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zoom RSS 【読書メモ】安部公房「ミリタリィ・ルック」

<<   作成日時 : 2014/12/01 23:58   >>

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安部公房「ミリタリィ・ルック」(エッセイ)
初出=「中央公論」1968年8月号
テキスト=『内なる辺境』中公文庫、1975年

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最近、機会があってこの「ミリタリィ・ルック」というエッセイを読み返しました。
非常に面白い文章なのですが、やや挑発的にナチスの美学をとりあつかっているため、読者の方の中にはショックを受けられて、「安部公房はナチス美学の賛美者だったのか」というような誤解をされる方もいらっしゃるかも知れません。
もちろん、冷静に本文を読まれれば、ナチス美学をとりあつかう安部の手つきが、いわば褒め殺し的なアイロニーであることは、すぐに理解されると思うのですが。

いちおう、要約を作りましたので載せておきます。


(第1節――冒頭から最初の行空きまで)

近代国家における軍隊の制服は、機能本位の合理的なものになる傾向がある。
アメリカ軍の制服もそうだし、ナチスの制服もそうである。
機能本位の制服は、あらゆる形容詞を無用なものとする、「自分で自分を形容する以外には、どんな形容も不可能な、まったく新しい形容詞の原形そのもの」である。――つまり、アメリカの制服は「アメリカ風」としか言い表せないし、ナチスの制服は「ナチス風」としか言い表せない。
しかし、同じように機能本位で「〇〇風」としか言い表せないものであっても、アメリカ軍の制服が作業着を思わせるような散文的なものであるのと違って、ナチスの制服はたいへん美学的なものだ。(この違いについて、次節で考察してみる)

(第2節――最初の行空きから2番目の行空きまで)

散文的なアメリカ軍の制服の、いかにも作業着といったデザインは、純粋に機能主義的なものであるかのように見える。
しかし、作業着とは本来、どのようなデザインであってもよいはずのものなのだから、いかにも作業着というイメージがあるとしたら、それは何らかの日常感覚によって作られたものだろう。
つまり、アメリカ軍の制服の散文性は、純粋な「軍服の本質」などではなく、「軍服の本質」をアメリカ人の日常感覚という「属性」によって覆い隠したものなのである。
それに比べるとき、美学的なナチスの制服の特色は、日常性を拒否しているところだといえる。
現代においては国家が、人間に日常性を与え、そして、軍隊を通してその日常性を回収する権利を持っている(とみなされるらしい)。
したがって、日常性を拒否するデザインは「軍服の本質」そのものだし、そこに国家権力の剥き出しの(「一切の偽善をかなぐり捨てた」)意志表示がある。
このような「純粋制服」〔※〕が、それなりの美学的効果を発揮したのも、じつに理にかなったことだと言わなければなるまい。
※ いちおう注釈しておきますと、ここでの「純粋」とは「剥き出しの」という意味であり、賛美するようなニュアンスがあるとしてもそれは皮肉にすぎません。

(第3節――2番目の行空きから3番目の行空きまで)

ナチスの兵士を写した2枚の写真がある。
それらの写真は、ナチスの軍服が、それを着る人間の素顔を消し去り、日常を拭い去っていたことを示している。
そしてその軍服を軍服たらしめるのは国家である。
ナチスほど純粋にではなくても、どんな国家においても、国家と軍服(軍隊)と兵士(人間)は、このような関係にあるはずだ。

(第4節――3番目の行空きから4番目の行空きまで)

