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zoom RSS 『共同幻想論』「禁制論」(3)山人譚の<恐怖の共同性>

<<   作成日時 : 2013/11/13 04:14   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「禁制論」(3)山人譚の<恐怖の共同性>

初出:
「文芸」1966年11月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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■■『遠野物語』の山人譚〔49-51〕

柳田国男の『遠野物語』は、根本資料としての条件を備えており、自由な素材として使うことができる。
そのうちの山人譚を、タブーに関するわたしたちの関心にひきよせてみる。
素材とするのは以下の(1)〜(4)。

▼素材(1)▼『遠野物語』三
村の若者が山奥で、長い黒髪の女を撃ち殺し、その髪を切って家路についたが、途中で耐えられないほど睡気をもよおした。夢現の間に大男が現れ、髪をとり返して立ち去った。
▼素材(2)▼『遠野物語』四
笹を刈りに山に入った男が、笹原の上を歩く長い黒髪の女を見て、怖ろしさから病にかかり、やがて死んだ。
▼素材(3)▼『遠野物語』六
ある長者の娘が雲がくれして数年後、おなじ村の猟師が山奥でその娘にあった。娘は、或る者にさらわれてその妻にさせられた、生んだ子どもは夫が食べてしまった、自分はここで一生涯を送るがひとにはいわないでくれ、おまえも危いからはやく帰った方がいい、と言った。
▼素材(4)▼『遠野物語』七
(3)とほぼ同じ。

■■恐怖の共同性〔51-52〕

柳田は上の話の中の、村人たちの<恐怖の仕方>ともいうべきものに興味を覚えたのに違いない。

一般的に、<恐怖>の迫真力(強さ)と共同性(広がり)との関係は、次の図のようになっている。
(「共同性」とはここでは、「いかに多くの人間に共有されるか」という意味)
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『遠野物語』は、「又聞き」と「そうだ話」の位相にある。(下図)
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いま、『遠野物語』からの素材(1)〜(4)について、<恐怖の共同性>という位相から、多くの人に共有されうるであろう恐怖の要素を抽出するとすれば、つぎのような点に帰せられる。
(1) 山人そのものにたいする恐怖
(2) 山人と出遇ったという村人の体験が夢か現かわからないという恐怖
(3) 山人の住む世界が、村人には不可抗な、どうすることもできない世界だという恐怖

■■恐怖の共同性(1) 山人そのものにたいする恐怖〔52-53〕

山人そのものにたいする<恐怖>は、以下の2つのどちらかに還元される。
 @ 文化の発達した異族にたいする未開の種族の<恐怖>
 A 土着の異族にたいする侵入してきた種族の<恐怖>
『遠野物語』の山人譚はたかだか100年たらずむかしという位相にあるので、@とAのどちらもありうる。
 @→ 山人は西洋人の象徴。
 A→ 山人はエゾのような未開の異族の象徴。

それはそれとして、『遠野物語』の山人譚にわたしたちがリアリティを感じるのは、民俗学的な興味のせいではなく、心的な体験にひっかかってくるものがあるからである。
その心理的なリアリティという観点からいって重要な<恐怖の共同性>の要素は、この(1)よりも、(2)と(3)である。

■■恐怖の共同性(2) <入眠幻覚>の恐怖〔53-58〕

※ これはテキストでは(1)と書かれていますが、さきほど抽出した<恐怖の共同性>の(2)(山人と出遇ったという村人の体験が夢か現かわからないという恐怖)に対応しているため、こちらでの表記は(2)にします。

■入眠幻覚としての山人譚

素材(1)のような、山人に出遇う体験は、心の中で(幻想として)どのように生じるのか。
人のあまり通わない深山を駆けずりまわる猟師は、奥の奥を独りでたどってゆく体験ににた時間をもつ。
猟師は疲労し、判断力が弛緩し、白昼夢をみる。
もしもその猟師が、山人にまつわる他人の体験や言い伝え(それは山奥の雰囲気への恐怖が生み出したもの)を幼児のときにでもきいていたとすれば、その記憶が心の中でよみがえり、白昼夢のうちにたやすく山人に出遇い、山人を銃で撃ち、山人と話を交わすという、入眠幻覚にさらされるはずである。
これが、入眠幻覚としての山人譚である。

