documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 【読書メモ】『日本語はどういう言語か』理論部分まとめ

<<   作成日時 : 2013/05/18 03:03   >>

トラックバック 0 / コメント 0

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)

画像


吉本隆明が、この本(の旧版)に影響を受けて『言語にとって美とはなにか』を書いたといっているので、『言語美』の理解のために読みました。

第一部「言語とはどういうものか」で、言語一般に関する原理論をやった後、第二部「日本語はどういう言語か」で、その原理を当てはめつつ、日本語の仕組みを解き明かす、という構成です。
マイルドな文章で書かれていますが、特に第一部は高度な内容で、話題もかなり広いため、ついていくのは必ずしも容易ではありません。

そのうちの第一部だけ、今日はまとめておきたいと思います。
(第二部はまたいつか……?)

第一部 言語とはどういうものか

第一章 絵画・映画・言語のありかたをくらべてみる

▼ 1.絵画と言語との共通点 ▼

絵画を出発点として、言語にも共通するはずの、表現というものの本質を考える。
・表現には、<客体的表現>と<主体的表現>とがある。
・表現の主体は空間的にも時間的にも、様々な<位置>に身を置くことができる。
・また、客体を表現するとき、どういう<立場>から表現するのか、という問題がある。
・さらに、想像なども含めた広い意味での<夢>は、世界を二重化する。この二重化は、何重にも入れ子的に行われうる。表現はこの<夢>と切り離せない。
言語も表現なので、これらの特徴を持つが、そのあり方は絵画などとはまた異なった独自のものであるはずだ。
(以下、言語の独自の特徴を探ってゆこう)

▼ 2.作者の体験と鑑賞者の追体験 ▼

絵画や映画と言語とを比較するため、芸術およびその鑑賞とは何か、ということを定義する。
・芸術とは<夢>の一種である。
・<夢>は世界を二重化するので、夢を見る人に<観念的な自己分裂>をもたらす。
・芸術の作者は表現の過程で<観念的な自己分裂>を体験する。
・芸術の鑑賞とは、鑑賞者が<観念的な自己分裂>の中で作者の体験を<追体験>することである。

▼ 3.モンタアジュ論は何を主張したか ▼

映画におけるモンタージュ論、およびその背景にある誤った言語論(≒スターリン言語論)を批判することで、言語の本質について考える。
言語とは、けっして個々の独立した語そのもののことではなく、具体的な表現である。
表現としての言語とは、静的な語彙の知識ではなく、主体を経由する或る動的な<過程>である。
(その<過程>がどういったものかは、以下明らかにされてゆく)

第二章 言語の特徴――その一、非言語的表現が伴っていること

▼ 1.言語の「意味」とは何か ▼

言語の「意味」を定義しながら、時枝誠記の<言語過程説>を紹介し、アレンジし始める。
・言語(言語表現)とは、対象→認識→表現という<過程>である。(対象を認識し、表現する)
・言語の「意味」は、言語表現の発信者の側にある<実体>でも、受信者の側にある<実体>でもない。
・言語の「意味」とは、発信者が対象を認識する過程と、その表現が固定された音声や文字(シニフィアン)との間に、客観的に存在する<関係>である。
<実体>だけが客観的に存在するものだと決めてかかると、間違った考えを生んでしまう。<関係>も、眼には見えないものの、客観的に存在するのだ。

▼ 2.言語表現の二重性 ▼

・言語表現における音声や文字(シニフィアン)は、本質的には、それらの<感性的>な形(具体的な物質性)を捨象した水準でやり取りされる、<超感性的>なものである。(言語のシニフィアンのデジタル性)
・対象→認識→表現という<過程>である言語は、固定された表現の時点(シニフィアン)において<超感性的>であるだけではない。対象を認識する時点からして、概念の働きでもって<超感性的>に捉えている。(言語表現における認識のデジタル性)
・つまり、言語表現の<過程>は本質的には、一貫して<超感性的>である。
・しかし実際には、シニフィアンは何らかの物質性を持たざるをえないので、<超感性的>であるはずの言語は<感性的>なものにもなってしまう。(言語のシニフィアンのアナログ性)
結局のところ言語表現は、<超感性的>である本質(デジタル)と、<感性的>である現実(アナログ)との、二重性を持っている。
・言語的表現(の本質)→ <超感性的>、デジタル
・非言語的表現 → <感性的>、アナログ


▼ 3.辞書というものの性格 ▼

・辞書に載っているのは、表現としての言語ではなく、言語の「意味」でもなく、言語表現を行うための社会的な約束たる「意義」である。
・「意義」は(最大公約数的なものなので)かなり抽象化されており、<超感性的>である。(シニフィエとしてのデジタル性)
・実際の言語表現における認識では、個別的な対象を<感性的>にも捉えているので、「意義」よりも豊かな「意味」が生じる。(シニフィエとしてのアナログ性)

▼ 4.言語道具説はどこがまちがっているか ▼

言語を、その具体的な表現主体から切り離して、独立した道具のように考えるのは間違っている。

▼ 5.音韻およびリズムについて ▼

・音韻とは、物理的な音声それ自体ではなく、社会的な約束のもとにやり取りされる、音声の<超感性的>な面である。(デジタルな形で流通するシニフィアン)
・リズムとは、非言語的表現であり、<感性的>である。(音声シニフィアンのアナログな面)

第三章 言語の特徴――その二、客体的表現と主体的表現が分離していること

▼ 1.客体的表現をする語と主体的表現をする語がある ▼

・<客体的表現>とは、表現主体が対象を概念として捉えて表現すること。(→ 吉本隆明の「指示表出」に対応)
・<主体的表現>とは、表現主体の主観的な感情や意志そのものを、客体として扱わず、直接に表現すること。(→ 吉本隆明の「自己表出」に対応)
・絵画や映画では、<客体的表現>と<主体的表現>とが、同じ画面の中で分かちがたく統一される。
・ヨーロッパの言語では、同じひとつの語の中に、<客体的表現>と<主体的表現>が癒着していることが多い。
・日本語の言語表現においては、<客体的表現>を担う語と<主体的表現>を担う語が分離している。
・言語はその本質的な特徴として、対象の<感性的>な面からの制約を逃れる。このことのせいで、言語が流通するためには社会的な約束を必要とし、また、言語において<客体的表現>と<主体的表現>とが分離する。
・<客体的表現>と<主体的表現>との分離が、言語的表現(抽象的・デジタル)と非言語的表現(物質的・アナログ)との二重性を生む。

▼ 2.時枝誠記氏の「風呂敷型統一形式」と「零記号」 ▼

時枝誠記の理論を紹介。(第二部以降、修正しながら使ってゆくため)
・<客体的表現>=詞
・<主体的表現>=辞
・時枝の考案した独特の図(↓)を以後用いるが、言語の意味や最終的な統一を主体のはたらきに帰する時枝の説は批判。

画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

【読書メモ】『日本語はどういう言語か』理論部分まとめ documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる