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zoom RSS 安部公房「デンドロカカリヤ」の改稿について

<<   作成日時 : 2015/02/08 17:31   >>

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安部公房「デンドロカカリヤ」の改稿について
 ―― 一人称の存在論から三人称の疎外論へ ――

※ 「デンドロカカリヤ」初出版の内容の整理 → http://42286268.at.webry.info/201502/article_7.html
※ 「デンドロカカリヤ」初刊単行本版の内容の整理 → http://42286268.at.webry.info/201502/article_8.html
※ 「デンドロカカリヤ」初出版と初刊単行本版の異同 → http://42286268.at.webry.info/201502/article_9.html
※ 「デンドロカカリヤ」初出版における「顔」と「植物病」 → http://42286268.at.webry.info/201502/article_6.html

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  1.はじめに

安部公房の短編小説「デンドロカカリヤ」には、2つのバージョンがある。
雑誌「表現」の1949年8月号に発表された初出版と、1952年に刊行された短編集『飢えた皮膚』(書肆ユリイカ)に収録された初刊単行本版である。

安部公房の小説は、安部の作家としての経歴の初期において、デビュー作の『終りし道の標べに』(真善美社版)のように戦後実存主義的な存在論を含んだものから、戦後日本のマルクス主義の影響を感じさせるものへと変化するのだが、この変化を確認できる重要な例が、「デンドロカカリヤ」の2つのバージョンである。

本稿は、まずは初出版の小説としてのありようを確認し、そのうえで、初刊単行本版ではどのような改訂がなされているのか、その改稿がどのような意味を持つのか、検討を行う。

  2.「デンドロカカリヤ」初出版のあらすじと解説

■プロローグ

「デンドロカカリヤ」初出版は、語り手の「ぼく」が聴き手の「君」の「植物病」を見抜く場面から始まる。

「植物病」とは人間が植物に変形する病気なのだが、「ぼく」はこの病気を、「原存在」と「意識」と「顔」という概念を用いて説明する。
(詳しい解説は拙稿「デンドロカカリヤにおける「顔」と「植物病」」を参照していただきたい)

「原存在」とはおそらく、世界の中のさまざまな存在者を産出する不定形の力である。
世界に充満するこの「原存在」が、一方向の透過性を持つ「顔」というフィルターを通して人間個体に注ぎ込まれると、「顔」の内側に個人の「意識」が発生する。

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通常はこのようにして、個人の「意識」が「原存在」から分節化され、自立的なまとまりを保っている。
だが、このようにして分化した個人の「意識」は、分化して個体化してしまっているがゆえに、近代都市の生活において、「孤独」と「不安」を感じている。
「孤独」で「不安」な「意識」はときに、孤立した個人としてのまとまりを解消して、かつて自分を包含していた「原存在」へと還ってゆこうとする。
そのとき「発作」が起こり、個人の「意識」を固定していた「顔」が「裏返し」になる。
「顔」の反転によって「フィルター」としての透過性が逆方向に作用すると、個体の内部から外部の「原存在」へ向けて、「意識」を流出させてしまう。
最終的に「顔」の外側へ「意識」を吐き出しきった身体は、「管」のような抜け殻になり、植物化する。
これが「植物病」のメカニズムである。

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そういう病気はあるんだよ。隠さずに話しあおう。話しあわなければならないことが、こんなにどっさりあるんじゃないか。力を合わせてなんとかしようよ。


自分も「植物病」だという「ぼく」は、「君」に連帯を呼びかける。
存在論的な「孤独」と「不安」を原因とする「植物病」から身を守るためには、個人としての自立的なまとまりを維持しているうちに、他人と連帯することが必要なのである。
しかし「植物病」にかかった人間は、それを「自分だけの病気だと思って」しまい、「恥のように思って、隠す」傾向にある。
「植物病」の人間は、「被害者」であると同時に自分の孤立の「加害者」でもあり、その孤立によって「植物病」はいっそう進行する。
そのように話したうえで「ぼく」は、連帯することを知らずに結局植物になってしまった人間の例として、「コモン君」の話を「君」に語って聞かせるのである。

コモン君の話は、笑いという一般に共有された表情の類型(表情の紋切型)によって受け取られるのでなければ、「馬鹿気ているか、あるいは恐ろしい」ものだという。
それゆえに「ぼく」は「君」に、「笑いながら聞きたまえ」と要請する。
この要請の意味は少し分かりづらいが、おそらく以下のようなことだろう――

コモン君の話は真実だが、あまりに荒唐無稽であり、また恐怖を与えるものである。
「君」がもし真面目な表情でコモン君の話を聞き始めたとしたら、あまりの荒唐無稽さに途中で不信感を抱くか、あるいはあまりの恐怖に途中で聞く気をなくすかも知れない。
「デンドロカカリヤ」初出版の語り手の「ぼく」は、「君」の表情を見ながら語っているので、「君」が不信感や話を聞けなくなるほどの恐怖を抱くとき、それらの感情を表情から読み取るだろう。
そうすると、「ぼく」は安心して話すことができなくなってしまう。
だから「ぼく」からすれば、「君」にはとりあえず「笑いという、既知のマスク」をつけて、話を聞き始めてもらわなければならないのである。

さて、「ぼく」はコモン君の話を始める。
コモン君は「ぼく」の友達だったというのだが、「君」の友人でもあったらしい。
コモン君のことを「名前のとおり」に「想浮べてごらん」という言葉からも分かるように、ある種の普遍性を持った人物像として、コモン君という主人公は「デンドロカカリヤ」初出版に登場する。

■春の路―― 1回目の植物化

ある日、コモン君は路端の石を蹴る。
それはごくありふれた行為だが、「何故蹴ってみようなどという気になったのだろう?」と「意識」すると、「その一見あたりまえなことが、如何にも奇妙に思われはじめた」。
これは、近代都市における「孤独」な個人の「意識」において、日常的な対象意識の自明性が失われる「不安」の体験である。
コモン君が「不安」を払拭できないまままた石を蹴ると、「意識」が「断層」を作る。
自分の行為をひとつの連続したまとまりとして「意識」することができなくなり、石を蹴りながら歩くという普段なら自明の行為がバラバラに解体され、その切断面が「断層」という形で見えた(ような気がした)、ということだろう。
「鏡」のようなその「断層面」の前で、自己の像が「無限」に増殖する。
「孤独」な個人が自明の対象意識を失ってしまい、「不安」な自己意識をつのらせることから、「植物病」の「発作」が起こる。
コモン君の「顔」は「裏返し」になっており、身体は植物になっているのである。
これがコモン君の1回目の植物化だが、このときは気づいてすぐに顔を表に戻し、事なきを得る。

■K嬢からの手紙

その後1年間は何も起こらなかったが、翌年の春、コモン君はK嬢からの手紙を受け取る。
手紙の中で、K嬢はコモン君に愛を告白し、K嬢の交際している「あの人」から一緒に逃げようと提案する。
K嬢からの手紙に感動したコモン君は、K嬢と逃げる決心をして、アパートの部屋を友達の「ぼく」に譲ることにする。
コモン君のアパートに移った「ぼく」は、K嬢との待ち合わせ場所へ向かうコモン君を、部屋の窓から見送る。

風が逼ってたよ。コモン君は肩で息をしていた。ぼくは窓から見送ってたので、ちゃんと知ってるんだ。


■珈琲舗カンラン―― 2回目の植物化

待ち合わせ場所の珈琲舗カンランへやってきたコモン君は、K嬢との思い出を反芻しながら相手を待つ。

何も彼も済んでしまった今となって考えれば、もし幸福というものがあるとすれば、なんと言ってもコモン君の一生で一番幸福な瞬間だったなあ。


しかしそこへ、大男の「あの人」がやってくる。
「あの人」を前にした不安の中で、コモン君は2回目の植物化を経験してしまう。
このときもなんとか「顔」を表に戻したコモン君だったが、もとに戻ったときには時間が経過しており、結局K嬢とは会えなかった。
自分を見つめる「無数の眼」を意識して「恥じらい」を感じたコモン君は、うちひしがれてカンランから出る。

■焼跡―― 3回目の植物化

コモン君は街を彷徨し、道に迷って丘の上の焼跡に出る。
「顔」が「裏返し」になるのをなんとか押さえながら、「顔」をはがして捨てたら「原・顔」が残るのだろうか、などとコモン君は考える。

今度ははっきりと自分が植物になってゆくのが感じられた。というより、外界の一切が自分になり、ただ自分でない、しかも今まで自分だった管のような部分が植物になるのだと思った。しかしもう拒む気はなかった。(中略)そう決心してしまえば、植物になることも、やはり一種の快感なんだよ。


