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zoom RSS 『共同幻想論』「禁制論」(1)フロイト批判

<<   作成日時 : 2013/11/12 01:35   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「禁制論」(1)フロイト批判

初出:
「文芸」1966年11月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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※※ 吉本隆明のフロイト批判  ※※

吉本はフロイトの『トーテムとタブー』に対する批判から「禁制論」を、そして『共同幻想論』を書き起こします。
なぜフロイト批判から始めたのか。
それはフロイトのタブー論の弱点を衝くことによって、以下の2点を最初に明らかにしようと、吉本が考えたからだと思われます。
(1)上部構造としての幻想領域は、下部構造のようにつみかさねられ発展してゆくようなものではなく、独自の成り立ち方をしていること。
(2)人間の観念の世界である幻想領域には、≪1≫と≪2≫と≪n≫の各位相があること。
    ≪1≫ 個体の自己幻想 = ひとりの人間の心、心理の位相
    ≪2≫ 対幻想 = 性の世界、個体と個体とが出遇う位相
    ≪n≫ 共同幻想 = 多くの人間の間の共同性から生ずる制度の位相

※※※※

■■フロイト『トーテムとタブー』への批判(1)幻想領域の独立性〔40-41〕

■フロイトの考え方

禁制(:何かある対象への接触が禁止されること)なるものは、未開の心性に起源を持つ。――つまり、禁制はいわゆる近代的理性によって合理的に作り出されたものではない。
したがって、以下の2種類の禁制から共通の心性をとりだし、アナロジーによって理論化することができる、とフロイトは考えた。
▼「理性的」でない禁制 = 神経症患者の(自分自身に課した)タブー
▼「近代的」でない禁制 = 未開の種族の(制度として存在する)タブー

フロイトのこのアナロジーを成立させているのは、人間の心の世界を、レンガのようにつみかさねられてできた世界だとみなす発想である。この発想でゆくと――
▼個々の人間(個体)の<生涯>において、心はつみかさなってゆく。
  → 神経症患者の心は、<正常>な成人の心のあり方からの退化とみなせる。
▼人類全体の<歴史>において、心はつみかさなってゆく。
  → 未開の種族の心は、「近代化」された社会の成員に比べて遅れたものとみなせる。

個々の人間の<生涯>と全人類の<歴史>とを対応させることができるという点で、このような発想には確かに有利な点もある。
またこの発想によって、タブーの対象への恐れとつよい願望との両価性という、神経症患者の臨床から得られた知見を、未開の種族における禁制の解明に援用することが可能になった。

■フロイトへの批判

レンガのようなつみかさなりとして人間の心の世界をイメージするということは、人間の心を形のある物質のように考えているということであり、また、心の発達を生産様式の発展のように捉えているということでもある。
しかしながら、人間の心の世界は幻想なので、レンガのようにつみかさねられたものではない。
ひとつには、幻想には形がないという意味において。
そしておそらくもうひとつには、幻想とは上部構造の言い換えであるという意味において。
心の世界は上部構造なのだから、それは下部構造のように段階を追って発展してゆくものではない。
上部構造としての心の世界とは、つねにそのときどきの現在において現実的利害(=下部構造)の上に築かれる、独立した観念の領域なのである。

※ ここで『カール・マルクス』に出てくる<現実性>/<本質性>/<幻想性>という用語群を用いると、
<現実性>= 現実的利害の領域 → 下部構造
<幻想性>= 幻想の領域 → 上部構造
となり、この<幻想性>の中にさらに ≪1≫個体の自己幻想 ≪2≫対幻想 ≪3≫共同幻想 があることになります。
また、<本質性>はこれらの関係を解き明かす知識人の思考を指します。
「<本質性>の思想家、吉本隆明」をご参照ください。

■■フロイト『トーテムとタブー』への批判(2)幻想領域の3つの位相〔41-44〕

■フロイトの考え方

フロイトのタブー論において吉本が最も関心をひかれる、近親相姦にたいする<性>的な禁制と、王や族長にたいする<制度>的な禁制は、以下の図のようなもの。
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■フロイトへの批判

フロイトの論はいかにもありうべきことにおもわれるが、あくまでも(A)未開人の<性>的な心の劇としてのみ真実らしい力をもっているのであって、(B)制度を論じるものとして説得力があるのではない。
(A)未開人の<性>的な心の劇として論じていたものを(B)制度へとすりかえてしまったのは、フロイトの誤解である。
では、なぜそのような誤りが生じたのか。

