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zoom RSS 『共同幻想論』「禁制論」(4)共同幻想の伝承

<<   作成日時 : 2013/11/13 06:27   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「禁制論」(4)共同幻想の伝承

初出:
「文芸」1966年11月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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■■柳田国男批判――共同幻想の伝承〔61-64〕

■佐々木鏡石の夢

『遠野物語』の内容を柳田国男に語った佐々木鏡石は、娘を亡くした後、死んだ娘に会う夢をみた。
夢の中で鏡石が「おまへは今何処にゐるのか」と尋ねると、娘は「私は早池峰の山の上に居ます」と答えた。

■柳田の「恒常性」の理論

柳田国男は上の鏡石の夢を、「山は人間の霊があつまり宿るところだ」という高所崇拝の信仰のあらわれとして解釈した。
また柳田は、学的な体系を作ってゆく中で、自分の蒐集した山人譚を、高所崇拝の信仰の具体的サンプルとみなすようになった。

柳田は、タイラーやフレーザーの分類した高地崇拝や呪術の原始的な心性といった「恒常性」をこそ問題にし、その理論でものをかんがえた。
「恒常性」の理論とはつまり、人間の原始的な心性は時代を経るうちに変形はうけるだろうが、そのもっとも重要な部分はずっと変わらないはずだ、という静的で図式的な思考である。

柳田にとって、鏡石の夢と山人譚はそれぞれ、フレーザーが原始的心性として理論化した「積極的命令の呪力」と「消極的命令の忌」に対応するようなものであり、高所にたいするおなじ心性の両面にほかならない。
▼積極的命令の呪術
欲する結果を生ぜしめようと志す。
鏡石の夢 ← 遠野の村人は早池峰を死者の霊がゆきたいと願ってあつまったところだとかんがえた。
▼消極的命令の忌(タブー)
欲しない結果を避けることを計る。
山人譚 ← 遠野の村人は山人は怖ろしいものだという猟師の話を伝えた。

■吉本による鏡石の夢の解釈

鏡石の夢について、吉本は柳田のような解釈をしない。
鏡石の夢と『遠野物語』の山人譚は、以下のように対応している。
・鏡石の夢 → 猟師が山の中で経験した入眠幻覚
・鏡石 → 村の猟師
・亡くなった娘 → 山人にさらわれて妻となった女
つまり、鏡石の幻想は山人譚における幻想と同型のものである。

これは偶然のことではない。
民話(たとえば『遠野物語』の内容)がしばしば現実にはありうべくもない語り伝えから成り立っているとすれば、それを伝承する語り手(たとえば佐々木境石)も空想癖のつよい人物でなければ、語りのリアリティは保存されない。
つまり、民話を聞く人間が、空想的なものへの感性をもたず、非現実的な内容を信じなかったとしたら、民話は「本当にあったこと」「ありうること」として伝えられてゆかない。
佐々木境石は空想癖のつよい人であった。
鏡石は民話を聞き、その非現実的な内容を信じ、そして自ら語ることをとおして、民話の根源にある共同幻想へと遡り、それに自分を一致させようとした。
そんな鏡石だったからこそ、娘の死をかなしんでいたとき、入眠幻覚のなかで、村落共同体を支配してきたタブー[他界への恐怖]の幻想をたどろうとして、山人譚にそっくりな夢をみたのだった。

※※ 柳田国男批判 ※※

そもそも「禁制論」の目的は、日本において<黙契>(生活の中で内面化されたタブー)と<禁制>(権力によって強制されたタブー)とが混融している様を解明することでした。〔48〕
その際、「古くしかも新しいという矛盾した性格」を持つ民俗譚が「唯一の資料」として採用されたのは〔46〕、未開の時代から現代へ向けて、「習俗的なあるいは生活威力的な変形」をこうむってきているからでした。〔49〕
この「習俗的あるいは生活威力的な変形」とは、共同体のメンバーが民俗譚を時間的に伝承するという契機であり、時間軸における<恐怖の共同性>(ひろがりをもつこと)です。

恐怖の共同性:
幻想としての恐怖が、いかにして時間的あるいは空間的なひろがりをもち、共同のものとなってゆくか、という幻想領域における伝承の問題。

少し前の部分でも吉本は、民話の空間的なひろがりについて、柳田が幻想性の領域における<恐怖の共同性>を了解しておらず、現実性の領域しか捉えていない、と批判していましたが〔54〕、
ここでは吉本は、時間的な<恐怖の共同性>を柳田が見ていない、と指摘しているようです。

共同体に伝わる民話を聞いた者が、その民話をとおして根源的な共同幻想へと自分の心を遡らせ、≪1≫自己幻想と≪n≫共同幻想とを一致させ、今度は自らが語る者となる、という伝承の契機こそが、未開の段階から現代へかけて「習俗的なあるいは生活威力的な変形」を起こしてきたのであり、
この伝承のあり方(恐怖の共同性)を正確に捉えなければ、<黙契>と<禁制>との混融を解き明かすことはできない。
――これが吉本の主張なのではないかな、と思います。
(ちなみに、このような伝承は、空間的にも起こっているはずです)

※※※※

■未知の外部に関わるタブー

『遠野物語』の山人譚は、高所崇拝の畏怖や憧憬のあらわれではなく、
異郷や異族といった他界(未知の外部)のものにたいする、地上的利害[現実性の領域]としての崇拝や畏怖のあらわれだったというべきである。[恐怖の共同性(1)に対応]
そして、そのような未知の外部にたいする崇拝や畏怖を、共同体のメンバーにもたらしたのは、村落共同体のタブーである。

わたしたちの心の風土[日本人の幻想領域?]において、≪1≫個体にタブーが生じる条件は、以下の2つである。
▼個体が入眠状態にあること。[→ 恐怖の共同性(2)<入眠幻覚>に対応]
▼閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていること。[=自分の生存の根拠が限定的で貧弱なものだと個体が感じていること。→ 恐怖の共同性(3)<出離>に対応]

上と同じような条件によって、≪n≫共同幻想としてのタブーも生ずる。
▼共同体のメンバーたちが集合的に、現実と非現実をはっきり区別できない状態におかれ、
▼自分たちの共同体が時間的にも空間的にも貧弱であると感じたとき、
共同体のメンバーは、たやすく共同的なタブーを生みだす。
――しかし厳密にいうと、そのタブーは共同体のメンバーである個々の人間によって生みだされたというよりは、貧弱な共同体そのものによって生みだされたといったほうがよい。

※※ 民俗譚の時間的伝承のまとめ ※※

共同体の中の個体は、
既成のタブーを<禁制>としてただ受け継いで恒常的に後に伝えるというだけではなく、
自分たちの置かれている地上的な条件の中で、共同体と<黙契>を交わし、ときには自らの心を共同幻想と一致させ、共同のタブーを自分のタブーとして受け入れ、そのつど新しいものにして伝承してゆく。
そのため、<禁制>と<黙契>はわかちがたく混融するし、民俗譚は「習俗的あるいは生活威力的な変形」をこうむる。
――「古くしかも新しい」民俗譚から共同幻想を論じるときには、こう考えねばならない。

※※※※

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