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zoom RSS 【読書メモ】ハイデッガー「技術への問い」

<<   作成日時 : 2014/11/11 19:18   >>

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マルティン・ハイデッガー「技術への問い」(1953年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

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1.技術の本質は「開蔵」である。

技術との自由な関係をもち、技術的なもの〔=今日における技術の所産など〕を限界まで経験するために、個別の技術的なものではなく、技術の本質を問うことにする。

技術の本質を問うとは、「技術とはなんであるか」と問うことである。
この問いに対する通俗的な答えは、「技術とは目的のための手段である」という道具的なものか、または「技術とは人間の行為である」という人間学的なものであろう。
技術に対するこのような道具的にして人間学的な規定は「正しいもの」〔=とりあえず妥当するもの〕であり、人間は目的と手段を軸にした道具的観念に従って、人間と技術との「正しい」関係を決定している(つまり、人間は技術をたんなる手段だと思い込み、うまく使いこなそうとする)。
しかし、道具的観念は「正しいもの」ではあっても、「真なるもの」〔=本質的な真理にかない、自由をもたらすもの〕ではない。

道具的観念の限界を調べるため、「道具的なもの(目的と手段)とはなにか」と問うてみる。
この問いに答えるためには、「原因」と「因果性」について考えればよい。

スコラ学派は、「原因」を以下の4種類に分類した。
 ・「質料因」(ものを作るときの材料)
 ・「形相因」(材料の収まってゆく形態)
 ・「目的因」(ものを作る目的)
 ・「動力因」(ものを作る主体)
「原因」に関するこのような考え方が、われわれの道具的観念を支配している「因果性」であり、われわれはふつう「原因」をこの「因果性」の枠組みの中でとらえ、特に「動力因」を重視している。

しかし「原因」は本来、このような「因果性」の枠組みの中でとらえられるものではなかった。
スコラ学派による「原因」の分類は、アリストテレスの説を継承したものなのであるが、アリストテレスの時代のギリシア語において、「原因」は「責めを負うこと」を意味する「アイティオン」という語であった。
アイティオンにも4つのしかたがあったけれども、後に「動力因」として考えられることになるアイティオンは、「動力因」とはまったく異なる発想にもとづいていた。
 ・アイティオン1:「質料因」に当たるもの
 ・アイティオン2:「形相因」に当たるもの
 ・アイティオン3:「目的因」に当たるもの(特に重要)
 ・アイティオン4:「動力因」ではなく、熟慮することで他の3つのアイティオンをまとめ、それらが「輝き現われる」〔=発揮される〕ことをもたらすもの
アイティオンは、「まだないものを現前の状態へと誘い出すこと」、すなわち「誘発」することを表し、そしてその「誘発」の4つのあり方は、「ポイエーシス」(こちらへと‐前へと‐もたらすこと)に支配されている。
ポイエーシスとは、手仕事の製作、芸術や詩作、自然の立ち現れを意味するが、ひとことで言うと、伏蔵されたもの〔=隠されたもの〕が不伏蔵性〔=隠されていない状態〕へともたらされることを意味する。
本来、ポイエーシスとは、「開蔵」〔=隠されていたものを明らかにすること〕にもとづくのであり、そこで明らかになるのが「真理」である〔この「真理」こそが、「正しいもの」とは異なる「真なるもの」である〕。

ポイエーシスは4つの「誘発」のしかた(「原因」)をとりまとめて支配しており、そこから「因果性」という枠組みが生まれ、その「因果性」の中に道具的観念(目的と手段)が属している。
このように〔「因果性」以前のポイエーシスまで遡って〕考えてゆくと、技術とは本質的にはたんなる手段ではなく、「開蔵」のひとつのしかた〔=真理を明かすこと〕なのではないか、という見通しが立つ。

だが、技術の本質とは「開蔵」である、という見通しは、どうも奇異なものに思われる。
そこで、「技術」という名称はなにを意味するのか、ということを考えてみる。

「技術」を表すギリシア語の「テクニコン」は、「テクネーに属するもの」を意味する。
テクネーとは、ポイエーシスに属するものであり、詩的なものである。
テクネーとはまた、いまだないものを「開蔵」することであり、作ることや仕事をすることや道具および手段の利用ではない。
技術の本質の領域とは、「開蔵」すなわち真理の領域なのである。

