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zoom RSS 『共同幻想論』「他界論」

<<   作成日時 : 2013/11/14 19:12   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「他界論」

初出:
「文芸」1967年3月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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■■共同幻想の<彼岸>をどうかんがえるか〔118〕

一般に、幻想はどのようにして生まれるのか。
<現実性>の領域に何らかの利害があるとき、それが「ある構造を介して」〔26〕、<幻想性>の領域に個々の幻想を生む。
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さて、<他界>とは、共同体の外部であり、共同幻想の<彼岸>である。
共同体の外部は、共同体の利害とつながっていない。
したがって、外部についての共同幻想などというものは、ありえないようにも思われる。
[<他界>は共同体の内部に実体をもたぬため、幻想を生もうにも生みようがない、ようにも思われる]

しかし、共同体の外部についての共同幻想(<他界>の幻想)は、実際に存在しているようである。
このことをどうかんがえるか、というのが、「他界論」のとりあえずの主題。

結論を先にいうと――
共同体の内部にある≪1≫自己幻想≪2≫対幻想は、共同体の外部について、それを対象としてとらえることはできない。
共同体の外部は、それについての≪n≫共同幻想というかたちでのみ、≪1≫自己幻想≪2≫対幻想のなかに<侵入>してくるはずである。


さて、<他界>は<死>を介して想定されるものなので、
共同体の外部についての共同幻想(<他界>)を考察する前提を得るために、まずは<死>についてかんがえる。

■■<死>の定義〔118-122〕

ハイデガー『存在と時間』
生誕から死に向って存在している現存在(人間)の時間的なあり方を根源的にかんがえることなしには<死>の十全な把握は不可能である。
   ↓ ここから吉本が拾いあげるのは
● 生きている人間は<死>そのものを心的に経験することはできず、<死>を心的に作為[※]するしかない。 [※ 作為=操作、変形]
   ↓ やさしい言葉でいいかえる
<死>そのものは、個体の生の終わりにおいては、その個体の中で完結する直接体験として成就するが、
生きている人間にとっては、心の問題としてしか<死>はあらわれず、
しかも生きている人間はじぶんで<死>を体験していないため、そこであらわれた<死>は、想像され作為された関係[※]の幻想でしかない。
[※ 関係:個体内部に完結せず、他者(他の個体)を対象として必要とするようなあり方]
   ↓ テーゼ化する
● 心的な<死>とは、作為された関係幻想である。

――以上のことを、また少しいいかえると、以下のようになる。

人間は他の個体(他者)のことを、じぶんのことのように了解できない。
「じぶんと他者との間には共通性があるはずだ」という≪n≫共同幻想によって、自己と他の個体との間の溝を埋めた気になることくらいしかできない。
この問題は、<死>において極限のかたちであらわれる。
人間は自分の<死>についても他者の<死>についても、とうていじぶんのこととして心的に構成(想像)などできない。
つまり<死>は、≪1≫自己幻想(じぶんについての心のはたらき)や≪2≫対幻想(他の個体に向かう心のはたらき)に直接あらわれない。
  ↓↑[因果関係? どっちが原因?]
<死>では人間の≪1≫自己幻想または≪2≫対幻想が極限のかたちで≪n≫共同幻想から<侵蝕>される。
――つまり、≪1≫自己幻想≪2≫対幻想ではとらえきれない<死>のための空白を、≪n≫共同幻想によって埋めるしかない。
   ↓ 定義
● <死>とは、人間の自己幻想または対幻想が、極限のかたちで共同幻想から<侵蝕>された状態である。

要するに、生きている人間は<死>を自己幻想でも対幻想でもとらえられないので、
生きている人間にとって<死>とは共同幻想の問題である。
※ 生きている個体が<死>について考えるとき、どうしても「みんなが<死>をどうとらえているか」にある程度依存せざるをえない、ということでしょうか。
  ↓ だから
<死>の様式は、文化空間のひとつの様式[共同幻想のあらわれ]となる。
▼未開社会では
個体の生理的な<死>は、≪1≫自己幻想または≪2≫対幻想が、≪n≫共同幻想にのみこまれるような出来事として心的に了解される。
→ 個体の<死>は、個体が共同体の外部へ出ていくということを、幻想領域において意味する。
▼近代社会では
個体の生理的な<死>は、≪1≫自己幻想または≪2≫対幻想自体の消滅として、心的に了解される。[≪n≫共同幻想が比較的弱いから]
→ 共同体の外部に出ていく、というふうにはかんがえられない。

■■<死>の様式が志向する類型〔122-127〕

以上のことを前提に、<死>の様式が志向する類型をとりだせるはず。
ある共同体において<死>の様式が志向する類型は、<他界>(共同幻想の<彼岸>)の構造を決定している。

≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想によって<侵蝕>される<死>

▼このタイプの<死>の例:『遠野物語』九一

ある個体の<死>は、以下の@とAの綜合によって成立する。
 @ 生理的な<死>……<現実性>の領域での<死>
 A 幻想における<死>……<幻想性>の領域での<死>
「鳥御前」は@(生理的な<死>)に瀕したとき、A(幻想における<死>)を@に追いつかせる――なぜ死ぬのかという必然性を、心的に構成する――必要があった。
そこで、自分なりの納得をつくりだし(自己幻想としての作為)、
それを共同幻想であるかのように(自己幻想の)内部にくりこんだ。
[「こういうことが起こってしまったら、みんなこうなるものなのだから、私が死ぬのも仕方がない」みたいな話でしょうか]
つまり、@生理的な<死> → A幻想における<死>
  ↓
しかし、ほんとうに@→Aだといいきれるだろうか。
A幻想における<死>→@生理的な<死> という順序もありうる。
つまり、「死ぬはずだ」という意識が生理的な<死>をもたらした、ともかんがえうる。
なぜそんなことが起こるのか。
共同幻想の呪力が、自己幻想の内部で自己幻想を<侵蝕>するためである。
[「こうしたらみんな死ぬものなのだから、私も死ぬはず」という意識が、生理的な<死>を促進する]
共同幻想が自己幻想に<侵蝕>する度合に応じて、<侵蝕>された個体は自発的にじぶんを<他界>へ追いやり、共同幻想から心的に自殺させられる。

▼このタイプの<死>の性質

<死>が作為された自己幻想として、個体の自己への関係としてある段階。
自己幻想がじぶんにたいして作為された関係幻想としてあらわれる<死>。
じぶんが自分の<死>についてかんがえ、操作しているだけなので、他者(他の個体)としての死者が空間の中に現れない。
→ <他界>が空間性を獲得せず、時間性としてのみあらわれる。

なぜこのタイプの<死>では、<他界>が空間性をもたないのか。
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≪2≫対幻想≪n≫共同幻想によって<侵蝕>される<死>

▼このタイプの<死>の例:『遠野物語』二二、二三

死んだ老女が家に戻ってくる話。

▼このタイプの<死>の性質

<死>が作為された対幻想として、他の個体への関係として、生きている人間にあらわれる段階。
したがって、死者が空間の中に現われる。
→ <他界>が空間性を獲得。
このときの<他界>は、死者への対幻想に関わるものなので、
対幻想の場である<家>の共同利害によって、構造的な規定をうける。
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  ↓ ここから、新しい主題を

■■姥捨―― <他界>と<家>〔127-130〕

対幻想に<侵入>してくる<他界>の概念が、いかに現世的な<家>の共同利害と関係があるか。
  ↓
姥捨についてかんがえる。
なぜ村落の老人は60歳をこえると<他界>(共同性の外)へ追いやられたのか。
その本質的な意味をさぐる。

■ふつう姥捨の理由としてかんがえられるであろうこと

▼共同体の共同利害との矛盾
農耕にかける老人の労働力のうみだす価値(生産)が、その生活の再生産の過程に耐えなくなった。
→ 共同幻想の外へ。
▼<家>の共同利害との矛盾
<家>の働き手として失格した。→ 対幻想の外へ。

■決定的な理由

老人たちが<他界>(共同性の外)へ追いやられたのは、
老人たちは、対幻想の共同性[※]が、現実の基盤をみつけだせなくなったからである。

※ このへんがよく分からないのですが、「対幻想の共同性」とは、
「ある<家>のメンバーとして認めて一緒に暮らそうという気持ち」
みたいなことなのでしょうか。

対幻想の共同性が、現実の基盤をみつけだせなくなった、というのは、
対幻想として、村落の共同幻想にも自己幻想にたいしても、特異な位相を保ちえなくなった[※]
ということである。
対幻想として特異な位相を保ちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属するほかはない。
それが姥捨の風習の本質的な意味である。

※※ 推測 ※※

このあたりが本当によく分からないのですが、何とか私なりの仮説で、[※]の下線部を解釈してみます。
▼対幻想として
<家>が主題になっているはずなので、ここでは<性>より<家>の含意が強いのかと。
→ 家の中にいるものとして心的にとらえられる存在として
▼村落の共同幻想にたいして、特異な位相を保ちえなくなった
→ 村落共同体のメンバーが、「あの家にあの老人がいることは、共同体にとって、かけがえのない有意味なことだ」とおもえなくなった。
▼自己幻想にたいして、特異な位相を保ちえなくなった
→ おなじ<家>のメンバーが、「この家にこの老人がいることは、私にとって、かけがえのない有意味なことだ」とおもえなくなった。
  ↓ そうなると
<家>のメンバーの自己幻想にひたすら合わせるか、村落共同体の共同幻想に従うかしかない。
すると、どちらにせよ姥捨されてしまう。

――などとかんがえてみたのですが、まったく当たっている自信がないうえ、次のサンカの話でも「対幻想の特異な位相」という話題が出てきており、そちらと見比べてもまったくわかりません。
どなたか教えてください。

※※※※

■■生産様式と<他界>〔130-135〕

姥捨とは、空間的な<他界>へと老人を追いやることだった。
本来、<他界>(<死>)とは時間的なものだが、農耕民の共同幻想は、<死>へと向う人間の時間性に、空間という形をとらせた。
これは、農耕民の生産様式と、その<家>の作り方が、土地に執着したものだったからだろう。

■サンカの<他界>観

サンカの対幻想の基盤である<家>は土地の所有と無関係。
共同幻想も、土地の所有や定着の観念と無関係。
ここでは対幻想は、共同幻想にたいしても自己幻想にたいしてもはじめから特異な位相をもたない[※]
[※ この「対幻想の特異な位相」というのがわからないとダメなんでしょうけど、ちょっとまだ分かりません]
  ↓ したがって
サンカは<死>や<他界>のとらえかたが時間的。

■農耕民の<他界>観

農耕民は土地への執着から、時間的<他界>のみならず、空間的<他界>ももつ。
これらは柳田国男の指摘した「両墓制」に対応する。
・埋め墓 → 空間的な<他界> ……死んでも村の近くにいたい
・詣で墓 → 時間的な<他界> ……死んでも長く思い出してほしい

■古墳時代の<他界>の観念

▼前期
狩猟、漁獲などがおおく部族民の生業を占める。
→ <他界>は共同幻想から時間的に疎外(=表現)された観念。
時間的なものとしてしか<他界>が想定されず、空間性が希薄。
▼中・後期
しだいに農耕民が村落の大部を占めていった。
→ <他界>は共同幻想から空間的に疎外(=表現)された観念。
<他界>が空間としてイメージされるようになる。

■■<他界>の消滅について〔135〕

「多葬制」
真に<他界>が消滅するためには、共同幻想の呪力が、自己幻想と対幻想のなかで心的に追放されなければならない。
そして共同幻想が自己幻想と対幻想のなかで追放されることは、共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。
共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、
共同幻想が消滅しなければならぬという課題といっしょに、
現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質の課題である。

※ なぜこういう話題になったのかよく分からないのですが、「国家の死滅」のことをいっているのでしょう。

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