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zoom RSS 『共同幻想論』「巫女論」

<<   作成日時 : 2013/11/14 15:20   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「巫女論」

初出:
「文芸」1967年2月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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※※ ここまでの議論 ※※

「禁制論」 →(1)(2)(3)(4)

禁制に代表されるような共同幻想としての制度がうみだされる条件は、以下の2点。
・共同体が有限で貧弱なものであると感じられていること。
・入眠幻覚のようなもうろう状態が実現すること。

「馮人論」

上の2点のうち、入眠幻覚のようなもうろう状態に注目すると、その入眠幻覚が志向するものには3つの類型がある。
≪n≫ 内面化された始原的な心性に向かい、それと一致しようとする入眠幻覚。
≪2≫ <他なるもの>(他の個体)を対象とし、それと一致しようとする入眠幻覚。
≪1≫ <自同的なるもの>を拡大しようとする入眠幻覚。
これらは下図のような転移に対応する。
画像

個体の幻想と共同幻想とが分離したとき、<異常>な個体が現れ、
その個体がじぶんの<異常>を自分で統御して共同幻想に資することができたとき、職業的な「馮人」となる。
巫覡の問題は、このような見通しの中で考察すべきである。

「巫覡論」

自分の幻覚を共同幻想に集中同化させる能力を、職業的に分化させた巫覡は、<いづな使い>のように共同幻想の象徴的対象を使いこなす。
その共同幻想の象徴と、<性>という対幻想の問題は、どのように関わるのか。
共同幻想を生む村落の利害と、対幻想を生む家の利害は、どのような関係にあるのか。

※※※※

「巫覡論」の終盤の問題提起から、「巫覡」のうちの<性>が焦点化され、「巫女論」が展開されます。

■■<巫女>の本質とは何か〔101-105〕

■なぜ日本の<巫>は女性であったのか

柳田国男の『妹の力』によれば、<巫>は日本では原則として女性であった。
なぜか。一般に考えられるであろう理由は以下の2つ。
@ 女性の生理学的な(?)性質……感じやすい、子供を生み育てるかなめ。
A 経済社会的な要因。
――これらはどちらも無意味におもわれる。

@はたんなる<想像>にすぎないので吉本はわざわざ反論しない。
Aの方向で、仮に「日本で<巫>が原則として女性であったのは、経済社会的な要因による」と断定するとしたら、その断定はどのような意味を持つのか。

一般に共同幻想[上部構造]は、社会的な共同利害(経済社会的な要因[下部構造])の上に成り立つ。
したがって、
男性が経済社会の主体になっているときには、共同幻想として男性の<巫>が生み出され、
女性が経済社会の主体になっているときには、共同幻想として女性の<巫>が生み出される。

Aとはこのような考え方である。
この考え方においては、男性か女性かという問題は相対的なものでしかない。
つまり、<巫女>が<性>として女性であるべき本質がとらえられていない。
したがって、Aも<巫女>の本質論としては無意味である。
@もAも、日本において<巫>が原則として女性であった理由を説明できていない。
なぜ日本において、<巫>は原則として女性であったのか。<巫女>の本質とは何なのか。

※ ここで否定された@とAは、ともに<現実性>の領域から<巫女>を説明しようとしたものだといえるかも知れません。
つまり吉本はまず、<幻想性>の領域の問題である<巫女>の本質を、<現実性>のみから説明しつくそうとしても無意味だ、と考えているのではないでしょうか。

■<女性>の本質

フロイトによる<女性>の定義:
乳幼児期の最初の<性>的な拘束が<同性>(母親)であったもの。

その拘束から逃れようとするとき(仮定@)、<女性>の<性>的志向は以下のどちらかになるしかない。
 (i) 異性としての男性
 (ii) 男性でも女性でもない架空の対象
さらに、男性以外のものを対象として措定したとすれば(仮定A)、つまり(i)を選択肢から排除したとすれば、そこで<性>的な志向の対象となる(ii)は、どういう水準と位相になければならないだろうか。
仮定@=女性を対象から排除する
仮定A=男性を対象から排除する
――ということなので、@Aの排除のあとでなおのこされる対象、すなわち(ii)の内容は、
自己幻想または共同幻想、ということになる。

吉本による<女性>の定義:
あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ。
  ↓ つまり
一般的には対幻想の対象となる他の個体(<他者>)を、何らかの理由で対幻想の対象にできなくなったとき、自己幻想か共同幻想を対幻想の対象とできるものが、本質としての<女性>である。
(対幻想:<性>を含んだ一対一関係において生ずる心のはたらきのこと)

そしてほんとうは、女性が<性>的対象として≪1≫自己幻想をえらぶか≪n≫共同幻想をえらぶかするとき、
≪1≫自己幻想 → じぶんの<生誕>そのもの
≪n≫共同幻想 → <生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)
を意味するので、そのときの≪1≫と≪n≫は限りなく近づけられる。
つまり、女性が<性>的対象の選択肢から異性としての男性を排除したとき、[そして同性の個体も排除していたとき、]
その女性の<性>的対象として、≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想は同致される。

■<巫女>の本質と宗教的権威

<性>的対象(≪2≫対幻想の対象)を≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想にえらんだ、
というのが<巫女>の本質である。
[このとき、巫女の対幻想の中で≪1≫と≪n≫が同致されている、という含意があります]