植物化を受け入れそうになっていたコモン君の前に、「デンドロカカリヤだ!」という声とともに黒い詰襟のずんぐりした男が現われ、植物になったコモン君を海軍ナイフで採集しようとする。
そのとき、偶然からコモン君は人間に戻り、黒服の男は驚いてナイフを落とす。
そのナイフを拾ったコモン君は走ってその場を立ち去るが、黒服の男はコモン君を尾行してきている。

■「ぼく」とのやりとり

コモン君はアパートに帰って「ぼく」と会う。
おそらく「恥じらい」のせいで、コモン君は「ぼく」に事情を話すことができない。

ああ、可哀そうなコモン君、何故黙ってたんだ。君独りの病気でもなかったのに。分っていれば守ってあげられたかもしれなかったのに。


コモン君の話を「君」に語っている時点においては、コモン君の身に起こったことを「ぼく」はすべて知っており(だからこそ語ることができている)、コモン君が「植物病」のことを打ち明けてくれなかったこと、そして自分がコモン君の異状に気づかなかったことを悔しく思っている。

きっかけがないではなかったのに、何故気づかなかったのだろうね。気がついてもいいだけのことはあったのに。


翌朝、黒服の男が見張っている中、「ぼく」は郊外の借間へ戻るためにコモン君のアパートを出る。
コモン君は「ぼく」を停留所まで送ってくれるのだが、「ぼく」はコモン君が植物になりそうだと偶然言ってしまい、自殺した人間が樹になるというダンテの『神曲』に言及する。

■図書館

「ぼく」と別れたコモン君は、『神曲』を調べるため、近くの図書館へ行く。
そこで分かったのは、地獄における植物への変形は、自殺者の受ける罰であるということ、そして、地獄に堕ちた人間は罪の意識を持たず、地獄には罰だけがあって罪がないということであった。
コモン君は、自分が知らぬうちに既に自殺してしまっていたのかもしれないと考える。
図書館の廊下を地獄であるように感じたコモン君は、思わず走り出してしまい、受付の男につかまえられる。
その様子を、黒服の男が見つめていた。
コモン君は黒服の姿を、『神曲』に載っていた自殺者の樹をさいなむ怪鳥「アルピイエ」と重ねる。

■プロメテウスの火を思う

ある日、コモン君は町角でK嬢と大男の「あの人」に会うが、相手にされない。
アパートの部屋に戻り、K嬢からもらった手紙を燃やしていると、その火がコモン君には、人間が「ゼウス一族」と戦うための「プロメテウスの火」に見える。
そのときちょうど「植物病」の発作が起きたせいで、コモン君は、「植物への変形はゼウス一族の仕業にちがいない」と思い込んでしまう。
つまり、K嬢との恋にやぶれた悔しさを「植物病」の恐怖と結びつけることにより、「ゼウス一族」という敵を想像の中で設定したのである。
コモン君はギリシア神話の本を入手し、ゼウス一族によって植物にされた人々の話を確認する。
植物への変形とは、「ゼウスの奴隷たち」が不幸と同時に幸福を奪われ、罪から解放されたかわりに罰そのものの中に投げ込まれることであると知ったコモン君は、ゼウスと戦うためのプロメテウスの火がほしいと熱望するようになる。

■アルピイエとの会話

そんなコモン君のもとに、「H植物園長」という人物から手紙が来る。
その手紙の中で植物園長は、コモン君が「デンドロカカリヤ・クレピディフォリア」であることを、コモン君よりも自分の方がよく知っていると述べる。
デンドロカカリヤとは、小笠原の母島列島のみに産する珍奇な植物であり、内地では見られないはずの植物なので、内地でデンドロカカリヤと巡り会えたことは、植物園長にとってはよろこばしい名誉なことだという。

その手紙で予告したとおり、植物園長はコモン君のアパートへやってくる。
その人物は、コモン君がアルピイエだと思った黒服の男である。
アルピイエが「ゼウスの使い」のように思われたコモン君は、その人物が「プロメテウスの火」を消しに来た敵だと考える。
植物園長は、植物になって「政府の保証つき」の植物園の温室に入るよう、コモン君に提案する。
その温室にはすでに、「植物になった沢山の人」が「一番平穏に暮して」いるという。
コモン君はここで、自分以外に植物になった人間がいたことを知り、その植物たちが温室で管理されている様子を初めて想像する。
その認識は恐ろしいものであったため、「私に目星をつけられた人々はみんな幸福ですよ」という植物園長の言葉に、コモン君は「幸福だって!」と強く反発する。
それに対して、植物園長は次のようにうそぶく。