ところで安部公房は数年前、ミリタリィ・ルックなるもの流行の噂(ナチスの鉤十字の腕章などが人気の的だという)を耳にした。
この噂を聞いた当時の安部は、以下のように考えた。
(1) 一般的に、青年期にある人間は、完成されたものであるかのように装っている既成の秩序に疑惑や違和感をおぼえ、「正統」とされるものよりも「異端」とされるものへとアンテナを向け、社会の偽善に対して反抗するものである。(それはしばしば「理由なき反抗」であるし、多くはそのうち社会の中に解消されるものだ)
(2) ミリタリィ・ルックの流行も、平和をうたう現代社会の偽善的「正統」に対し、「純粋な軍服」をかかげて「異端」の側から反抗しようという、青年たちの心情のあらわれなのかも知れない。
(3) しかし、現代において本当に平和は「正統」になったのかというと、けっしてそうではなく、「平和のための戦争」という形で戦争の口実とされている。
(4) したがって、もし青年たちが平和を「正統」とみなしてそれに反抗するためにミリタリィ・ルックを求めているのだとしたら、その青年たちは、戦争に支配されている現代の現実を理解していないのであり、それは苦々しいことである。
結局、ミリタリィ・ルックは、大した流行もみないうちに消えたのだが、つい最近、安部公房は思いがけなく「本物のミリタリィ・ルック」を見た。
そのとき安部は、ミリタリィ・ルックが「純粋軍服をイキがっている」ようなものではなく、軍服の批評的なパロディであることに気づき、上記の(1)〜(4)のようなことを真面目に憂慮した自分の先見の明の無さを恥じた。

(第5節――4番目の行空きから結びまで)

そもそも、ミリタリィ・ルックの元祖はビートルズだろうが、そのビートルズからして、パロディであることを自覚してミリタリィ・ルック(軍隊的なもの)を表現し、軍隊と国家を茶番化しようとしていたのである。
もっとも、そのような表現も、第4節でみたような青年の反抗にすぎないのだから、大したことはない(国家にとって恐れるに足るものではない)。
しかし、ビートルズの悪ふざけには、「異端」をパロディにすることで「正統」の根拠を同時にパロディ化しようとする、不敵な知恵があるような気さえする。
ともかく、「異端」が悲痛な反抗をみせる時代は終わり、これからは、「異端」が道化の衣裳でやってくる時代が始まるのだろう。

――以上、やや丁寧に安部公房の「ミリタリィ・ルック」の論旨を要約したのですが、それをさらに簡略にすると、以下のようになるでしょう。

(第1節) 近代国家における軍隊の制服は、機能本位の合理的なものになる傾向があるが、アメリカ軍の制服が作業着を思わせるような散文的なものであるのと違って、ナチスの制服はたいへん美学的なものだ。
(第2節) 散文的なアメリカ軍の制服が、「軍服の本質」をアメリカ人の日常感覚という「属性」によって覆い隠した(「偽善」的な)ものなのであるのに対し、美学的なナチスの制服は、日常性を拒否した「軍服の本質」そのものであり、そこに国家権力の剥き出しの意志表示がある。
(第3節) どんな国家においても軍服は、程度の差こそあれそれを着る人間の素顔と日常性を消去するものであり、そのことを最も純粋に示しているのがナチスの制服である。
(第4節) 安部公房はミリタリィ・ルックなるもの流行の噂を聞いたとき、平和という「正統」に反抗する青年が「異端」の旗印としての「純粋な軍服」に惹かれているのだと思い、平和が「正統」であるとはいえない現代の世界の現実を分かっていないのではないかと苦々しく思ったが、本物のミリタリィ・ルックを目にして、それが「純粋な軍服」に対する批評的なパロディであることが分かった。
(第5節) そもそも、ミリタリィ・ルックの元祖であるビートルズからして、パロディであることを自覚しつつ軍隊と国家を茶番化しようとしていたのであり、彼らにも象徴されるように、今後は「正統」と「異端」との関係が変わってゆくのだろう。

安部公房は細部でかなり複雑なことを述べていますし、私の要約がとりこぼしているところもあるかも知れませんが、できるだけ本文に忠実に論旨をまとめたつもりです。
本文と読み比べていただければ、以上の要約が大筋で間違っていないことは、認めていただけると思います。

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