documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 『共同幻想論』「禁制論」(2)民俗譚はなぜ資料になるのか

<<   作成日時 : 2013/11/12 01:47   >>

トラックバック 0 / コメント 0

吉本隆明『共同幻想論』「禁制論」(2)民俗譚はなぜ資料になるのか

初出:
「文芸」1966年11月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

画像


■■新たな前提をもとに禁制について考える〔46〕

フロイトの誤りを踏まえたうえで、日本の未開の段階における禁制について考える。
 ≪1≫<自己なる幻想>
 ≪2≫<対なる幻想>
 ≪n≫<共同なる幻想>
――禁制は、これらのうちのどれを対象とするかによって、まったく異なった次元の世界を展開する、ということを前提としなければならない。

未開のはじめの段階では、≪1≫と≪2≫と≪n≫は互いに複雑に絡みあっているため、クリアな形象を取り出すことはできないだろうが、民俗譚を資料にして、未開の幻想のさまざまな形態をかんがえてゆこう。
その際、民俗譚の古くしかも新しいという矛盾した性格を、正確にとりあつかうように注意しよう。
・民俗譚の古さ……未開の状態をうかがえる。
・民俗譚の新しさ……変形されて現在に伝わっている。
――この矛盾を正確にとりあつかえれば、民俗譚は、未開の幻想のさまざまな形態をかんがえるための、唯一の資料でありうる。
  ↓
なぜ民俗譚が唯一の資料でありうるのか。

■■民俗譚が唯一の資料でありうる理由〔46-49〕

※※ 先に結論だけまとめておくと ※※

タブーをめぐっては、大まかに分けて<黙契>という状態と<禁制>という状態との2種類があり、その2つは日本の思想的土壌において、区別しがたくからみあっている。
未開の<禁制>を知るための好都合な資料としては、神話と民俗譚があるが、神話は<黙契>の資料には適していない。
<禁制>と<黙契>とがからまった幻想について知るには、民俗譚がいちばん良い。

※※※※

■タブーのシステム

そもそもタブーとは、どのような意識の働きかというと、下の図のようなものである。
画像

これをもとに、タブーの対象が≪1≫自己であったとき、≪2≫ひとりの他者であったとき、≪n≫共同性であったとき、の3つのパターンを図示すれば、下の各図のようになる。

≪1≫タブーの対象が自己のとき、
画像

≪2≫タブーの対象がひとりの他者のとき、
画像

≪n≫タブーの対象が共同性のとき、
画像


■<禁制>と<黙契>

一般的に、≪1≫個体の心の現象は、すべて≪n≫共同性の中の観念と逆立してあらわれる。
タブーをめぐる観念においても同じことがいえるはずである。
しかし、共同性の中での生活において<正常>な個体は、個体の心としては共同性と完全に合致しなくても、共同性との間に合意を成立させている。
以下、タブーをめぐっての共同性と個々のメンバーとの関係のあり方を整理する。

(i) <黙契>

<正常>な個体も、共同性の内部にタブーの対象を見出し、それにたいして怖れや崇拝などの両価的な感情を抱いている。
しかし、<正常>な個体のタブーは特異なタブーではなく、共同のタブーにたいして合意させられている。
つまり、同じ共同性の他のメンバーたちと同じようなタブーを、同じように認識しているのが<正常>な個体である。
<正常>な個体はいわば共同のタブーを内面化しており、そういう意味では、タブーそのものを強烈に意識することはなく、タブーを強制されているとは感じない。
これを<黙契>と呼ぶ。

(ii) <禁制>≪1≫……じぶんにとってじぶんがタブーの対象である状態

強迫神経症のなかにもっともあざやかにあらわれるような、タブーの対象に自己を選んでしまった個体の場合。

禁制ではかれの意識は、どんなに共同性の内部にあるようにみえても、じつは共同性からまったく赦されていない。いわば神聖さを強制されながら、なお対象をしりぞけないでいる状態だといえる。


※ 上の引用部の意味がよく分からないのですが、たぶんこういうことかと――
ある共同性において、他のメンバーが共同的にタブーとしている対象を自分の対象として受け入れず、自分自身をタブーの対象としてしまった特異な個体は、形としては共同性に所属していても、共同性から正常なメンバーとして認められることはない。
共同性はその特異な個体にも、共同の対象を神聖なものとして受け入れ、共同のタブーを分かち持つことを強制するが、特異な個体は圧力を加えられてもなお、自分の対象である自分自身を放棄することなく、特異なタブーの中にとどまっている。
そしてこのように、共同のタブーが内面化されておらず、個体のタブーの対象と共同のタブーの対象とがくいちがい、共同のタブーが個体への強制という形で意識されているとき、そのような状態を<禁制>と呼ぶ。