男の<巫>にたいする女の<巫>というだけであれば、巫女に共同的な権威は与えられないだろうが、
≪1≫か≪n≫(≪1≫≒≪n≫)を≪2≫の対象にえらんだ本質的な<巫女>は、
共同性にとって宗教的な権威をもつ。
  ↓
人間史のある段階では、その権威が普遍的な時代があった。
(例)『遠野物語拾遺』三四
・女性が共同幻想を<性>的対象とする、と人々に信じられていた。
  ↓ 言い換え可能
・共同体はある未明の時期において、共同幻想の至上の<性>的対象として<女性>をえらんだ。

■■日本の巫女の<性>的な未成熟〔105-110〕

『遠野物語拾遺』の<巫女>譚の特徴……巫女が唯名的存在であること。
巫女が主役として登場せず、媒介的なわき役にとどまる。
  ↓
こんな位相でしか登場しない巫女は、
成熟した<性>の対象として、村落の共同幻想をえらべない水準にある。
――つまり、『遠野物語拾遺』の<巫女>譚において、巫女が話の中で主体性を発揮できていないのは、
巫女が共同幻想を対幻想の対象とする、その<性>的なありようが未成熟であるため。
※ 未成熟とは、たとえば、共同幻想の象徴と具体的に性交(に類する行為を)しないことを指す。
  ↓
このような未成熟さは、日本の民譚全体の位相を象徴している。
――つまり、民譚を生んだ日本の共同幻想のあり方を象徴している。
  ↓ 具体的に見てみる

■未開な巫女

『遠野物語拾遺』五一、五三
▼村民の信仰心性
神仏を粗末にしてはならない、という聖なる禁制。
仏像=共同幻想の象徴。
▼巫女の心性
子供のほうが面白く仏像と遊んでいれば、仏像のほうも面白く子供と遊んでいるにちがいない、という相互規定的な考え方。
仏像=生きた対幻想の象徴。
――両者はあまりへだたっていない。
巫女の対幻想は<性>的に未発達であり、その未成熟を子供が象徴している。
画像

これらの話は、日本民俗譚にあらわれた≪2≫対幻想≪n≫共同幻想の関係の特異さを象徴している。
  ↓
日本の巫女の特異性(未成熟、未発達)をあぶり出すため、西洋の事例と比較する。

■聖テレサの<恍惚>

ウィリアム・ジェイムズ『宗教体験の諸相』
『内なる城』(『霊魂の城』)にある聖テレサの心の状態の描写を引用。
聖テレサはカトリシズムの神を、幻想において<性>的対象とする(志向し、それに心的に一致しようとする)。
聖テレサは<神が在る>ことを理念として前提している。
→ <神>は≪n≫共同幻想と、拡大された≪1≫自己幻想との二重性をもつ。
(一般的に神は、≪1≫自己幻想の象徴であるか、≪n≫共同幻想の象徴である)

聖テレサの心的な融合体験は、以下の2点において、『遠野物語拾遺』の巫女の心的体験よりも高度である。
@ 対象の抽象性……聖テレサの融合体験は、<神>の像を必要としない。
A <恍惚>の成熟性……<恍惚>とは、成熟した対幻想に固有なもの。
  ↓ これと比べると、
『遠野物語拾遺』では、
@ 仏像が必要とされる……抽象化されていない。
A <恍惚>ではなく<面白さ>……未成熟。

このように、『遠野物語拾遺』に典型的な形がみられる日本の巫女は、未成熟で未発達なものである。
それは日本の民譚を生んだ共同幻想が、比較的未熟な段階にあったことを意味している。

■■巫女とシャーマンの違い〔110-117〕

未熟さ以外の巫女の特性を調べるため、<性>的にやや成熟した巫女を例にとって考察する。
『遠野物語』六九
巫女は、巫覡一般として共同幻想に介入するのではなく、
<性>的な対幻想として共同幻想に介入する。
  ↓ これと同種のもの
■日本の口寄せ巫女「わか」
≪n≫共同幻想を、じぶんの<性>的な≪2≫対幻想の対象にできる。
  ↓ これと異種のもの
■シャーマン
個体の異常な≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想の象徴に同化する。

▼シャーマン
修業によってみずからの≪1≫自己幻想を異常な状態に置き、それを≪n≫共同幻想に同化させることで、共同体の共同の利害を心的に構成し、表現(=疎外)する。
<祈祷性精神病>の、類てんかん性の状態類分裂性の状態との間の転換を制御し、本質的に逆立しているはずの≪1≫と≪n≫との間の深淵をとびこすために、苦しい修業が必要。

※ 調べていないのでよく分からないのですが、吉本が「類てんかん性」と「類分裂性」という用語を使うとき、前者が≪n≫に、後者が≪1≫に振り分けられているようです。
・類てんかん性 → ≪n≫共同幻想の側
・類分裂性 → ≪1≫自己幻想の側

▼日本の巫女
≪1≫自己幻想としての異常さは必要なく、≪2≫対幻想を本質とする。
巫女になるには、<性>的な≪2≫対幻想の対象として≪n≫共同幻想をおもい描くという、<自然>に根ざした幻覚だけが問題なので、シャーマン一般の修業のような心的な苦患は必要ない。
  ↓ 
共同幻想を、架空の<家>(対幻想の場)をいとなむ<異性>としてえらぶので、巫女にとっては、
≪n≫共同幻想をうみだす共同体の利害
≪2≫対幻想をうみだす<家>の利害
――これらの間の関係だけが、現世的な矛盾である。

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