2.現代技術の本質は「集‐立」である。

さて、ここまでの規定が、現代の技術にも当てはまるのかどうか考えるため、「現代技術はどのような本質をもつのか」と問うてみる。

現代技術もまた「開蔵」ではあるが、ポイエーシスとしては展開されず、「挑発」(引き渡せという要求)として展開される。
現代技術は、伏蔵された自然のエネルギーを「挑発」し、用立てる〔=役に立つ部分だけを取りあげて利用する〕のである。
現代技術の、「挑発する調達」としての「開蔵」〔=隠されているものを、用立てるために取り上げること〕は、以下のことをものに求める。
 ・即座に使えるように手元にあること
 ・それ自体さらなる用立てのために用立てられうるようにあること
「挑発」する「開蔵」によって用立てられるもののあり方を、ここで「用象」と名づける。
「用象」とされたものは、もはや「対象」〔=主体のまなざしの前に現象するもの〕ですらなく、ただ役に立つ部分だけを取りあげられ利用されることになる。

そして、現代技術による「開蔵」(「挑発する調達」)を遂行するのは人間であるが、その人間自身も、よりいっそう根源的に「挑発」され「用象」に属してしまう場合がある。
人間が「開蔵」を作るのではなく、人間が「(自然を、あるいは人間を)開蔵せよ」と呼びかけられるのである。
〔つまり、現代技術の「開蔵」において人間は主導権を握っていない〕

このように、あらゆるもの(自然であれ人間であれ)を「用象」としてとらえて用立てることを人間に要求する(呼びかける)ものを、「集‐立」と名づける。
「集‐立」は現代技術の本質である。

まとめておくと、「開蔵」のしかたには、以下の2つがある。
 ・古代以来のポイエーシス → 製作や叙述
 ・現代技術の「集‐立」 → 現実的なもの(自然および人間)を「用象」として「開蔵」

現代技術の「集‐立」の特色である、人間の「用立てる」態度は、まず最初は自然科学として現われた。
現代技術よりも歴史的に古い近代自然科学が、現代技術の現われだったというのは、変な主張だと思われるかも知れないが、近代の自然科学は現代技術の本質の先駆者だったのであり、近代自然科学の成立以後も、現代技術の本質が伏蔵され続けたのである(別の言い方をすると、本質は伏蔵されている間もその領域を支配していて、後になって現れる)。
現代物理学の対象が、近代自然科学のそれと同じものでなくなり、感性によって直観できないものになったとしても、計算による「開蔵」と情報としての用立ては必須のものであり続け、「因果性」はもろもろの「用象」についての情報という形に変わるだろう。

さて、現代技術の本質は「集‐立」であるが、では「集‐立」とはなにか。それはわれわれをどこにもたらすのか。それとわれわれとの関係はどのようなものか。

「集‐立」が人間を用立てという形の「開蔵」へと導くことを、「命運」と名づける。
人間を「開蔵」へと導く「命運」は、人間をつねに支配するが、そこで「〔呼びかけを〕傾聴する者」になるならば、人間は初めて自由になれるだろう。
自由とは、人間の意志の問題ではなく、真理の生起(「開蔵」)とかかわるものであり、「開蔵」をそのつど導く「命運」の領域なのである。
われわれ人間は、「集‐立」を「開蔵」のひとつの「命運」として経験しているのだが、そのような形でじつは、自由に向かってひらかれたところにすでに滞在しているのである。
われわれが自分自身を技術の本質にたいして開けば、われわれを自由にする呼びかけに気づくことができるだろう。

「命運」によって「開蔵」へと導かれる人間には、2つの可能性がある。
 (1) 用立てによって「開蔵」されるものだけとかかわる可能性。
 (2) 不伏蔵的なものの本質とその不伏蔵性〔=本質的な真理の出来〕へと、密接かつ原初的なかかわりをもつ可能性。
そして(2)の可能性によってこそ、人間は自由にする呼びかけを傾聴して、必要とされ、「開蔵」へと帰属することを人間の本質として経験することができる。

しかし、人間を不伏蔵的なもの〔=「開蔵」されたもの〕へと導く「命運」は、上記の(1)と(2)が誤解される危険を、必然的にもっている。
たとえば、「因果性」や「算出」による「開蔵」は、(1)にしかなりえない誤解であり、(2)がもたらす自由に至ることはない。
中でも最大の危険は、「命運」によって導かれた不伏蔵性〔=「開蔵」されたもの〕が、「集‐立」である場合である。
このような場合においては、不伏蔵的なものが「対象」ではなく「用象」〔=役に立つ側面のみ〕となってしまうので、人間は現実的なものと出会うことができず、自分自身とも出会えなくなる。
このような場合においてはまた、他のすべての「開蔵」の可能性、特にポイエーシス的「開蔵」の可能性が見えなくなる。
「挑発」する「開蔵」としての「集‐立」は、ポイエーシス的「開蔵」を伏蔵し〔=覆い隠し〕、本来的な「開蔵」が起こらぬようにしてしまうのである。

3.「集‐立」の危険の中に「救うもの」が育つ。

「しかし、危険のあるところ、/救うものもまた育つ」(ヘルダーリン)。危険の中から、「救うもの」を見つけよう。
「救うもの」とは、本質の輝きをもたらすものである。
「救うもの」は、技術の本質である「集‐立」に根ざし、そこから育つはずなので、われわれは「集‐立」の危険をよく洞察すべきである。

ここで、「集‐立」が技術の本質であるというときの、「本質」という語について考えてみる。

ふつう「本質」とは、抽象的に共通のものとしてとらえられる類のことだと考えられてきたが、しかし「集‐立」は、類として技術の「本質」なのではない。
「本質」という語を、共通の類としてではなく、「存続しつつ本質を発揮するもの」という意味でとらえてみる。
ここでの「存続」は、ソクラテスやプラトンの言うような、理念としての永続性とも異なり、「叶えつづける」こと、すなわち、本質を発揮しつづけることである。

技術の「本質」――技術においてその本質を発揮しつづけているもの――としての「集‐立」は、人間を、自分からは作ることも発明することもできないものに関与させる。
たとえ「集‐立」という危険な形であったとしても、「開蔵」へと人間を導く「命運」は、「開蔵」されるものからの真理の出来を「叶えるもの」であると同時に、人間を救うものである。
というのも、真理の出来に関与するよう呼びかけられ必要とされることによって、人間はその本質の尊厳に帰入することができるからである。
人間の本質の尊厳は、あらゆるものの本質が伏蔵している様子と不伏蔵化する様子を、大地の上に見守ること〔=真理の保護(後出)〕にあり、呼びかけられ必要とされることによって人間は存続することができるのである。
「集‐立」の危険においてこそ、「叶えるもの」〔=本質の発揮の存続〕へと人間は深く帰属する。「集‐立」の中に「救うもの」がある。

人間は、技術においてその本質を発揮しつづけているもの(技術の本質)を見守り、洞察していかなければならない。
技術においてその本質を発揮しつづけている「集‐立」には、以下のような両義性がある。
 (1) 用立てること → 真理を見えなくする。
 (2) 「叶えるもの」 → 真理の保護のために必要とされるものである、という点において、人間を存続させる。
技術への問いとは、(1)と(2)の相互関係を問うことである。
真理をめぐる技術の本質(「集‐立」)における、(1)と(2)の相互関係を見つめると、「立ち止まって警戒せよ」という呼びかけに気づくことができる。
「立ち止まって警戒する」とは、ささやかな「救うもの」の成長を「集‐立」の中で保護することと、「集‐立」の危険を見失わないことである。

さて、用立てよりも原初的な形で〔=古代ギリシア人が明察していたような形で〕叶えられた「開蔵」こそが、「救うもの」を輝かせるのではないか。
そこで、古代ギリシアにおける「テクネー」という語に再び注目すると、この語にはもともと以下の2つの意味があった。
 (1) 技術
 (2) 芸術(ポイエーシス)
そして(2)のポイエーシスとは、真理の保護、すなわち、新なるものを美しいもののうちに取り出すことを意味する。
ポイエーシスという名称からは、芸術を支配する「開蔵」である「ポエジー」、「詩人的なもの」が生まれる。
「詩人的なもの」は、本質を発揮しつづけているものを、美しいものへと「開蔵」させる。

われわれは、まずは真理の出来としての技術の本質と、用立てとしての技術の荒れ狂いとの間のギャップに驚くべきである。
また、技術の本質への省察は、芸術の領域で生ずる。
われわれはまずは、たんなる技術的なものやたんなる芸術的なものを前にしても、技術や芸術の本質を経験することはできない、という苦境から、問いと証言を始めなければならない。〔※ ここはちょっと自信がありません〕

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