(iii) <禁制>≪n≫……共同性がタブーの対象である状態

禁制の対象が<共同性>であったばあいの個体でも事情はおなじである。


※ 共同性を対象とするタブーというのは、ちょっとよく分からないのですが、ある共同体の共同生活の中から生み出された何らかのものを、タブーの対象としている、ということでしょう。
この場合でも、個体のタブーの対象と共同のタブーの対象とが一致しないのならば、(ii)で見たのと同じようなことが起こっており、それは(<黙契>ではなく)<禁制>である、というわけです。

(ii)と(iii)をまとめて――

ある<幻想>の共同性がある対象を、それが思想にしろ、事物にしろ、人格にしろ共同に禁制とかんがえているばあい、じつはそのなかの個人は、禁制の神聖さを強制されながら、その内部にとどまっていることを物語っている。


※ 上の引用文も分からないのですが、「その内部」の「その」は「個人の」なのでしょうか、それとも「共同性の」なのでしょうか。
・「個人の」と取った場合 → ある共同体の中で、あるものが<禁制>のタブーの対象とされている場合、共同体の中のそれぞれの個体は、<禁制>における「神聖」な対象をタブー視することを強制されながらも、じつは自分自身のタブーを放棄せずにいる。
・「共同性の」と取った場合 → ある共同体の中で、あるものが<禁制>のタブーの対象とされている場合、共同体の中のそれぞれの個体を見てみるとじつは、(<黙契>のように共同のタブーをスムーズに内面化しているのではなく、)<禁制>における対象を「神聖」なものとしてタブー視することを強制されながら、共同性の中に身を置いている。

禁制によって支配された共同性は、どんなに現代めかして心理にラディカルな姿勢にみえても、じつは未開をともなった世界である。


■<禁制>と<黙契>との混融

まとめるとタブーには、内面化された<黙契>と、強制される<禁制>との2種類がある。
<禁制>……個体が、共同のタブーの対象を受け入れることを、制度から強制されているように感じる。→ その強制されたタブーの感覚は「伝染」し、共同性の中に広まる。
<黙契>……共同のタブーの対象を受け入れることに個体が合意し、タブーを内面化する。→ その合意が共同性の中に広まる。

<黙契>と<禁制>は本質的には別のものなのだが、日本の思想の土壌では、共同性の中に広まると<禁制>と<黙契>はみかけがおなじになってしまい、ほとんど区別できない。
日本では、知識人も大衆も、強制的な制度としての<禁制>(幻想の権力)から離れてしまうことへの怖れと、<黙契>の体系である生活共同体(習俗)から乖離してしまうことへの怖れとを、意識の中で区別できていない。

なぜ区別できないのか。
じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識から、個体レベルの<禁制>が生まれ、その<禁制>は「伝染」して共同幻想にまで広まってゆく。
つまり、個体の心の中に<禁制>を生み出すのは、意識のあいまいさである。
この最初のあいまいさのせいで、個体の心の中で、<黙契>と<禁制>は混融されてしまうのである。

■混融の資料としての民俗譚

さて、古代日本で制度を生み出した人間の幻想のあり方を探るのが、『共同幻想論』の――少なくとも「禁制論」の――目的だった。
したがって、古代日本における人間の心を教えてくれるような資料が必要になる。
そのとき、<禁制>についてだけ知ればよいのなら、神話と民俗譚が資料として考えられる。
しかし、日本においては<禁制>と<黙契>は分かちがたく混融してしまっているので、<禁制>のあり方だけでなく<禁制>と<黙契>のからみあいを示唆してくれる資料の方が望ましい。
神話は、権力によって高度につくられたものなので、習俗と生活威力とがからまった<黙契>の位相は、あまり伝えてくれない。
民俗譚は、未開の時代から現代に伝わるまでの間にかなり変形されており、古代の人間の心のあり方をダイレクトに見ることができるわけではないものの、その変形は習俗や生活威力によるものなので、正しくとりあつかえれば民俗譚は、<禁制>と<黙契>の混融の様子を知るための唯一の資料となりうる。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

『共同幻想論』「禁制論」(2)民俗譚はなぜ資料になるのか documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる