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zoom RSS 【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」

<<   作成日時 : 2014/11/15 14:45   >>

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マルティン・ハイデッガー「形而上学の超克」(1936年-46年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

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「訳者後記」によるとこのテキストは、1936年から46年までの間に書かれた手記の一部だそうです。
「一」から「二八」までの断章から成っていて、論理展開が分かりにくいところ、いまの私にはどうしても解釈できないところが多々あります。
そこで、まずはそれぞれの断章の大まかな内容を並べて、その後で全体的な論旨をまとめる、という形にします。

専門分野ではないですし、本当に難しかったので、たぶん間違っているところも少なからずあります。眉に唾をつけてご覧ください。

  一 〔標題について〕

「形而上学の超克」という標題は暫定的なものであり、誤解を生みかねない。
現在、形而上学は「終わりつづけること」に達しており、しかし「終りつづけること」は継続するだろう。

  二 〔形而上学は消え去ることはない〕

形而上学はたとえ「超克」されたとしても消滅するものではなく、「労働する生物」としての人間が大地の荒廃の中をさまよう現代を支配している。
ただ、そのような現状は、いつか本当に「存在」の真理が出来する事態の前兆なのかもしれない。

  三 〔現代は「存在するものの真理の没落」の時代である〕

形而上学は人間を「理性的動物」ととらえてきた末に、現在「労働する動物」として確立した。
「労働する動物」として確立された人間は、「存在」に隠された真理を拒絶しており(=「存在忘却」に対して盲目であり〔※〕)、それと同時に、<意志への意志>にとりつかれている〔※〕ので、自分でも分からないうちに無価値な無ばかりを求めて、大地を荒廃させる。
大地の荒廃は、「形而上学の完結」という形で「存在するものの真理の没落」〔※〕を引き起こしている。
世界大戦などの破滅的な出来事は、「存在するものの真理の没落」の結果である。

※「存在忘却」とは、「存在」自体の真理を忘れていること。
名高い「存在論的差異」のことを考えればよいのですが、ハイデガーによると、従来の形而上学があつかってきた「存在」の概念の中では、じつは以下の2つの側面が混同されていました。
・「存在者」:存在するもの。
・「存在」:存在すること。存在者を存在させている(不思議な)はたらき。
ハイデガーはここでは、
・従来の形而上学はこの存在論的差異を分かっておらず、世界内の「存在するもの」ばかりを見ていたため、「存在」それ自体の真理について洞察できなかった。
・世界内のあらゆる「存在するもの」を、たんに労働の対象としてのみとらえる(そして「存在」そのものの真理を一顧だにしない)ような「労働する動物」としての人間像は、形而上学によって作られたものだ。
ということを言っているのだと思います。

※<意志への意志>とは、文字どおり、意志することを意志すること。
人間と世界との関係を、「意志」という形でとらえようとすること。
形而上学の歴史は<意志への意志>という方向に発展し、「労働する動物」(主体としての人間が意志によって自然を加工する)としての人間像を作りあげた、というふうにハイデガーは言っているのだと思います。

※「存在するものの真理の没落」は、よく分かりません。
ニーチェの「没落」の概念を、ハイデガー流に解釈し直すことで、ニーチェを批判しているのだと思いますが。
「存在」の真理を忘却したうえに、「存在者」を「用象」(=役に立つ側面。「技術への問い」参照)としてしか見なくなる、みたいなことでしょうか。

存在するものの真理の没落とは次のことを意味する。すなわち、存在するものの、しかもただ存在するもののみの顕示性が決定的なものであるべきだという要求はこれまで比類のないものであったが、その比類なさが失われるということである。


