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zoom RSS 【読書メモ】ハイデッガー「伝承された言語と技術的な言語」

<<   作成日時 : 2014/11/17 12:00   >>

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マルティン・ハイデッガー「伝承された言語と技術的な言語」(1962年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

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はじめに

この講演のタイトルは「伝承された言語と技術的な言語」である。
「言語」「技術」「伝承」という語を、「今日われわれの現存在〔=人間の生きているあり方〕を圧迫するもの」〔=現代技術の危険〕を有効に分析できるよう、徹底的に思索して規定する必要がある。
もしも「今日われわれの現存在を圧迫するもの」に関してよく洞察せず、盲目的にそれに敵対し、「技術」や「言語」についての通俗的な観念に固執しつづけるなら、「学校」から力を削ぐことになってしまう。
〔「言語」「技術」「伝承」について本質的に省察することで、「学校」に力を与えねばならない〕

省察とは、役に立たないものに意義を認めることである。
事物の意義とは、実用性に回収されないものだが、それなしには実用性も意義を失う。
省察は、そのような事物の意義について考えることである。
「技術」「言語」「伝承」という名称への省察は、直接的な実用性をもたないが、あらゆる教育的・実践的熟慮をいたるところで規定するような視野を開きうる。
「技術」「言語」「伝承」という語についての通俗的な観念を、根本的に考え直そう。

1.技術

現代技術の通俗的観念の中心には、「人間学的‐道具的観念」がある。〔→「技術への問い」も参照〕
技術についての「人間学的‐道具的観念」は、以下のような互いに依存しあう2つの契機によって性格づけられる。
 〔1〕 現代技術の人間学的契機:技術とは、人間による、人間のためのものだという考え方。
 〔2〕 現代技術の道具的契機:技術とは、人間がなんらかの利益を意図して利用するものだという考え方。
現代技術の「人間学的‐道具的観念」は、「それ自体の範囲内では正しい」という意味で「正当なもの」であり、決定的な思考方式として流布することで強化されているが、現代技術におけるもっとも固有なもの〔=本質〕にふれていないので、「真なるもの」とは言えない。(「真なるもの」とは、あるものの本質を示し、守るものである)
「今日われわれの現存在を圧迫するもの」から、現代技術について洞察していくべきである。

「技術」の語源「テクニコン」とは、「テクネーに属するもの」という意味である。
「テクネー」は「エピステーメー」(=ある事柄の前に立ち止まって、それを理解すること)と同じ意味で、なにかに精通すること、なにかの製作に精通することである。
テクネーとは、作ることについてではなく、知についての概念であった。
そこから考えると、「技術」は以下のように定義される。
技術:何かあるものが、到達可能にして処理可能なところへと立てられ、現前するものとして存立するようにされること。


西欧近代において、技術に固有な知が形成され、それに呼応した科学が出てくる。
現代技術には、以下のような2つの現象が見られる。
 A. 現代技術においては自然科学が際立った役割を担う。
 B. 現代技術の際限のない支配は、制止できなくなっている。
この2つの現象は同じ由来をもち、一体となっている。
これらの現象について考えてみよう。

(A.について)
近代の自然科学には、以下のような特徴がある。
 ・あらかじめ計算可能なものだけが、存在するもの(現実性)と見なされる。
 ・対象よりも方法に優位を置く。
近代自然科学は、その対象となる自然を<挑発しつつ立てること>を特徴とする。
ところで、現代技術も<挑発しつつ立てること>を根本特徴とする。
現代技術と現代自然科学に共通する由来(もっとも固有なもの)は、<挑発しつつ立てること>の中に隠されている。

(B.について)
技術は人間のための道具ではなく、「自然を挑発せよ」という要求は、当の技術の内部から人間に向かって発せられている。〔人間は技術から疎外されており、技術からの呼びかけによって自然の挑発へと駆り立てられている〕
その要求を、まずは承認〔=あるものとして認めること?〕しなければ、「今日われわれの現存在を圧迫するもの」の秘密には迫れない。

