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zoom RSS 【読書メモ】ハイデッガー「科学と省察」

<<   作成日時 : 2014/11/12 10:46   >>

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マルティン・ハイデッガー「科学と省察」(1953年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

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われわれは、人間の精神的にして創造的な活動が行われる領域を「文化」と名づけており、科学や芸術は、それぞれ「文化」の中の一分野だと考えられている。

しかし、芸術の本質は、「文化」として片づけられるものではない。
芸術は本質的には、〔ものの中に隠されていた真理を〕神聖化するものであり、〔真理を〕保護するものである。
芸術において現実的なもの〔=世界の中に存在するもの、あらゆる存在者〕は、それまで伏蔵されていた〔=隠されていた〕その輝き〔=真理〕を、そのつど新たに人間に贈る。
その〔真理の〕輝きを受けて、人間は、自分自身の本質にたいして語りかけているものを、より純粋に明確に受け取ることができるようになる。

以上のような芸術の場合と同様、科学も本質的には、「文化」の一分野として規定できるようなものではない。
人間の〔「文化」的な〕知識欲とは別の、「命運」のようなものが科学を支配している。
あらゆる科学をくまなく支配しているが、科学によっては解明することのできない、「命運」のようなものについて洞察しなければ、科学の本質は分からない。
そこで、その「命運」のようなものについて洞察するために、「科学とはなんであるか」を明確にしなければならない。

1.第1の歩み:科学の本質――「科学は現実的なものの理論である」

科学の本質は、
「(A)科学
(B)現実的なもの
(C)理論 である」

という命題によって示される。

  (A) 科学

この場合の「科学」は、近現代の科学だけを指す。
上の命題は、中世の学問にも古代の学問にも当てはまらない。
しかし、ヨーロッパ的なものとして全地球規模に拡大した現代科学の本質は、古代ギリシア人の哲学における思索にもとづいている。
古代ギリシアの知においては伏蔵されていたものをもとに、古代ギリシアの知とは別の知になったものが、近代的な知なのであり、したがって古代ギリシアにおいて思索され詩作されたことは、今日なお現在的である。
〔ゆえに、現代の科学について考えるとき、ギリシアまで遡って考えること、そしてギリシアの語によって名づけられたものの変化の歴史を検討する「語源学」の方法が有効である〕

  (B) 現実的なもの

「現実的なもの」とは、語源学的に言うと、「働くもの」であり、「こちらへと‐前へと‐もたらすこと」であり、「現前するもの」である。

「働く」ということのギリシア的意味は、不伏蔵性〔=隠されていないこと〕としての現前であった。
これがアリストテレス以後の時代になると、「結果として起こった現実的なもの」を意味するようになり、「行為や労働によって事実となったもの」と考えられるようになった。
そして近代において、「現実的なもの」すなわち現前するものは、「対象」〔=主体のまなざしの前に現象するもの〕としてとらえられることになる。

ここで出てきた「対象」および「対象性」について考えるためには、「理論」との関係の検討が必要である。

  (C) 理論

「理論」の語源「テオーリア」とは、真理を見守りつつ観照することを意味する語だった。
現代における「理論」は、純粋に観照的なテオーリアとは違い、「現実的なもの」に介入し、加工する(捕えようとしつつ確保する)。

ここに、(B)「現実的なもの」と(C)「理論」とが(A)近現代の科学 において接する点が見いだされる。

  (A)(B)(C)の総合

近代において、
(B)「現実的なもの」は現前を「対象」として存立させる。
(C)「理論」は「現実的なもの」を「対象性」へと挑発する(=加工)。
つまり(A)近代の科学は、「現実的なもの」の現前を、「対象性」へと作り変える(加工する=捕えようとしつつ確保する)のである。
この加工的な性格は、近現代に特有のものであり、けっして自明のものではない。
(ただし、これを「近現代の人間は一方的に自然を搾取している」とか、「近現代の人間がそういう文明を作った」とかいうふうに考えるのも誤りである。「現実的なもの」の側でも、自らが現前するためにこの「加工」的な態度を必要としているのである)

近現代の科学は、「理論」と「現実的なもの」とが「対象」的関係の中にあるときにしか成立しない。
科学の「理論」の領域や妥当性をあらかじめ規定するもの(「目的」)は、現前する「現実的なもの」の「対象性」である。
〔つまり、「現実的なもの」を「対象」として捕え、確保できるかどうかによって、科学として成立するか否かが決まる〕