幸福だの不幸だのなんて、一体何んの役に立つんです。どうでもいいじゃありませんか。要するに、ますます純粋に、豊富に存続しつづけるということが問題なんでしょう。


コモン君は「俺の火は消えないぞ!」と叫び、植物園長を追い出した後、三日間も震えながら悩み続ける。

■植物園―― 4回目の植物化

どうせ俺はいずれ植物に変形をまのがれない。すでに、この世に在ることが自殺者である俺だ。死から追われてしまった以上、身を亡ぼす不安なんかあり得まい。アルピイエを殺そう。人間から火を奪うアルピイエを殺してやろう。出来れば温室の中に閉込められている仲間を救ってやろう。


そう決心したコモン君は、ナイフを持って植物園を訪れる。
植物園長はコモン君を迎え、温室へ案内する。
温室の植物たちを見て、コモン君は「暗い悲しみ」を感じる。

そもそも「植物病」とは、個人の「意識」が外部へ流出して、身体内部が空洞化する病気だったはずである。
だから、もしコモン君が植物たちを温室から解放したとしても、それらの植物が人間に戻ることはないだろう。
植物になって温室に「囚れ」ているのは、人間の「魂」ではなく、抜け殻の身体にすぎないのだ。
コモン君が「暗い悲しみ」に陥るのは、そのことをうすうす感じてしまったからかも知れない。
(「俺はアルピイエを殺し、囚れの魂を救うつもりだったんだ!」という台詞が過去形であることも、同じ絶望的な認識を示している)

結局、コモン君は植物園長を殺すことができず、ナイフを取り上げられる。
語り手の「ぼく」は物語の中のコモン君に呼びかける――

ああ、コモン君、君が間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを、君は知らなかったんだ! そんな方法で、アルピイエを亡ぼすことは出来ないんだよ。ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだよ。


コモン君は植木鉢に乗せられ、植物への変身を完了させてしまう。
植物園の助手は植物になったコモン君を見て、「大したやつじゃなかったな」と思う。
植物園長が笑いながら、デンドロカカリヤの学名をラテン語でカードに書き、コモン君の幹に大きな鋲でとめたところで、小説は終わる。

■物語の効果

コモン君の物語を話す中で、語り手の「ぼく」は何度も、コモン君と自分の過去の行動について、悔しさや反省を語る。
その悔しさや反省は、この小説において副次的な意味しか持たないものではない。
失敗の認識や後悔は、物語とセットになって、聞き手である「君」に何らかの効果を及ぼす。
そしてその効果こそ、「ぼく」が「君」に物語ることの目的である。
つまり、コモン君が自分の「孤独」と「不安」を誰にも話さず孤立したこと、および「ぼく」がコモン君を孤立させてしまったことを、失敗例として聞き手に認識させようというのが、「ぼく」の語りの動機付けなのだ。
この物語を通して「ぼく」は、存在論的な「不安」について話し合うことで「孤独」を解消しようというふうに、「君」に連帯を呼びかけている。
植物への変化は、他の人間には無関係な個々人の特殊性としてではなく、同時代的な状況としてとらえられ、連帯の中で解決されねばならない。――そのような考えによって「君」を説得するために、「ぼく」は「君」に「コモン君がデンドロカカリヤになった話」を語ったのである。

  3.初出版から初刊単行本版への改稿

さて、「デンドロカカリヤ」は初出版から初刊単行本版に改稿されたとき、どのように変化しているのだろうか。
(拙稿「「デンドロカカリヤ」初出版と初刊単行本版の異同」も参照のこと)

■存在論の排除

まず見て取りやすいのは、語り手の「ぼく」が聞き手の「君」に直接語りかけるプロローグの部分が、すべてカットされていることである。
このカットにより初刊単行本版からは、「原存在」と「意識」が「顔」によって媒介される「植物病」のメカニズム、およびその原因としての「孤独」と「不安」をめぐる存在論的な議論が抹消されている。
それにともない、「植物病」にかかった個人がその孤立の「被害者」であると同時に「加害者」でもあるということを、初刊単行本の読者は読み取ることができなくなる。

