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zoom RSS 【読書メモ】上野俊哉『思想の不良たち』における安部公房論について

<<   作成日時 : 2013/06/01 09:54   >>

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 たとえば「顔貌性」という言葉から、『他人の顔』を想起する。あるいは「逃走線」という言葉から『砂の女』を、「生成変化」という言葉から「デンドロカカリヤ」などの<変形譚>を。
 ……現代思想の代表的な哲学者ジル・ドゥルーズが、精神科医フェリックス・ガタリとともに書いた『千のプラトー』は、安部公房の読者にとって、わくわくするような連想を与えてくれる書物ではないでしょうか。

 『思想の不良たち』(岩波書店、2013年)という本は、こういった連想の楽しみを利用して、脚光を浴びる機会の比較的少ない著作家たちの思想を「日本語環境」の外へ開こうという、「比較思想史」の試みです。
 著者の上野俊哉さんは、鶴見俊輔、花田清輝、きだみのるといった戦後日本の著作家らと、ドゥルーズをはじめとする同時代の西洋現代思想との間に、互いに通じあうような概念を見出してゆくのですが、日本側のラインナップの中に安部公房も登場し、その思想の普遍性や現代性が次々に指摘されます。

 安部は独特の理論を持って思考を展開した作家でしたが、彼の思想はいまだ、十分に検証され位置づけられているとはいえません。
 ですから、このような作業によって議論の風通しを良くすることは、とても有意義なことだと思われます。

 しかし、安部の小説の読者としては、この本の内容を鵜呑みにできないこともまた事実です。

 上野さんはたとえば『箱男』から、おそらくジャック・ラカン的な<空虚な主体>を類推し、固有の実存(「かけがえのなさ」)を放棄した新しい人間像の可能性を読み取ろうとします。
 ですが、先入観を斥けて『箱男』を仔細に読めば、箱男であることは望ましいことではなく、箱男的な状況(存在の抽象化)に人間は耐えられない、というふうに書かれていることは明らかです。
 上野さんは、現にある状況に対する安部の批評・批判を、安部の抱いたあるべき世界像だと思い込んでいるのです。
 こういった混同が起こったのは、上野さんがあまりに軽快に安部から概念を拾いあげ、あまりに軽快にラカンへと繋げてしまったからではないでしょうか。

 上野さんは安部に対して、何らかの固定観念を持っているようです。
 その固定した概念の配置図は、いわゆる現代思想をも折り込んだ、見通しの良い平面ではあります。
 しかし、安部の小説は、認識の発展とともに概念の含みを変化させてゆくダイナミックなものですから、一枚の平面図に固定しようとすると、解釈に無理が生じるのです。
 実際、上野さんの『終りし道の標べに』論も『他人の顔』論も、いくつもの誤読のせいで、残念ながら小説自体からは乖離したものになってしまっているようです。

 安部の真価を見極めるために必要なのは、キャッチフレーズをちりばめて地図を彩ることではありません。
 小説の進み行きにつきあって歩き、そこで起こる変化を体感することです。
 ドゥルーズなりラカンなりとの本当の共鳴は、その後にこそ見つかるでしょう。
 ちなみに私は、冒頭に挙げたドゥルーズの諸概念と安部公房のモチーフとは、字面の印象ほどにはじつは似ておらず、単線的には繋げられないと考えています。
 だからこそ、ドゥルーズはユニークな哲学者であり、また、安部はユニークな小説家だといえるのです。

 『思想の不良たち』は、とても野心的な仕事です。
 鶴見俊輔に関しても花田清輝に関してもきだみのるに関しても、私はこの本から多くのことを新しく学びましたし、読んでいる間、小さからぬ知的興奮も味わいました。
 こういった試みは、そろそろ為されねばならなかったものですし、また今後、より多く為されるべきものでしょう。
 しかし、こと安部公房に関しては、やや勇み足に終わってしまったかも知れません。

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