科学が現代において「理論」として成立するためには、「現実的なもの」を捕え、確保すること(「対象」化すること)が必要なので、そのための「方法」が重要視される。
現代科学の方法、すなわち、「現実的なもの」を「対象」化するための「方法」は、「算定」(「計算」によって測定すること)である。
「計算」とは、前もって考えに入れること、期待することである。
現代科学は本質的に、「あらかじめ期待する」という(「算定」の)「方法」の優位にもとづいているので、対象領域を仕切らねばならず、必然的に専門化する。

2.第2の歩み:科学の本質には、「目立たない事態」が伏蔵されている。

さて、科学の本質には、どのような「目立たない事態」が伏蔵されているのか。

  (A) 「不可避的なもの」

自然科学が発達しても、自然をあらかじめ用意された「対象」としてとらえるという点は変わらない。
(ちなみに、「技術への問い」で言われているように、現代技術の本質である「集‐立」の中で、「対象」はさらに「用象」化する)
自然科学は、自然の全体を相手にできるわけではなく、感性に対して現前してくる「対象性」だけをとらえることができる。

以下の2つの意味において、自然はいつも、自然科学にとって「不可避的なもの」である。
(1) 自然科学の「理論」は、現前してくる自然なしで自立的に成立することはできない。
(2) 自然科学の「理論」がとらえることができるのは、自然の「対象性」〔=感性に対して現前してくる面〕だけなので、自然の本質充実〔=本質的に自足した全体〕を「理論」の中に解消することはできない。

自然科学以外の近代的な科学〔=学問〕についても、「対象性」を支配する「不可避的なもの」を見てゆくと――
・精神医学にとって現存在〔=人間〕は「不可避的なもの」である。
・史学にとって歴史は「不可避的なもの」である。
・文献学にとって言語は「不可避的なもの」である。
このように、あつかおうとするものがいつも上述の(1)(2)の意味で「不可避的なもの」であるということ〔=「理論」は「現実的なもの」の領域なしで自足できず、また、「理論」によっては「現実的なもの」の「対象性」の面しかとらえられないということ〕が、科学の無能力である。

  (B) 「不可避的なもの」の接近不可能性

科学の本質を支配している「不可避的なもの」を、その科学自体の「理論」が見いだし規定することはできない。
たとえば、「理論」〔=科学〕としての数学について言うと、数学のあつかう「数」自体について論ずるためには、数学の「対象」とする領域とその表象様式から離れなければならない(「数」自体の本質を計算によって見つけることはできない)。
よって、(A)の「不可避的なもの」は、科学にとっては接近不可能なものでもある。

  (C) 「接近不可能な不可避的なもの」の「目立たない」性質

科学の本質を支配している「接近不可能な不可避的なもの」は、つねに見過ごされる性質をもつ。
これは、われわれがそれに注意しない、という意味ではなく、「接近不可能な不可避的なもの」が本質的に「目立たない」もの〔=まなざしから逃れがちなもの〕なのである。

3.科学と省察

これまでの第1の歩みと第2の歩みを総合すると、以下のようになる。
近現代における「現実的なもの」の「理論」としての科学は、「つねに見過ごされ、接近不可能だが、不可避的なもの」によって、くまなく支配されている。
つまり、
世界のうちに存在するものを「対象」として捕え確保しようという営みが、近現代における「科学」であるが、その「科学」は自らがあつかう領域における「現実的なもの」なしに自足できず、また、その領域における「現実的なもの」の全体を相手にできるわけでもない。それどころか、その「科学」があつかう領域の本質を「科学」が解明することはできず、本質にまなざしを向けることすら難しい。
そして、
「つねに見過ごされ、接近不可能だが、不可避的なもの」は、「科学」の源泉である。

さて、「科学」を支配しているこの「目立たない事態」〔=「つねに見過ごされ、接近不可能だが、不可避的なもの」〕を見つけることにより、われわれは、「省察」の道をたどることができるようになる。
「省察」〔=本質的な問いに向きあわされること〕の道は、われわれが気づかないままに滞在していたところへ立ち帰るよう導いてくれる。
「省察」によってのみ、われわれはものごと〔ここでは「科学」〕の本質への道をたどることができるのである。

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