documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 吉本隆明『共同幻想論』序

<<   作成日時 : 2013/10/25 11:36   >>

トラックバック 0 / コメント 0

初出:
「禁制論」〜「祭儀論」……「文芸」1966年11月〜1967年4月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

序〔16-39〕

画像


※ 1968年、『共同幻想論』が単行本として発行されるときに付けられた序文。

■■『共同幻想論』は『言語にとって美とはなにか』(1965年)から生まれた〔16〕

『言語にとって美とはなにか』を書いていたとき、吉本は、「言語の表現」としての芸術という視点から文学の理論を構築しようというその試みだけでは不十分だと感じていた。

▼不十分な点@:「言語の表現」の理論は、表現する主体の心を扱えない。
表現された言語のこちらがわで表現した主体はどんな心的な構造をもっているのか。
→ これは『心的現象論』の主題に。

▼不十分な点A:「言語の表現」の理論は、「ひとりの個体」だけしか扱えない。
言語を表現する「ひとりの個体」という位相以外に、人間のとりうる態度はどのようなものがあるのか。
いくつかの位相や態度があるとして、それらの間の関係はどのようになっているのか。
→ これが『共同幻想論』の主題に。

『共同幻想論』は、上の不十分な点Aについて、「共同幻想」という観点から追究した試論。

共同幻想
個体としての人間の心的な世界およびその派生物以外の、すべての観念世界。
人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係するときの、観念の在り方。

この間の事情[『言語にとって美とはなにか』から『共同幻想論』が派生した事情]について、まえにある編集者の問いにこたえた記事がのこされているので、それを再録することにする。

↓↓↓ 以下、インタビュー記事(「言葉の宇宙」1967年6月号)の再録 ↓↓↓

■■どうして『言語にとって美とはなにか』を書いたのか〔17-19〕

▼文学理論の問題
≪社会主義リアリズム論v.s.社会主義リアリズム論批判≫という図式的な二項対立は不毛なので、「表現としての言語芸術」という扱い方で、高次な段階へと抜け出ようと考えた。

▼思想の問題
≪スターリニズムv.s.アンチスターリニズム≫という問題の範疇とは違う次元に血路を見出さねばならない。
  ↓
(編集者)スターリンの道具的な言語観では、言語表現そのものの独自性が捉えられない。吉本はそこを批判してきたのだと思う。

※ 要するに、
・吉本にとって『言語にとって美とはなにか』は、文学の問題でありながらも、スターリン的な社会主義リアリズム論への批判をとおして、政治(的思想)の問題でもあった。
・文学の問題においても政治の問題においても、≪ロシア・マルクス主義的な考え方v.s.反ロシア・マルクス主義的な考え方≫という対立にとどまっている限り不毛でしかない。
ということです。

■■吉本の言語観・思想観の最も基本的なところ〔20-22〕

▼言語の面
言語学者……言語を所与の実体として扱う。
吉本……表現されなければ言語というものはない。言語とは表現である。

▼思想の面
表現としての言語というものは、本来的に個人幻想[=自己幻想]に属する
したがって、個人の心に属する表現としての言語に、外側から「こうであらねばならない」と規範を押しつけることはできない。
文学は、外側から規定されない、個人における自由や恣意性としてしかありえない。
「政治的な解放」というものは部分的な解放にすぎず、それがもし為されたとしても、個人幻想に属する文学のような問題に関しては、部分的な影響しか与えられないだろう。
だから、社会主義リアリズム論のような、政治が文学を規定する(べきだ)という考え方は間違いである。

■■『言語にとって美とはなにか』への批評について〔22-23〕

「表現されなければ言語はない」という根本のところが理解されておらず、『言語にとって美とはなにか』は正当に批評されていない。

■■吉本の思想の射程について〔23-26〕

(編集者)吉本は文学から出発して、「言語思想」という位相に達し、文化から政治に至る広い領域を論の対象にできるようになった。文学から「言語思想」へと思考を広げていったその過程について話してほしい。

