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zoom RSS 吉本隆明「日本のナショナリズム」

<<   作成日時 : 2013/01/24 12:12   >>

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先日、吉本隆明の読書会で、『自立の思想的拠点』(徳間書店、1966年)から、「日本のナショナリズム」(1964年)を読みました。

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「大衆の原像」とか「自立」といった、吉本思想のキーワードとなってゆく概念が出て来る、ひとつの転機となった論文です。

「日本のナショナリズム」自体はどういう内容かというと――

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現在(当時)の日本において、「ナショナリズム」という概念は曖昧であり、論理的な対象として捉えられていない。
これを厳密に考えるには、
 【1】大衆のナショナリズム
 【2】知識人のナショナリズム
 【3】支配層のナショナリズム

に分類しなければならない。

一口に「ナショナリズム」と言っても、【1】から【3】の「ナショナリズム」は、すべて明確な主張として思想化されているわけではない。
特に【1】の、大衆のナショナリズムは、意識化・対象化されていない(即自的な)ものである。

戦後、無名の人々による戦争体験の手記が公刊されたり、鶴見俊輔らによって「生活綴り方運動」が再評価されたりと、大衆の「書いた」ものをもとに大衆の意識が研究されるようになってきたが、
大衆の原像は、「書く」という行為によってはけっして捉えられない。
「現実上の体験と、その体験を記録することのあいだには、千里の距りがある」。
「書く」という行為を通して得られる大衆の像は、知識人の側にずれた虚像である。
大衆それ自体の思考、大衆のナショナリズムは、書かれることなく体験と生活の中で無意識に消えてゆくものである。

さて、【1】と【2】と【3】との関係だが、

大衆は、ものを書いたり、マス・コミュニケーションの中に登場したりするとき、知識人に近づいて「知的大衆」となる。
そのとき、【1】は【2】に変質してしまう。

また大衆は、支配層に対して興味や憧れや恐れを抱き、支配層はそれを利用する。
したがって、【3】の支配層のナショナリズムは、【1】の大衆のナショナリズムを鏡に映したような、逆立ちした像になる(【1】は【3】に虚像をゆだねる)。

知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。


***

このあたりまでが議論の前提で、この後吉本は、【1】と【2】と【3】が日本の近代史において、どのような相互作用の中で推移していったかを論じています。
それが本論なので、いちばん面白いところなのですが、ここでは割愛して、僕はちょっと思ったことを書き留めておきたいのです。

昨年末、吉本隆明の『カール・マルクス』を読んでいました(現在、半分ほどで挫折中)。

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『カール・マルクス』所収の「マルクス紀行」は、「日本のナショナリズム」とほぼ同時期の論文です。
その中で吉本は、マルクスの思想を、次の3つの「旅程」に分類しています。

ひとつは、宗教から法、国家へと流れくだる道であり、
もうひとつは、当時の市民社会の構造を解明するカギとしての経済学であり、
さらに、第三には、かれみずからの形成した<自然>哲学の道である。


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『カール・マルクス』の光文社文庫版の解説を書かれた中沢新一さんは、この「三位一体」をジャック・ラカンの三界理論とのアナロジーで捉え、
  宗教・国家・法=想像界
  市民社会の構造=象徴界
  <自然>哲学=現実界
とされています。
中沢さんによるこの解説は、読むときにたいへん助けになったのですが、しかし、ちょっと無理があるような気もしまして。
僕はむりやり三界理論に持ち込むより、吉本自身の言葉を使って、
  宗教・国家・法 = 幻想性
  市民社会の構造 = 現実性
  <自然>哲学 = 本質性

としたほうがしっくりくるのでは、と思っていました。
この「三位一体」について吉本は、「現実性」は「幻想性と本質性の矛盾として存在する」、と述べています。

それで、「日本のナショナリズム」に戻るのですが、
 【1】大衆のナショナリズム
 【2】知識人のナショナリズム
 【3】支配層のナショナリズム

という三層構造は、この「三位一体」と似てませんか?
順番に言うと、現実性(市民社会の構造)は、【1】と同じものだと思いますし、幻想性(宗教から法、国家へと流れくだる道)は【3】ではないでしょうか。
とすると、
【2】知識人のナショナリズムは、本質性に対応する?

「知識人」の問題は、少なくとも初期の吉本にとって、とても大きな問題でした。
吉本は、大衆を自分の都合のいいように捉えたがる「知識人」を、猛烈に批判し続けます。
しかし、「では知識人は何をすればよいのか?」というポジティブな問いは出て来ず、僕は、「吉本の言う知識人って、よく分からないなあ」と思っていました。
それでここへ来て、知識人は「本質性」を担う存在である、という仮説に行き当たり、少し分かりそうな気がしてきました。
この仮説を足がかりにして、吉本の「大衆」と「知識人」を、読み解いていきたいと思います。

いちおう、対応表を。

 【1】現実性 = 大衆のナショナリズム
 【2】本質性 = 知識人のナショナリズム
 【3】幻想性 = 支配層のナショナリズム



ちなみに。
「日本のナショナリズム」の結論は、「大衆のナショナリズムは土着化し、自立しなければならない」というものです。
そのためには、思想的には、知識人や支配層に憧れたり、自己の虚像を投影したりするのを、大衆はやめなければならない。
また政治的には、「資本制支配層そのものを追いつめ、つきおとす」必要がある。
……具体的にはどうやってそれを果たすつもりなんだろう、吉本自身の理路からして、そうとうキビシイぞ、というのが、読んだ感想でした。

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