  四 〔形而上学は人間の本性に属している。近代形而上学の始まりとしてのデカルト〕

形而上学的に作られた「理性的動物」としての人間は、形而上学的にとらえられた世界しか見ることができない。
そういう意味で、形而上学は現代の人間像と切っても切れない関係にある。
そこで、近代の形而上学が人間と世界をどのようにとらえてきたのか、検討してゆく。
まずはデカルトの理論を現象学的に解釈する。
デカルトの「コギト」とは、目の前に対象を立てる「基体」である。
デカルトが「基体」としてのコギトを作ったとき、「立てること」としての「対象性」が生まれた。〔これが以後引き継がれてゆく〕

  五 〔存在論の近代的形態としてのカントの認識論〕

存在論の近代的形態は、カントのような超越論的哲学であり、それは認識論になる。
カントの認識論において、〔デカルトの「対象性」の発想が継承されて〕世界内の「存在するもの」〔=存在者〕は「対象」としてとらえられた。
さらに、カントの認識論において、真理とは〔「存在」それ自体の真理ではなく〕表象の「確実性」のこととされたせいで、形而上学はそれ自体の本質と根拠〔=探究すべき「存在」それ自体の真理〕を知りえなくなってしまった。

  六 〔形而上学の「完結」の始まりとしてのヘーゲル〕

ヘーゲルはすべてを「意志」〔としての主体〕の運動だと考えることで、形而上学を<意志への意志>という形に「完結」させる過程をスタートさせた。
ヘーゲルの規定した「現実性」とは、「確実性」という意味での存在者性の支配〔=世界内に存在する現実的な対象とは、あれこれの存在者だけである、という考え方?〕である。
〔つまりヘーゲルは、意志としての主体/存在者としての客体、という形で形而上学の「完結」を開始した、ということでしょうか〕

  七 〔形而上学は「存在」を問うてこなかった〕

アリストテレスの「エネルゲイア」という概念には、「存在」の真理を問う姿勢がみられるが、それ以後の形而上学は、「自然」としての客体と「理性」や「自由」としての主体、という方向に発展し、「存在」の真理自体を問うことがなかった。

  八 〔形而上学は西欧的思考の宿命となり、本質が無視されてきた〕

「存在」と「存在するもの」との「二重襞」〔=存在論的差異〕は、従来の形而上学において解明されることはなく、そのため、「存在」の真理は西欧的思考から宿命的に排除されてしまう。
現在、そのような形而上学は「完結」し、世界全体を無制約的に支配していっている。
だが、この形而上学の「完結」の後にはじめて、「存在」の真理が出来する可能性が生まれる〔?〕。

  九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕

ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」はプラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという考え方〕に限定されていた。
したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは形而上学の枠内のものでしかない。
本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の原初的耐え忍び〔?〕の前兆として考えられるべきである。〔これが分かりません……〕

  一〇 〔<意志への意志>としての技術〕

ニーチェに至るまでの形而上学が作りあげてきた<意志への意志>とは、「存在」の「命運」の忘却であり、これによって「完結」した形而上学の時代が、現在始まろうとしている。
<意志への意志>は現在、技術という形で出現している。
〔人間は、「自らの意志で世界内の存在者を加工したい」という意志をもち、それが技術という形になっている〕

  一一 〔ニーチェの<力への意志>にたいする批判〕

ニーチェの称揚する「生の高揚」すなわち<力への意志>とは、じつは「計算」する「理性」〔=対象をとらえ、計量し、役立てる主体のはたらき〕の無制約的支配を意味してしまう。
ニーチェの思想は「存在」への深い省察にもとづくものではなく、熱狂であり、文学的現象として支持されてきたものでしかない。

  一二 〔ニーチェにおいて哲学は「完結」してしまった〕

ニーチェの<力への意志>の形而上学は、形而上学の「完結」であり、この「意志」の原理が大地を秩序づける土台となってしまった。
このように秩序づけられた世界には、もはや哲学の余地がない。