≪1≫個体の自己幻想の水準
――なぜ個体としての猟師が山人の幻想に出遇うのか:
猟師は、里人にけっしてであわない山にはいり、人と言葉を交したい誘惑を感じながら獲物を追う生活を日常くりかえしているため、どうしても山にすむ人の像を結んでしまう。
だから猟師の入眠幻覚は、山人に結晶する。

  ↓ 共同性の獲得

≪n≫共同幻想の水準(恐怖の共同性)
――なぜ多数の個体が同じ山人の幻想に出遇うのか:
上で見たような心の状態は、猟師たちの日常において共通している。
山人譚が各地に分布しているのは、おなじような生活をしている猟師たちに固有な幻想が、ある共同性を獲得してゆく[ある類型的な物語の形をとって広まってゆく]からである。

▲民俗学批判
フレーザーやタイラー、あるいは学的体系の構築者としての柳田国男など、従来の民俗学者は上のような思考方法をとらず、幻想が幻想として共同性を獲得する様を考察できていない。
民俗学は、民話や伝承を蒐集し、分類し、分布を調べ、その分布を具体的な交通の結果として理解しようとする。
しかし、民俗譚をかんがえるばあい、そのような現実性の領域での整理だけでなく、幻想性の領域における共同性を了解することが重要である。

■入眠幻覚としての<既視>体験

精神病理学上の<既視>体験は、極度の疲労状態において幻想的な体験をする、という意味で山人譚ににている。

<既視>体験:
極度に疲労して歩いているとき、いまとおっている道が、じつははじめてとおった旅先の道であるのに、いつか視たことがある風景のようにおもわれてくるというような体験。

山人譚と<既視>体験が、にたような幻想(=心のはたらき)の体験だとして、では、両者はどのように違うのか?

■山人譚と<既視>体験との違い

▼『遠野物語』の山人譚
猟師が繰返している日常の世界からやってくる<正常>な共同幻想≪n≫。
→ ≪n≫大衆の共同幻想は、日常生活に幻想の世界をよせる。[日常生活の中に幻想の世界を見出だす]

▼わたしたちが体験する<既視>
非日常の場面で出遇い感ずる<異常>な個体の幻想≪1≫。
→ ≪1≫個体の自己幻想は、非日常なところに幻想な世界をみる。

――山人譚と<既視>とのこの違いは、≪n≫共同幻想と≪1≫個体の自己幻想との逆立を象徴している。

■入眠幻覚の二様の形(個人性と共同性)

<既視>体験の本質:
疲労によって判断力の時間性が変容したために、感覚的な受容[知覚]とその了解[脳での処理]とが共時的に[同時(と感じられる範囲の極小のタイムラグ)に]結びつかないで、いったん受容した光景を、内的にもう一度視ること。

しかし大岡昇平の『野火』の主人公<私>は、上の定義に似た一般的な<既視>解釈(ベルグソンのもの)に満足できず、自分が個体の幻想として経験している<既視>に、固有の意味をあたえようとする。
敗残兵として死にさらされながら自分が経験している<既視>に、『野火』の<私>は倫理的な意味をあたえずにはおられない。
もしも自分の経験している<既視>が、一般的な<既視>の範疇に過不足なく収まるものであると認めるなら、敗残兵として異国の地で生命をおびやかされながら逃げまわっている自分の体験が、遊びのために山登りをした誰かが疲労して体験した<既視>と、どこもかわらないものだと認めることになってしまう。

