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zoom RSS 【読書メモ】ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』

<<   作成日時 : 2013/07/04 19:46   >>

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 ロマン主義についての勉強のため、ヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健次郎訳、ちくま文庫、2001年)を読みました。
 ベンヤミンの博士論文です(1919年提出、1920年刊)。
 基本文献なのでしょうが、あまりに密度が高く、そうとう苦労しました。

 前半(第一部「反省」)は、ロマン主義の芸術論の基盤となった<反省>概念の、哲学(認識論)的検討。
 後半(第二部「芸術批評」)は、それをもとにした芸術論の検討。
 特に前半の哲学的議論は、ついていけないところがたくさんありました。(僕はどうも認識論が苦手で……)
 それでも、もちろん非常に勉強になりましたので、備忘録としてメモを。
 しっかりした要約などとてもできませんが、以下のようなことでしょうか……。

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■■ロマン主義は、認識の直接性無限性を保証してくれる<反省>という概念を、その認識論の基盤とした。
▼ロマン主義の体系における<反省>概念は、以下のように構成されている。
(1) すべての現実的なものは、まず「たんなる思惟」を行っている。[僕はこの点がいちばん腑に落ちないのですが]
(2) その思惟をさらに思惟するのが<反省>である。
(3) その<反省>をまたさらに思惟(反省)することができるので、<反省>は無限にべき乗されうる。
▼この<反省>は、無限後退に似た空虚で不毛なもののように見えかねないが、そうではない。
 なぜなら――
 すべての現実的なものは、ある体系の中にあり、その体系にはある絶対者が、すべての現実的なものを連関させる<反省媒質>として存在している。
 絶対者すなわち<反省媒質>によって取り持たれる(媒介される)ような形で、すべての現実的なものは、自らの思惟(ある段階における<反省>)を直接的に<反省>することができる。
 <反省媒質>は、ある段階の<反省>に対する直接的な<反省>を可能ならしめ、体系の内部におけるもろもろの<反省>を、無限にいきいきと連関させるのである。
 ――というわけで、体系内のすべての現実的なものは、ある絶対的な<反省媒質>のもとで<反省>を行っているので、その無限性は無限後退的な空虚なものではない。

■■さて、<反省>とは、自分を制限している何らかのフォルムを、意志的なコントロールによってそのつど破壊し、絶対的な理念(その体系における<反省媒質>)そのものへと近づいてゆくことである。
 芸術という<反省媒質>の体系において、個々の作品(のフォルム)は<反省>によって破壊され、<芸術の理念>へと漸近せねばならない。
▼個々の芸術作品に<反省>による破壊をもたらし、<芸術の理念>へのほうへと高めてゆくものこそが、ロマン主義における<批評>の概念である。
 したがってロマン主義における<批評>は、偶然や主観に左右される場当たり的な価値判断ではなく、客観的で冷徹なものであらねばならない。
 <批評>は作品の低次のフォルムを破壊し、高次の<象徴的形式(フォルム)>へ導く。
▼そして、最高度に<反省>された象徴的な形式(フォルム)は、長編小説である。
 長編小説の散文性(プローザ)は、ほとんど何の形式的制約も受けず、ひとつの作品の中に多数の形式(フォルム)を包括することができ、また、冷徹な確実さを持つ。

 * * *

 特に面白く、勉強になったのは、もともと興味のあった<イロニー>概念についての論です。
 ベンヤミンは、主観的なものだと思われがちなロマン主義がじつは客観的志向性を持っていた、ということを主張するために、最も主観的な概念にみえる<イロニー>を分析してみせます。

 ベンヤミンによれば、<イロニー>には (a) 素材のイロニー(b) 形式のイロニー があります。

 一般に芸術作品は、芸術という<反省媒質>のもと、客観的な法則を形式として内面化しています。
 たとえば、リズムの客観的な法則を、定型詩の形式で内面化しているわけです。
 詩人はこの形式に従うかぎり、自由裁量の余地を、素材の中にしか持っていません。
 だからふつう詩人は、ゆいいつ自分の意のままにできる素材を大事に扱うわけです。
 しかし<イロニー>を用いる詩人は、ゆいいつ自由にできる素材を大事に思うからこそ、あえて意識的かつ遊戯的に、これを蔑ろに扱ってみせます。
 これが、(a) 素材のイロニー です。
 この<イロニー>によって作者の精神は、素材を超越します。
 ここで<イロニー>というのは、大事なものを大事に思うからこそあえて軽く扱う精神、ということです。
 この (a) 素材のイロニー は、確かに作者の主観を優先するもののように見えますが、しかし、作者の主観客観的な形式にはノータッチですから、客観よりも主観を重視していると断言することはできないでしょう。

 さて、<イロニー>にはもうひとつの種類、(b) 形式のイロニー があります。
 これは、作品の客観的なフォルムすらも傷つけてしまうような<イロニー>です。
 客観的なフォルムを主観によって壊すのだから、(b) 形式のイロニー主観主義的じゃないか、と思われるかも知れませんが、じつはそうではありません。
 大事なものほどあえて軽く扱う<イロニー>は、フォルムを完全に破壊してしまうのではなく、作品の効果を高めて刺激を生むため、わざとほどよくフォルムを傷つける、意識的かつ遊戯的なものなのです。

 そしてこの (b) 形式のイロニー は、フォルムの破壊という意味で、<批評>に似ています。
 作品に制限を与えている形式(フォルム)を破壊することで、より高次の<芸術の理念>に近づけようとする (b) 形式のイロニー と<批評>は、芸術家の意志すなわち主観性に従うものではなく、芸術の精神すなわち客観性に従うものなのだ、とベンヤミンは述べます。
 ただ、(b) 形式のイロニー が遊戯的な(フォルムを完全には破壊しない)ものであるのに対して、<批評>は本気の(取り返しの余地なくフォルムを壊す)ものなのですが。

 ――このように、ベンヤミンは<イロニー>の客観志向性を説明しています。
 (b) 形式のイロニー の概念はとても面白くて、たとえば以下のような記述は、デリダの<脱構築>の元ネタのひとつなんじゃないでしょうか。(違ってたらすみません)

形式に関わるイロニーとは、形成物〔作品〕をさらに取り壊すことを通して構築する〔建設する〕という、逆説的な試みを具現するものなのである。 [179]


 また、演劇について――

演劇的形式は、あらゆる形式のなかで、最も甚だしく、そして最も印象深くイロニー化されうる形式である。なぜなら演劇的形式は、最高度の錯覚させる力(Illusionskraft〔舞台上の世界を現実世界と思い込ませ、現実世界として受け取らせる力〕)を含んでおり、そのことによってイロニーを最高度に受け入れることができ、しかも、それによって自分が完全に解消してしまうことはないからである。 [173]


 * * *

 他には、ポエジーの最高度のフォルムが散文(プローザ)である、というのが衝撃的でした。
 今後は、シュレーゲルの『ロマン派文学論』とジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』を読んで、ロマン主義と<イロニー>の勉強にはとりあえずひと区切りをつけたいです。

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