  一三 〔ニーチェにおける「真理」とはなにか〕

ニーチェの言う「真理」とは、本当に「存在」の真理なのだろうか。

  一四 〔存在論的差異の考え方の導入〕

これまで、「存在するもの」(存在者)ばかりが考えられ、「存在」自体が問われたことはないのではないか。

  一五 〔形而上学の歴史のまとめ〕

形而上学は、以下のような歴史をたどった。
1.「私は思う」の確実性〔=疑えなさ〕
2.客体としての「対象」を概念的に把握すること
3.客体としての「対象」について無制約的に思考すること〔=どこまでもくまなく支配できると考えること〕

  一六 〔「対象性」の思考はどのように生まれたか〕

「一致すること」としての真理が「確実性」としての真理となり、イデアが認知となっているとき、何かを目の前に立てる「表象」が生まれる。
この「表象」という「存在するもの〔存在者〕との関連」を前提にして、「反省」〔=「我思う」〕が生まれる。
この「反省」をもとにして、「存在」が「対象性」として規定されてしまう。
〔従来の形而上学の基盤である「対象性」はこのようにして「反省」から生まれ、存在論的差異が無視され、「存在」の真理が忘却された〕

  一七 〔「反省」と「自我性」〕

カントは「反省」の本質を熟慮する途上にあった。
カントが検討した形而上学は、「自我性」にもとづいていた。

  一八 〔形而上学が育てた「自我性」は、「人間学」を作り出す〕

デカルトの「自我」はまだ一般的な「自我性」から考えられたものではなく、個別的な人格としての「自我」だったが、「自我性」の萌芽はそこにあった。
デカルトの「自我」は、自我自身と表象されたものとの関わりとしての「確実性」に支配されていた。
ここから形而上学は、表象との関わりとしての〔構造的な〕「自我性」を作り出し、それに支配されることになった。〔必然的に、「自我性」の前に立つものとしての「対象性」の概念が生まれる〕
「完結」した形而上学の時代において、哲学は、「自我性」にもとづく「人間学」〔=すべてを人間にたいして用立てるような思考〕となってしまい、滅びることになる。

  一九 〔技術と「人間学」〕

<意志への意志>の中で、技術は「存在」の真理に関する無思慮と相通ずるものになってしまう。〔技術は人間の「意志」による用立てになってしまうから〕
そのような時代において、「人間学」は人間の研究だけにとどまらず、人間中心主義の全体化〔=「存在」の真理を無視して、あらゆるものに関して人間に役立つかどうかということだけを考えること〕を引き起こしてしまう。

  二〇 〔<力への意志>は「正しいもの」だが「真なるもの」ではない〕

ニーチェの<力への意志>は、無制約的に確かである「正しいもの」だが、その「正しさ」とは、「意志」のために世界のすべてが確保されるという考え方があらゆる事態の説明として妥当してしまうというだけの意味である。
真理の原初的な本質は<力への意志>にはない。
<力への意志>の「正しさ」は、「真なるもの」を排除してしまう。

  二一 〔純粋な形式となる<意志への意志>〕

カントの純粋意志に始まり、ニーチェの<力への意志>に至るまで、形而上学が育ててきた<意志への意志>とは、計算〔=主体が対象を計ること〕の、計算による自己確保という無制約的な意識である。
<意志への意志>は、なにも目的を持たないので、自身の確保以外の何も考慮しなくなり、ただの形式になる。

  二二 〔<意志への意志>は世界を一様なものにする〕

人間が<意志への意志>を作り出すのではなく、<意志への意志>が人間を意欲する。〔人間は<意志への意志>の運動から疎外される〕
この<意志への意志>の運動は、世界を一様なものに均質化してしまう。

  二三 〔<意志への意志>は秩序を作ろうとする〕

<意志への意志>は目的を持たないが、自らを正当化するため、「任務」を捏造して秩序を作ろうとする。〔この「任務」がよく分かりません……〕

  二四 〔力をめぐる戦いの中で、人間は存在から見放される〕

<意志への意志>は、力をめぐる戦いを生む。
人間たちはその力に支配され、存在忘却から脱出する可能性を奪われる。
その結果、人間は命運〔=存在と存在者との本質的な関係のこと?〕から閉め出され、存在から見放される。