吉本にいわせれば、『野火』の<私>は結局のところ間違っていて、<既視>の本質は上のようなものでしかないのだが、
『野火』の<私>の間違いをあげつらうよりも、これを手がかりにして、覚醒時の入眠幻覚のような心的な体験が、人間にとって個人性と共同性という二様の形であらわれうる、ということを以下確認したい。

▼『野火』の<私>の入眠幻覚=<既視>
→ まったくはじめての心の体験のようなものとして、≪1≫個人幻想として体験。
<既視>とは、多数の人間によってたくさん繰返されたであろう≪n≫共同幻想を、≪1≫個人幻想として――自分だけに固有のはじめてのものとして――体験する、という心的な矛盾である。
個体を訪れる心的異常。
個人性。

▼『遠野物語』の猟師が感ずる入眠幻覚=山人
→ 本質的にいって、猟師仲間の日常生活の繰返しの中から生まれた共同幻想が、共同的に語り伝えられたものであり、個体の<異常>ではない。
山人譚の恐怖の共同性においては、<正常>な≪n≫共同幻想が、<正常>なメンバーたちによって共有されている。
だれかが山人に遇う体験をしたと[そんなことがあるわけがないのに]語ったとしても、それは共通の日常生活の体験によって練りあげられた≪n≫共同幻想を、嘘として語っただけであって、その個体が<異常>であるとはいえない。
共同性。

■■恐怖の共同性(3) <出離>の心の体験〔59-60〕

『遠野物語』の素材(3)(4)は、村落共同体から<出離>する心の体験としてリアリティをもつ。
村落共同体から出奔して他郷へ住みついたものが、あるとき同郷の村人に出あって、あまり良いこともなかった出奔後の生活を語る、といった比喩におきかえられる。

この種の山人譚の根には、<出離>の禁制[村落共同体から出てはならないというタブー]がある。
共同体の外の土地や異族といった未知の外部(ほとんど他界にひとしいもの)への恐怖が、共同体の内側を<出離>の禁制でむすびつけ、「村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になる」という恐怖の共同性から、素材(3)(4)のタイプの山人譚が生まれた。

それでも、心のタブーをやぶって出奔するものもいたし、そうせざるをえない事情もあった。
タブーをやぶったものは、共同体に戻れないよそものになった。

■■恐怖の共同性によって画定された共同体の世界〔60-61〕

『遠野物語』の山人譚にみられる恐怖の共同性は、時間恐怖と空間恐怖の拡がりに本質的に規定されている。
▼時間恐怖
「又聞き」と「そうだ話」で手をのばせる100年そこそこのひろがりしかない。
  → それより前は、未知の恐怖にみちた世界であり、共同体のタブーにより疎外された[共同体の範囲の外へと出された、外だとみなされた]幻想の世界である。
▼空間恐怖
村落共同体から出られない。(<出離>の心の体験を参照)
  → それより外は、未知の恐怖に満ちた世界であり、共同体のタブーにより疎外された幻想の世界である。

これらの時間的、空間的境界の内側にある既知の世界は、さまざまの掟にしめつけられた山間の村落である。

▲『遠野物語』の山人譚と現代
『遠野物語』の山人譚から、現代のわたしたちは、個体の入眠幻覚と個体の出離感覚が生む多彩な幻想と、哀切な別離感をよみとることができるが、
わたしたち自身もまた、現代なりのタブーを作り出しそれに縛られているため、『遠野物語』の幻想や別離感に、気楽に陶酔することはできない。

※※ 恐怖の共同性 ※※

まとめると、『遠野物語』の山人譚にみられる恐怖の共同性とは、
時間的にも空間的にも限定された村落共同体の、時間的あるいは空間的な外部にある未知への怖れが、内部のメンバーの幻想の中で共有され、生きられていた(いる)ということ、
というふうになると思います。
自分たちの共同体が、時間的にも空間的にも貧弱であること――外部の未知なるものに対する優勢が保証されていないこと――が感じられているため、時間的あるいは空間的な外部への恐怖が、そのつど内部の「いまここ」で共同幻想となっていた(いる)わけです。

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