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zoom RSS 唐十郎『特権的肉体論』要約

<<   作成日時 : 2014/12/07 14:13   >>

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テキスト=唐十郎『特権的肉体論』白水社、1997年

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「いま劇的とはなにか」

個人の<情念>の深みである<暗黒>の領域と、<偶然>と<自由>の広がる<陽光>の領域を、同時に見通し駆け巡るような<現在>的な演劇を作るためには、<特権的肉体>を駆使せねばならない。
<特権的肉体>とは、登場人物の独特で固有の実存が表現の中で凝縮された、<肉体>を素材とする形象である。
それが独特で固有のリアルなものだからこそ、観客はそれを観に来る。
<特権的肉体>の表現は<怨恨>に支えられており、その<怨恨>は、<他者>の<眼差し>が<肉体>の上に注がれたときの<意識>の<痛み>から生ずる。
<他者>が具体的で現実的な他者である場合、<痛み>も<怨恨>もリアルなものになるが、<もの>から<他者>の<眼差し>を感じて、<怨恨>の<予見>を表現の足掛かりにすることもできる。
このような<特権的肉体>を駆使することで、役者修業は、生活(現実)から芸術への<遠征>であるとともに、芸術から生活(現実)への<襲来>でもあることができる。
このような意味での<遠征>と<襲来>を兼ねるような演劇活動こそ、「芸術と政治」の問題に囚われている新劇などよりも、ずっと現実的であるし政治的アクチュアリティーももつ。
[<襲来>がいかなるアクチュアリティーをもつかは、「幻の観客へ」で述べられます。]

「幻の観客へ」

反社会的な不逞の輩たちが、役者修業によって<特権的肉体>を現出させ、観客を<投企>(ここでは、社会の規範的な現実原則の外へと自分の身を投げ出すこと)へと「かどわかす」ことこそが、演劇のアクチュアルな効果(<襲来>の意味)である。

「石川淳へ」

千田是也によって演出された石川淳の『一目見て憎め』を批判する。
演劇において面白いのは、生身の役者群が、舞台の上に幻を現出させるために躍動する過程である。
演劇の効果とは、そのような過程を通じて観客の記憶の中に、独特で固有なものを沈殿させることである。
[さらに「幻の観客へ」につなげると、独特で固有のものを記憶の中に沈殿させた観客は、いてもたってもいられなくなり、役者という不逞の輩たちに「かどわかされる」ことになる、ということでしょう。]

「文化的スキャンダリストへ」

寺山修司の実験演劇の「性急さ」(演劇の主題や狙い、問題意識をストレートに表現してしまうこと)を批判する。
演劇がなすべきこととは、戯曲の作者や役者の個人の中の想像力(規範的な現実を無化しようとする意識)を、<肉体>を通して舞台に上に現前化することである。
そして演劇の効果とは、その形象を観客に体験させ(参加させ)、観客自身の想像力を目覚めさせる(規範的な現実の無化を欲望させる)ことである。
[この効果が<襲来>というアクチュアリティーです。]

「役者の抬頭」

アルトーへの批判的言及。
役者の<肉体>という演劇の下部構造に注目しなければならない。
<肉体>の物質性(作家および作品に回収されない抵抗)と、<特権的肉体>の関係性(観客に「見られる」時間の中にしか存在しないこと)こそが演劇的なものである。
[この文章の中では、おそらく唐十郎自身が<肉体>と<特権的肉体>とを混同しています。]

「夢判断の手品」

「創造」とは、観客を襲い、「この世界の向う側へ放り出してしまう」――「路頭に迷わせる」――ような野蛮な行為である。

「灰かぐらの由来」

役者はその<肉体>を、作家および作品に奉仕するような形で提供することはなく、作品を「自分の生きながらえる術として、常に盗んでゆく」存在である。
作家は、その創造の喜びを、作品を書き上げた瞬間から役者に奪われていく存在である。
演出家は、役者と作品の両者を、観客との関係の中で爆発するように、うまく導き調整する「扇動者」である。
その三者が複雑なメカニズムで動くとき、演劇は社会の中で、政治と似たアクチュアリティー[<襲来>の効果]をもつだろう。
そして演劇の最も基本的な単位は役者である。

「魔女考」  [要約割愛]

「蛇考」  [要約割愛]

「終止符の巷談」  [要約割愛]


この作業をもとにした評論文
「唐十郎論――肉体の設定」
1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
3 唐十郎の演劇の体制
4 フィクションの政治性
5 現代演劇の政治と美学

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