▼まず、人間の<性>的な劇を、まったく個人の心的なあるいは生理的な世界のものとみなしたところに、フロイトの誤りがある。
人間の<性>的な心の劇は、個体に固有な世界(個体の領域)ではなく、個体と他の個体とが出遇う世界(対の領域)に属する。
吉本は<性>的な心の世界のあり方を、ひとつの個体だけの心の世界とは区別して、対幻想と呼ぶ。
▼さらに、<性>としての人間をほんとうの人間とみなしたところにも、フロイトの誤りがある。
フロイトは人間を<性>的な存在として一元化して捉えるため、<リビドー>という単位を導入したが、フロイトが根源的なものと考えるこの<リビドー>の中には、じつは以下の3つの位相が混在してしまっている。
 ≪1≫個人の<性>的な心の世界……ひとりの個体がその心の中で<性>をどう捉えているか。
 ≪2≫<性>的な経験の世界……個体が他の個体を相手にしてどのような<性>行為を経験するか。
 ≪n≫<性>的な行為がもたらす結果……<性>行為の結果、周囲の他の個体も含めた共同生活がどのように変化するか。
<リビドー>概念に含まれるこの≪1≫と≪2≫と≪n≫の違いをはっきり認識していないため、フロイトが<リビドー>概念を根源的単位として用いながら個体の心から<性>的な経験へ、<性>的な経験から共同的な世界の制度へと考察を広げるとき、無理が生じてしまう。

まとめると、
フロイトは≪2=性≫を≪1=心≫と同一視したうえで、≪1=2(心=性)≫の原理をそのまま広げて≪n=制度≫の出現を論じたが、
そもそも≪1≫と≪2≫と≪n≫とはそれぞれ別のものであるため、その理論には原理的な欠陥があるといわざるをえない。
ただこの欠陥は、フロイトが抽象的な理論を作って世界を裁断しようとしたため現実と乖離した、というようなものではない。
フロイトの理論の内容が本質的に厳密さを欠いていたというだけのことであって、理論を作ってその理論に従って世界のあり様を解明しよう、という態度自体は咎めるにはあたらない。
[だから吉本は、フロイトよりもすぐれた理論を作って全幻想領域のあり様を解明してみせよう、というわけです]

■■フロイト『トーテムとタブー』への批判(3)未開王権の問題〔44-45〕

■フロイトのタブー論

未開社会での王や族長や首長などの禁制的な権威について考える。[といいながら、官僚制度の発生について考えています]
▼王や首長……例外的な地位
▼人民……王や首長の地位を両価的な対象として捉える
  + 願望や憧憬や崇拝
  − 不吉な恐怖 → 近づいたりとって代わったりする気にならない
▼宰相・官僚……王の(心理的)タブーを和らげるために発生する
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■フロイトへの批判

フロイトの考え方でゆくと、未開王権のもとで制度は、(個体の)心理的な理由から発生したことになってしまうが、これは誤りである。
制度とは≪n≫共同幻想であり、≪n≫共同幻想は、≪1≫個々の人間の<心理的>世界と逆立し、反心理的なものに転化してしまうものだからだ。(共同幻想は個体の自己幻想に逆立する)
≪n≫共同幻想は≪1≫個体の心理ではないので、制度が個体の心理から生じたとはいえず、むしろ制度は個体の心理に逆立する。
個々の人間が王を対象として捉えるときの心理にも、両価性は存在するだろうが、それは王権にたいする個人の意識(≪1≫個体の自己幻想)としてあらわれるものにすぎず、制度(≪n≫共同幻想)を作る契機ではない。

■■フロイト『トーテムとタブー』への批判(4)日本古代王権の問題〔45-46〕

■フロイトの日本古代王権論

(3)の延長。日本古代王権において神権と政治権力が分離するさま。
禁制の上にのっている世襲的な王は、じぶんが神聖な存在だという重荷におしひしがれて、現実界の事物を支配する能力を失う。
  ↓
身分の低い、王位の栄誉を否定しようとする有能な人間に、政治的な支配権を委ね、王は現実には意味のない宗教的な権力だけをうけつぐようになる。

■フロイトへの批判

人間の観念がつくりだした世界(全幻想領域)は、心理的な思弁(≪1≫個体の心理からの説明)によっていちおう「解釈」できてしまう、という意味ではいくらかの真実味が感じられるが、厳密な思考が正しい結論を導き出したという真実性はない。

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