政治の表現も、思想の表現も、芸術の表現も、違った分野だと思ってきたいろいろな問題を、すべて「幻想領域」の問題であるというふうに統一的に[包括的に]見ることができるようになった。
「幻想領域」とはいわゆる「上部構造」のことだが、「上部構造」という言葉には既成のマルクス主義のいろいろな概念が付着しているので、そちらに引きずられてしまうのを避けるために吉本は「幻想領域」という言葉を用いる。

幻想領域にはどのような軸があるか。
共同幻想 → 政治、国家、法、宗教などの問題。
対幻想 → 家族論の問題、セックスの問題、つまり男女の問題。
自己幻想 → 芸術理論、文学理論、文学分野。
  ※ どれもここでは適用範囲が述べられるだけで、定義されない。
・これらの軸のそれぞれに内部構造と、表現された構造とがある。
・また、それぞれの軸の相互関係がある。
そういうことを解明していけば、幻想領域の問題はすべて解くことができる。

※ 幻想領域とは、私が「<本質性>の思想家、吉本隆明」でとりあげた<現実性>/<本質性>/<幻想性>という三幅対の中の、<幻想性>のことです。

■■「ヘーゲル的」というありうべき批判〔26-27〕

そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。


※ ここでの「ヘーゲル的」という意味がよく分からないのですが、人間の意識の運動が歴史を作ってゆく、みたいなことなのでしょうか?

 ↓↓ 「ヘーゲル的」という批判への反論

▼幻想領域[上部構造]を、幻想領域の内部構造として(内在的に)論ずるときには、経済的な諸範疇(下部構造)からの直接的な影響を認めなくてよい。
幻想領域は経済的諸範疇の反映や模写ではない。経済的諸範疇は「ある構造を介して幻想の問題に関係してくる」。
※ 経済的な諸範疇とは、市民社会における人々の生産、交換、消費などのことであり、<現実性>/<本質性>/<幻想性>という三幅対でいえば<現実性>のことです。
※ もしも幻想領域を取り扱うときに、経済的諸範疇からの直接的な影響という面からばかり論じてしまうと、「下部構造が上部構造を決定する」というような議論に陥ってしまうので、経済的諸範疇は「ある程度までしりぞけることができる」といっているのかな、と思います。
▼逆に、経済的諸範疇を取り扱う場合には、幻想領域は捨象することができる。
※ つまり、幻想領域が「ある構造を介して」経済的諸範疇に関係してくる、などという必要すらない?

――以上のような前提があるので、吉本の幻想領域論を「ヘーゲル主義」と批判するのは当たっていない。

■■今後の吉本の課題〔27-28〕

ロシア的なマルクス主義とは異なった[マルクスに正しくのっとった]思想の模索。

■■合理性を追求する最近の「科学主義」[科学万能主義?]についてどう思うか。〔29-32〕

・科学や技術も含めた経済的範疇[<現実性>、下部構造]は、後戻りすることなく発展する。
・それに対して、幻想領域[<幻想性>、上部構造]は、時間の流れに逆行することもある。
人間的現実はそれらの両方から成っており、人間の幻想は経済や科学に逆行したり対抗したりもする。
科学や技術は、人間的現実の中の一部分にすぎないので、それを全体性だと思い込んでしまうと問題がある。
そして科学主義の間違いは、論理性あるいは法則性の抽象度のレベルへの理解の欠如から生まれたのではないか。

■■日本における思想的課題〔33-34〕

(編集者)吉本の意図とは、人間の全体的なあらゆる契機を、簡単に還元せず、精確に把握したいということ。

  ↓ そういう問題がどうして重要なのか

@ 極端に先進的でもなければ後進的でもない日本のような場所では、
現実的な課題[<現実性>]よりも、思想的な課題[<本質性>]のほうが先行しなければならないことがある。
A しかし一方、日本では
あらゆる思想的課題[<本質性>]の以前に、現実的課題[<現実性>]こそが解決されねばならない、という面もある。
――というわけでまさに日本においては、@とAが、すなわち思想的課題と現実的課題が奇妙に矛盾しており、そのせいで、問題を単純化することができない。
[だからこそ、人間の全体的なあらゆる契機を簡単に還元せず、精確に把握せねばならない]