初刊単行本版のテキストは、コモン君の1回目の植物化の場面から始まるのだが、初出版の同じ場面で重要な役割を振られていた「意識」の「断層」が、初刊単行本版には現れない。
初出版における「意識」の「断層」とは、個人に「不安」な自己意識の増殖をもたらすことで、個人の「孤独」を「植物病」の「発作」へとつなげてしまうものだったのだから、初刊単行本版は「意識」の「断層」にふれないことによって、植物化から自己意識という要因を排除しているのだといえる。

とりあえずここまでのことから考えると、初出版が「植物病」を個人の自己意識と関わる存在論的なものとしてとらえていたのに対し、初刊単行本版は個人や存在論の水準にあるものを植物化の原因として提示しなくなっているといえるだろう。

■必然性の強調と登場人物の統合

次に目を引くのは、Kからの手紙である。
初刊単行本版の手紙は、非常に簡潔かつ抽象的な文面になっており、「それがあなたの運命です」というふうに、必然性が強調されている。

また、初出版からは、K嬢とコモン君との具体的な関係が読み取れたのだが、初刊単行本版では、Kという女性の存在は、きわめて疑わしいものとして書かれている。
実際、初刊単行本版にK嬢という女性は登場しない。
Kからの手紙で指定された珈琲舗へ行ったコモン君の前に現れたのは、植物園長であり、彼は「まるでちゃんと予定してでもあったように」コモン君の前の席に掛ける。
初刊単行本版の植物園長の名前がKに変更されていることを考え合わせると、植物園長こそコモン君を手紙で呼び出した人物であり、その後のすべては彼の策略で、コモン君は植物園長の組織する必然性の中に陥れられてゆくのだという解釈も、初刊単行本版では可能になる。

初出版のコモン君の受難は、まずは「孤独」の中の「不安」から1回目の植物化を起こし、その後、K嬢とその交際相手の「あの人」をめぐる「不安」のせいで2回目の植物化を起こし、3回目の植物化のときに偶然H植物園長に目をつけられる、というふうに展開している。
初出版ではコモン君は、個人的な原因から植物化しやすい傾向にあり、恋愛事件のせいで植物化がすすんだところで、たまたまH植物園長につけ込まれたのだった。
しかし初刊単行本版では、冒頭の1回目の植物化こそひとりでに起こっているものの、2回目以降の植物化は、すべてK植物園長の目の前での出来事である。
コモン君は1回目の植物化の後、「こちらをじろじろ見ているやつがいる」気がしていた。
おそらく初刊単行本版では、コモン君の1回目の植物化を目にしたK植物園長が、それ以来コモン君をつけ狙い、罠を仕掛けて2回目以降の植物化へと追い込んでいったのである。

K植物園長の意図が強調される初刊単行本からは、K植物園長の罠という必然性に関わらない登場人物が抹消され、その役割がK植物園長へと統合される。
図書館の場面においても、受付の男がそのままK植物園長になっており、彼はコモン君に本の中の読むべきページすら指定する。
初刊単行本版では、冒頭の場面以降コモン君はずっと、K植物園長の用意する必然性の中に囲い込まれているのである。

■存在論から疎外論へ

しきりに「政府の保証」を口にする植物園長は、人民の生を管理する権力の象徴である。
他ならぬ自分の身体を奪われるという意味で、コモン君は権力によって疎外されるのだといってよい。
「デンドロカカリヤ」は、初出版も初刊単行本版も、ある人間が植物化したところ、偶然それを権力を持った者に見つけられ、疎外されるという物語である。

しかし、初出版では植物化に、個人の存在論的な「孤独」や「不安」といった原因が与えられており、また、権力を持った者に見つけられる偶然が、3回目の植物化の時点に振り当てられていた。
したがって、「デンドロカカリヤ」初出版では、存在論的な「孤独」や「不安」と政治的な疎外とが、重量において拮抗している。

それに対して初刊単行本版は、存在論的な議論を排除し、権力を持った者に見つけられる偶然を、1回目の植物化の時点に設定し直している。
ゆえに初刊単行本版では、必然性に支配された物語の中、政治的な疎外の主題が突出しているのである。