  二五 〔ニヒリズムとは存在から見放されること〕

<意志への意志>の支配の下、人間は、「人間はすべての現実的なものを意のままにできるし、真理を知っている」と思い込んでしまう。
そこにニヒリズムが生まれる。
ニヒリズムとは、存在から見放されること〔=「存在」の真理が現われなくなること〕である。

  二六 〔存在から見放された現代の世界〕

存在から見放された人間は、無理やりに世界を秩序づけようとしたり、消費に走ったりする。
消費は無制約的で目的のない濫用に至る。
「存在するもの」を動員〔=「技術への問い」における「挑発」〕し濫用する「迷誤」の中で、世界は非世界になり、戦争と平和の区別がなくなる。
「存在するもの」を動員するための確保と秩序づけの必要性から、必然的に「指導者」の登場が要請される。
指導者は「超人」にして、本能的な「直観力」をもつという意味で動物的であり、つまり、「人間以上」にして「人間以下」の存在であるが、このような存在は、人間を「理性的動物」として規定してきた形而上学の産物にほかならない。
人間は濫用の主体になりうるという意味で最も重要な資源なので、人的資源の生産と統制が行われるだろう。
技術による代用品の大量生産から、消費のための濫用が循環しつづける。
動員と濫用の「業務」はグローバル化し、歴史を一様化すると同時に、人間を画一化する。

  二七 〔大地との関わり〕

大地は本来、<可能なもの>というつつましさの範囲内において事物を生み出したり消滅させたりしている。
しかし、技術と「意志」は大地を濫用し、<不可能なもの>であるように強いているので、現在の大地は荒廃している。
人間には、以下の2つの生き方がある。
 (A) 大地をただ利用する生き方。
 (B) 大地の恵みを受領し、大地の掟に従って存在の秘密を見守るため、故郷に住み慣れる生き方。
〔従来の形而上学は、存在論的差異を無視して主体と対象という形で世界を見てきたせいで、(A)の生き方の元凶となってしまった。本当の「形而上学の超克」とは、存在論的差異から「存在」の真理を洞察することで、(B)の生き方を作り出すことでなければならない〕

  二八

〔ここはよく分かりません……〕

  まとめ

以上、読んできたことを私なりにまとめると、以下のようになると思います。

デカルトに始まり、カントを経てヘーゲルに至って「完結」しはじめる形而上学は、世界内に存在するものを「対象」としてとらえ、対象に向かい合う人間の側に「自我」「主観」「意志」を置いた。
ニーチェは形而上学を「超克」することを目論んだが、しかしじつは、<力への意志>によって世界を見るニーチェの思想も、上記のような形而上学の延長線上のものであった、
これらの形而上学によって育てられてきたのは<意志への意志>、すなわち、「人間の意志が対象としての存在者を加工する」という形で世界をとらえようとする姿勢である。
人間が作為によって世界内のあらゆる存在者を際限なく利用する現代の「作為機構」は、このような形而上学にもとづく西欧的精神が、グローバルな規模に拡大したものである。
この「作為機構」(現代技術のシステム)は、必然的に世界戦争やファシズム、環境破壊を生む。
なぜこのようなことになったのか。
それは、従来の形而上学が世界内の存在者を「対象」としてとらえる方向に完成されていったせいであり、そもそも存在者と存在の違い(存在論的差異)を洞察できなかったせいである。
もしも存在論的差異が深く洞察され、存在そのものの真理が明らかになるならば、そのときはじめて、大地から資源を挑発して濫用するような生き方ではなく、大地の掟のもとに真理を見守りながら住み慣れるような生き方が可能になるだろう。

存在論的差異への洞察が大地への住み慣れにつながるというのは、たとえば木を見てそれをただの「存在者」としてしかとらえられない(従来の形而上学における「対象」の)考え方だと、切って木材にするだけですが、そこに木が芽生え育って「存在していること」自体の神秘に思いを致すなら、接し方も変わるという話かなと思います。

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