2.言語

「人間は植物や動物とは異なり言語能力をもつものである」と昔から言われているが、これは、「言語がはじめて人間に、この生きものが人間として存在する能力を与える〔=言語によってはじめて人間は人間であると言える〕」という意味に解釈しなければならない。
では、人間とは誰(なに)であるのか。
言語を話すとはどういうことか。

(言語に関する通俗的観念の紹介)
(「言語とは世界観であり、意思疎通のための手段ではない」とするヴィルヘルム・フォン・フンボルトの論を紹介)

現代技術の支配の下で、人々は「言語とは情報である」という通俗的観念にとらわれる。
「情報」とは、報告と伝達のための手段としての言語のことであり、「技術的言語」のことである。
われわれが問うべきなのは、以下の2点である。
 ・言語がたんなる「情報」とされるとき、現代技術は人間をどの程度まで、自然エネルギーの確保と準備へと挑発するのか。
 ・言語組織そのものの中には、「情報」とされてしまうような弱点と可能性が、どの程度あるのか。
これらの問いに答えるためには、以下の2つのことが必要である。
 @ 言語(人間が言葉を話すこと)の本質の規定。
 A 「情報」とは、技術的な意味においてなんであるかということの、正確な画定。

(@について)
人間が言葉を話すということは、本質的には、「言うこと」であり「示すこと」であり「現出させること」である。
「現出させること」とは、「人間にたいしてそれ自体を示し、語り与えるもの(現前したり現前しなかったりする現実性)を現出させること」である。
これは、世界の中に存在するものと人間が関わりをもつ基盤である。
言語:現実性を示し、現出させること。世界の中に存在するものと人間が関わりをもつ基盤。


(Aについて)
しかし「示すこと」は、あらかじめそれがなにを意味すべきかを取り決められてしまったとき、報告と伝達のための「記号」とされてしまう。
「記号」とその組み合わせは、一義的なものでなければならない。
コンピューターは、言語を一義的な「記号」の報告へと改変する技術的‐計算的原理にもとづく。
コンピューターにおいて言語は、「記号」として機械にインプットされあつかわれうるかという、機械の技術的な可能性に規定されてしまう。
そこでは言語は一義的なものであることを要求されるので、「詩」はあつかわれえない。
このような「情報」(=「技術的言語」)は、技術のシステムに回収されてしまうので、言語の本質を損なうものである。
言語の本質とは、人間と世界内の現実性との関わりの基盤なので、「情報」は人間性の本質を損なうものでもある。

〔3.伝承〕

さて、技術の支配がすべてを規定すると考え、言語とは「情報」だと考えるところから、人間の生命についての「サイバネティックス」のような考え方も出てくる。
サイバネティックスにおいては、「学ぶこと」は「フィードバック」という技術的プロセスだということになってしまう。
サイバネティックス的言語観においては、言語の本質がたんなる記号発信と報告に矮小化され、機械にも可能なこととされる。

しかし、言語を「情報」と見る考え方に回収されない言語がある。
それは「自然言語」であり、技術化されざる日常語である。
それを「伝承された言語」と呼ぶ。
伝承:原初的なものを見失わぬよう見守ること。

言語を「伝承」するとは、すでに語られた言語の新たな可能性を保護することである。
人間は、語られざるものを輝きにもたらさねばならない。
詩人の使命とは、伝承された言語から世界を新たに言い、そのことによって、いまだなお見られていないものを輝きにもたらすことである。

現代技術の中で、言語は危険にさらされている。
〔「学校」における〕母国語の授業は、「伝承された言語」についての、以下のような省察であるべきだ。
 ・言語と人間の関係を脅かす危険への省察。
 ・言語の秘密のうちに隠されている「救うもの」〔→「技術への問い」参照〕への省察。

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