■語り手と聞き手の関係

「デンドロカカリヤ」初刊単行本版では、語り手が聞き手を「君」と呼ばず、また、自分ひとりを「ぼく」と呼ぶこともない。
コモン君をめぐる物語の中に登場人物として「ぼく」が現われることもなく、したがって、コモン君の異状への対処に関して「ぼく」が後悔するということもない。
初刊単行本版の語り手は、語る場面(物語行為)において特定の聞き手から直接的な影響を受けることがなく、語られる場面(物語内容)においても、コモン君と直接的に影響を与え合うことがないのである。
語り口こそ独特なものではあるが、初出版との比較においては、初刊単行本版の安定したナレーションは、ほとんど三人称小説のものである。
初出版から初刊単行本版への改稿によって、「デンドロカカリヤ」は、一人称の小説から三人称の小説に変わったのだ。
それでは、なぜこのような変更がなされたのだろうか。

初出版の「デンドロカカリヤ」において、語り手の「ぼく」が聞き手の「君」に語りかけるのは、連帯して「植物病」の蔓延に抵抗するためであった。
「ぼく」の目的は、個人の抱える存在論的な「孤独」と「不安」を、個人どうしの話し合いと協力によって解消することだったのである。
だからこそ「ぼく」は、「孤独」と「不安」を察知してコモン君を救うことができたかも知れないという偶然性の感覚の中で自分を責め、反省すべき前例として「君」に提示しなければならない。

しかし、初刊単行本版は「孤独」や「不安」にまつわる存在論的な議論をカットしているため、語り手の目的は初出版と同じものではありえない。
初刊単行本版の語り手が闘争する相手は、存在論的な水準にある植物化そのものではなく、それを利用して個人を疎外する、政治的な水準の権力なのである。
権力によって捕捉された個人は、仕組まれた必然性の中で疎外へと追い込まれてゆくため、語り手がコモン君を救えなかったことを後悔する余地などありはしない。

ああ、コモン君、君が間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを、君は知らなかったんだ! そんな方法で、アルピイエを亡ぼすことは出来ないんだよ。ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだよ。


初出版のこの一節は、ほとんど同じ形で初刊単行本版にもあるが、その意味合いは大きく異なる。
初出版においてはこの一節は、自分を疎外しようとする権力と正面切って戦っても勝ち目はなく、それよりも連帯によって存在論的な「孤独」と「不安」を解消することが必要だ、ということを意味している。
しかし初刊単行本版では、多くの個人が同じような理由で疎外されているのだから、個々人が単独で権力と戦うのではなく、連帯して闘争を組織するべきだ、というふうに意味が変わるのである。

  4.実存主義からマルクス主義へ

「デンドロカカリヤ」初出版の語り手や聞き手や主人公が罹患していた「植物病」とは、近現代の世界における個人主義的な生き方が否応なく経験する「孤独」や「不安」そのものである。
そのような「孤独」や「不安」が蔓延すると、それらを人間存在の根源に据え直すような思考が必要とされる。
そこで登場するのがいわゆる実存主義哲学の存在論であり、安部公房が少年期に傾倒したハイデガーはその代表だといえる。
しかし実存主義の存在論は、「孤独」や「不安」を解消すべきものとしてではなく、人間存在にとって不可避のものとして記述する。
「孤独」や「不安」は、存在論の哲学によってはなくせないのである。

上記の「孤独」や「不安」に対し、社会的に対応する概念を与えてくれるものとして、マルクス主義の理論が受容されることがある。
その対応概念こそ疎外である。
マルクス主義的な理論によって、存在論的な「孤独」や「不安」が疎外という形に社会化されると、「孤独」や「不安」を社会変革によって解消するという、実践的な目的が得られる。

最初期の安部公房の持っていた存在論哲学への志向は、1951年の日本共産党入党前後からマルクス主義によって社会化され、存在論的な「孤独」や「不安」といった契機は、疎外の概念へと再編成される。
日本共産党在籍時の安部公房の短編小説は、戦後社会における疎外状況を物語という形で可視化し、告発し、連帯と実践を読者に呼びかける、疎外論の寓話と呼びうるものになる。
「デンドロカカリヤ」の2つのバージョンは、実存主義的な存在論の小説からマルクス主義的な疎外論の寓話へという安部の転回を、はっきりと示すものである。

※ 「『砂の女』と小説の地平――安部公房の小説について――」では、「デンドロカカリヤ」と『砂の女』とを比較して論じています。

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