本質的な想像力論は、現代における人間の自由とは何か、という思想的な問題になるはずであり、
想像力派の批評家たちが持っていなかったこの視点を持っている点で、サルトルは優れている。
マルクスの芸術観は、社会主義リアリズム論やアヴァンギャルド芸術論(Bの批評家)などよりも、サルトルの方に、「逆立ち」した形で受け継がれている。
(※ この「逆立ち」とはどういうことなのかが、マルクスを正しく応用していると主張する吉本の想像力論を理解する鍵になります)

私(吉本)はさらにそれを止揚してみせよう。(※ いよいよ吉本自身の想像力論)

人間の感覚のあり方は、歴史の過程の中で、社会の発展段階に応じて変化する。
ものを生産するために必要とされる労働の様態が変化すると、その影響を受けて、人間の感覚も変わる。
つまり、時代によって感覚のあり方が違う。
こうして作られてゆく、ある段階の社会の人間に共通の感覚の基盤のようなものを、その社会における人間の感覚の「本質」と呼ぶ。

一方、ある段階の社会に生きる、具体的な個人において、彼の感覚を生活の中で実際に個別的に作り上げてゆくのは、彼自身が他人との間で取り結ぶ関係である(恋愛、不和、遊戯など)。
この側面を、感覚の「肉付け」と呼ぶ。

人間が自分の労働の成果(生産したもの)を所有することができず、疎外されるような仕組みになっている社会では、
個人の実感に相当する「肉付け」と、社会的制約に対応する「本質」とを、個人の感覚の中で折り合わせられなくなってしまう。(※ 「おれはこんな仕事のために生きてるんじゃない!」みたいな)
感覚の「本質」(社会的制約)と「肉付け」(生活から来る個別性)との間に矛盾(埋めがたい隔たり)が生じると、
意識は、概念作用(悟性)と感覚作用(感性)との間に、想像力を生み出さねばならなくなる。

※ このあたりが「想像力派の批判」という論文のキモで、非常にテンションが高く、また抽象的で難解です。
とても面白いのですが、僕(清末)も本当に理解できているのか自信がありません。
かなり大胆に噛み砕いてみましたが、間違いもあるかも知れません……。
以下は、仮説として僕(清末)が考えたことです。

なぜ、感覚の「本質」と「肉付け」との間に矛盾が生じると、意識は、概念作用(悟性)と感覚作用(感性)との間に、想像力を生み出さねばならなくなるのか?
社会的制約によって作られた感覚の「本質」と、個人の個別性において形成された感覚の「肉付け」との間の矛盾は、吉本によって、「社会的な矛盾」「社会的疎外」と言い換えられています。
社会的な矛盾や疎外は、それ自体としては実体ではなく、対象の不在です。
意識がこれを対象として捉えるには、無を対象として措定できるような意識の働きが必要になります。
ということで、サルトル言うところの「対象を無として措定する」想像力が要請されます。
これは、感覚の「本質」と「肉付け」との間に生じており、
そして、感覚の「本質」が概念作用に対応し、「肉付け」が知覚作用に対応するのだとしたら、吉本による定義が成り立つわけです。
でも、このあたりの論では、意識の志向作用の始点と終点がどっちがどっちなのか読み取りにくく、
また、「本質」→概念作用(悟性)、「肉付け」→知覚作用(感性)というのも、アナロジーとしては分かるのですが、なぜこのアナロジーを実用できるのかは分かりません……。
……しかしともかく、こうして想像力が生まれたのだとすると、確かに想像力は時代の制約を受け、疎外と関わっていると言えます。

さて、サルトルの『想像力の問題』では、想像力とは現実界を空無化する意識であり、逆に知覚(感覚)とは想像界を空無化する意識であるとされた。
そのうえでの結論のひとつが、「倫理[現実的価値]と審美性[想像的価値]とを混同すること」は「馬鹿げている」、というものだった。

江藤淳は『作家は行動する』でこれを批判している。

江藤は、現実世界と作品世界とを「宿命」で繋ごうとする小林秀雄や、実証性で繋ごうとする平野謙を批判したが、
一方、想像力と言語の問題を本質的に論じることで、現実的価値(倫理)と想像的価値(審美性)とを、行動という点で統一して把握し直そうとした。
江藤によれば、言葉とは行動の一種であり、逆に、人間の行動は広い意味での言葉としての性格を持っている。
そして、現実的価値とは、現実界における行動によって生み出されるものであり、想像的価値とは、想像界における言葉という行動によって生み出されるものである。
また、江藤によると、これらの行動が主体的に行われるとき、それは自由につながる。
自由とは、現在において未実現のものを実現させることである。
未実現の世界では、実際に実現されるべきものと想像上のものとの区別はない。
何らかの生産を考えたとき、それが現実世界で実現されて現実的価値を持とうと(大工が家を作る)、想像世界で実現されて想像的価値を持とうと(作家が小説を書く)、その違いにことさらこだわる必要はない。

私(吉本)に言わせれば、ここでの江藤の問題点は、現代社会において生産に必ずまつわる、所有と疎外の問題を見落としていることだ。
サルトルの理論は逆転させれば疎外の概念を指し示すが(人間は自由だから想像力を持つのではなく、疎外されているから想像力を持つ[これが「逆立ち」!])、
江藤の言う「行動」からは、社会的内容が読み取れない。
それでも江藤は、文学における想像力の問題を、自由の問題として考えようとしたぶん、他の批評家たちよりもかなりマシである。

……「想像力派の批判」はここまでです。

プロレタリア文学批判、マルクス主義文学理論批判を執拗に行ってきた吉本が、オリジナルな理論の樹立(翌年から連載の始まる『言語にとって美とはなにか』)に向けて、思考を抽象化させていった様が読み取れます。

また、これが収録されている『擬制の終焉』という本全体がそうなのですが、
「想像力派の批判」のモチーフのひとつは、小林秀雄の批評への失効宣告だったように思われます。

江藤淳の『作家は行動する』は、激越な小林秀雄批判の書でもあるのですが、
吉本はこれを取り上げ、小林秀雄以来の批評原理に初めて転回をもたらした、と評価することで、「もう小林秀雄の時代ではない」と宣言したわけです。

そして、「想像力派の批判」の冒頭近くの、

かかれた文学作品は、逆に文学者と、作品を鑑賞するにたえる大衆をつくりだすことをやめない。しかし、文芸批評のほうは、文芸批評家をつくりだすかもしれないが、文芸批評を鑑賞する大衆をつくりだしはしないのである。


という文章は、「様々なる意匠」の、

詩人にとっては詩を創る事が希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか?


という文章への目配せであるように思えてなりません。
小林と比べたとき、「大衆」という概念を持っていることが自分の優位であることを、吉本は示したかったのではないでしょうか。

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