  ↓ そういう中での思想の課題とは

(1)一種の技術主義みたいなものと、(2)ロシア的マルクス主義との両方を、同時に乗り越えることが必要。

※ ここでの(1)と(2)は、それぞれ誤った<現実性>と<本質性>に相当するのかな、と思いました。
(1)科学万能主義……<幻想性>を視野に入れられず、<本質性>も備えていないため、場当たり的になる。
(2)ロシア的マルクス主義……<本質性>としての正しさを自ら謳っているが、<現実性>と<幻想性>の全領域を貫く本当の<本質性>をつかめていない。

■■現在の吉本の考え〔35-37〕

(1)吉本は本質的には、「世界思想の領域」で思考しているので、日本の現在の思想的状況はあまり問題にはしていない。
(2)しかし、日本における現実的な課題も無視はできない。

※ この(1)と(2)も、<本質性>と<現実性>との矛盾という形になっています。

なんかやっぱり、ちょっと大げさなんだけれども、『言語にとって美とはなにか』以降の自分というのは、自信があるわけよ。(笑)だからやっぱりそういうところ、なにか世界思想というものの中でおれの場所というのはここにあるはずだ、そういうイメージがありますよ。そういうことが本来的ですね。あるいはそういうイメージを実現していくことが本来的であって、その他のことはあまり文句はないんですけれどもね。


※ 吉本本人は(1)の<本質性>の領域で考えてゆきたいようです。

↑↑↑ 以上、インタビュー記事(「言葉の宇宙」1967年6月号)でした ↑↑↑

■■「共同幻想」について〔37〕

人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。
共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。
だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。
そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。


※ まとめると、

共同幻想:人間が個体として考えるのではなく、複数の人間の関係の中で考えること。
  ▼共同幻想……共同性の中で漠然と生じる意識。
  ▼対幻想………性的な関係の意識であり、「私にとっての○○」という形で対象を持つ。

自己幻想(個体の幻想):人間がひとりで、個体として考えるときに生じる意識。

このようになって、共同幻想と自己幻想は接しあいながらも対立する構造(逆立)になっています。
(ある人が「私はAであることを望む」という自己幻想を持っていても、「でもみんなと暮らすにはBであるほうがいいよな」という共同幻想も持たざるをえないし、AとBの内容が激しく対立することもある、ということ)
それにしても思うのは、『言語にとって美とはなにか』のときも同じことを思ったのですが、吉本は意識を理論化するとき、意識のベクトルの始点と終点をはっきりさせてくれないんですね。これが困りものです。『心的現象論』には書いてあるのでしょうか。

■■『共同幻想論』は「本質論」である〔37-38〕

共同幻想という概念が成り立つのは、幻想領域をただ本質として[抽象的な水準で]対象とする場合においてのみである。
『共同幻想論』を観念論だといって非難したり、「幻想領域=上部構造は下部構造によって決定されるのだから、幻想などを論じずに物質の関係を論じよ」などと批判したりするのは的外れである。
吉本本人が、その種の批判がありうることを十分理解したうえで、幻想領域の内部構造に対象を絞り、ある程度抽象的な水準で本質論を展開したのである。

■■『共同幻想論』の画期性と独創性〔38〕

『共同幻想論』の対象は民俗学や古代史学の対象と重なっているが、それらの学問をまねたり踏襲したりしたわけではない。
人間のうみだす共同幻想のさまざまな態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるか、という独自の問題について、あらたな方法で論じたのが『共同幻想論』である。

■■国家論〔39〕

国家は所与の実体として扱われるべきではなく、共同幻想のひとつの態様として、根本(その生成過程)から見直されるべきである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

吉本隆明『共同幻想論』序 documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる