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zoom RSS 【読書メモ】クロソフスキー『ディアーナの水浴』

<<   作成日時 : 2014/03/10 14:58   >>

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ピエール・クロソフスキー、宮川淳・豊崎光一訳
『ディアーナの水浴』
水声社、1988年

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これまで2回読んでいるのですが、非常に難しく、理解しているとは言えなかったため、そろそろちゃんと消化しようと思って読み返しました。
今回も、読み始めたときはわけが分からなくて、100ページ強の一冊を納得しながら最後まで読むのに、とても時間がかかりました。
しかし読み終わってみると、だいたい理解できたような気がしますし、かなり面白かったといまなら言えます。
もしかしたらまったくの誤読になっているのかも知れないとも思いつつ、内容を簡単にまとめてみたいと思います。

繰り返しますが、まったくの誤読かも知れませんので、あくまでご参考程度にお読みください。

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※ 太字はテキストでの章題。太字でないものは清末による補い。〔 〕内の数字はページ数。
※ テキストでは、ディアーナを表す名として「アルテミス」も用いられます。アルテミスはギリシア神話の女神であり、ローマ神話でそれに当たるのがディアーナです。

【1】ディアーナとアクタイオーンの伝説の重要性〔5-6〕
ディアーナとアクタイオーンの伝説は、現在は通俗化されたイメージや物語になっているが、再検討し、かくされた意味をとり戻してやれば、強いかがやきを帯びるはずだ。

【2】ディアーナのテオファニーの両義性〔7-9〕
ディアーナのテオファニー(神の顕現)は、もっとも高い領域(所有されないもの)ともっとも低い領域(所有しうるもの)との結合という矛盾した性格を持ち、われわれを困惑させる。

【3】テオファニーと遭遇したアクタイオーン〔11-12〕
なぜアクタイオーンは、ディアーナのテオファニーと遭遇したのか。
アクタイオーンは、知恵の道に足を踏み入れた人間である。

(ここまでの章に題名がついていないのは、序章というか、前提および問題提起の部分だからだと思われます)

【4】ディアーナとキュプロークス・ブロンテース〔13-14〕
ディアーナのたくましさ。

【5】≪むごい、というかむしろ信じがたい境遇≫〔15-17〕
ディアーナにおいて、彼女の処女性は、宇宙の矛盾する二極を統一する完全無欠さと合致している。
アクタイオーンは人間(内在的存在)でありながら、女神ディアーナ(超越的存在)を、対象として手に入れようとする。

【6】銀の弓とディアーナの樹〔19-23〕
ディアーナの関わる4つの世界――鉱物、植物、動物、人間。

【7】ディアーナの身体的欲求と身づくろい〔25-27〕
ディアーナの水浴は、有用性(人間的な現実性、内在性の水準)から身を浄め、晴朗な無用性(神々の超越性の水準)に戻るためのものである。

【8】牡鹿への自己同一化〔29-31〕
牡鹿になった自分がディアーナにおどりかかる絵を見たアクタイオーンは、女神であるディアーナが自分(人間)と同じような欲望を持つと類推し、ディアーナの水浴を見ようと決意する。

【9】アクタイオーンとディオニューソス〔33-37〕
ディオニューソスと血縁関係にあるアクタイオーンは、ディオニューソスの性質である狂乱から、ディアーナを手に入れようという考えを抱いた。

【10】期待〔39-41〕
ディアーナの水浴を待つアクタイオーンの独白。

【11】ディアーナの好奇心〔43-46〕
ディアーナは、自分の身体を見たいという欲望を、さらにはその女としての身体を人間の男に見せたいという欲望を持つ。
そのような身体を形作るためにディアーナは、ディアーナの裸身を想い描いているアクタイオーンの想像力を借りる。
神性の演戯(演劇)としてのテオファニー。

【12】ディアーナと中間的ダイモン〔47-51〕
ディアーナに身体を与えテオファニーを可能ならしめるのは、神性と人間との中間に位置するダイモン(守護霊)である。

【13】アルテミスの背中〔53-55〕
ディアーナのダイモンが、ディアーナの身体について、アクタイオーン(=読者)に語る。

【14】ディアーナ付きダイモンの内緒話〔57-61〕
ディアーナのダイモンが、神々のテオファニーについて、アクタイオーン(=読者)に語る。

【15】映し出されたディアーナ〔63-68〕
神性と人間との中間にいるダイモンは、人間に夢想をもたらし、神話的空間にレフレクシオン(反省=反映)をもたらす。
前者(夢想、瞑想)は、内在的な存在である人間が見ることのできないはずの時間を見る、ということである。
後者(レフレクシオン)は、身体や思考の面で、神性の世界に人間性が持ち込まれる、ということである。

【16】アルペイオスの警告〔69-74〕
河の神アルペイオスがアクタイオーンに、欲望の成就するときには固定的な形は動きに変わる、ということを教えようとする。
予期(≒シミュレーション?)と出来事との決定的な違い。

【17】眼で狩りをする……〔75-78〕
人間は狩人的な狡猾な思考によって、対象の本質的身体(本当の姿)の影を罠にかけ、とらえようとする。
しかしまさにその狡猾さのせいで、絶対に対象の本質的身体(本当の姿)をとらえられない。

【18】森の女神は狩りに疲れると……〔79-82〕
アクタイオーンが見た、ディアーナが水浴にやってきた場面の描写。
描写は出来事(場面そのもの)の改竄でしかない。

【19】ディアーナの羞じらい〔83-84〕
アクタイオーンが見た、水浴を見られたディアーナの羞じらいの仕種。
(この章に題名がついていないのは、前章の延長だからだと思われます)

【20】もしお前にできるものなら、してみるがよい……〔85-87〕
ディアーナは水浴を見たアクタイオーンに水をかけ、そして言う。「さあ語れ、衣を脱ぎすてたわたしを見たと、/もしお前にできるものなら、してみるがよい!」
この言葉の前半は、神性と出会ったという出来事を演劇以外の方法で表象せよ、言葉を用いて描写せよ、という挑発である。
そしてこの言葉の後半は、この出来事によってお前の言葉は失われるのだが、というイロニーである。(実際、水をかけられたアクタイオーンは牡鹿に変身し、この言葉さえ理解できたかどうかあやしい)

【21】……われわれにもディアーナの水浴が見られないとは……〔89-92〕
牡鹿に変身させられたアクタイオーンはディアーナにとびかかる。
ディアーナは愛撫されながら身ぶるいする。

【22】鹿の王〔93-94〕
牡鹿となったアクタイオーンは、束の間ディアーナに受け入れられるが、すぐに猟犬にひきさかれ、ディアーナの処女の身体に血をそそぎかける。
(この章に題名がついていないのは、前章の延長だからだと思われます)

【23】月をくわえる〔95-99〕
アクタイオーンに対する総合的な評価。
アクタイオーンは、神性の本質的身体(本当の姿)を覆い隠す模像(シミュラクル)を破壊し、真実そのものを言語によって表象しようとした、といえる。

【24】アクタイオーンとわれわれ〔101-102〕
アクタイオーンによる、真の神性の探求の意義。
(この章に題名がついていないのは、エピローグというか、あとがきのようなものだからだと思われます)

以上、要点だけまとめました。
全体としては表象論になっており、【23】の章でまとまっていると思います。
アクタイオーンは真実を言語によって表象しようとしたが、しかし言語も模像であらざるをえぬため、アクタイオーンの試みは不可能なものであった、というのが、全体の結論だとはいえるでしょう。

テキスト自体は、高度に圧縮された文章であり、要点としてまとめられなかった部分にも刺激的な論点がたくさんあります。(特にいま私が興味を持っているのは、独特のアナクロニックな時間論です)
また、小説のように書かれている章もあり、描写が非常にエロティックで美しいです。

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