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zoom RSS 『砂の女』と小説の地平 (一) 『砂の女』の内容

<<   作成日時 : 2015/02/12 16:52   >>

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『砂の女』と小説の地平 ―― 安部公房の小説について ――

はじめに
一 『砂の女』の内容
二 『砂の女』の意義 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較
三 『砂の女』の叙述 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較
四 『砂の女』の小説体制 ―― 中期の長編小説の地平


一 『砂の女』の内容


 『砂の女』という小説は、エピグラフ、第一章から第三章までの本編、「失踪に関する届出の催告」および「審判」という枠付き文書から構成されている。そして本編の第1節はプロローグのようなものである。

 まずは、プロローグを除外した本編に何が書かれているのかを確認しよう。この小説だけを素朴に読む読者が、言語化はしなくても読み取っているはずのことを、多少なりとも整理してみるというのが、ここでの方針である。『砂の女』が現在なお新しい読者を獲得するに足る小説なのであれば、この作業にあたってはとりあえずのところ、テキストの外部を参照する必要はなかろう。

 『砂の女』は、数々の出来事によって主人公の認識がダイナミックに運動する小説である。本稿ではその運動を、初期状態が否定された後に否定の否定が目指されるという、一種の弁証法としてとらえる。動的な弁証法の過程をたどるためには、テキスト化されている事件の全体をいくつかの部分に分け、段階を追って検討せねばならない。本稿では、本編第2節から第31節までを以下のように分割する。

 ――第一章前半すなわち第2節から第6節。これは物語内の時間の第一日目に相当し、その日は計算によって8月10日木曜日であるとほぼ確定できる【注1】。主人公の男が砂丘地帯の部落へやってきて、砂の穴の底に建つ家へ案内され、そこの主人である女と出会う。夜、女は家のまわりの砂掻きをする。

 ――第一章後半すなわち第7節から第10節。第二日目、8月11日金曜日。目を覚ました男は、砂の穴の中に閉じ込められたことに気づく。砂掻きをさせるため、部落が男を罠にかけたのである。

 ――第二章前半すなわち第11節から第22節。8月15日火曜日から17日木曜日まで。男は仮病を使ったり女を人質に取ったりすることで、部落と交渉して自分を解放させようとするが、部落から水の供給を絶たれて挫折する。男は女と性交した後、砂掻きの義務を受け入れる。

 ――第二章後半すなわち第23節から第27節。9月23日土曜日、男はひそかに用意していたロープを使って穴から脱出する。しかし屈辱的な形で部落の者に捕まり、また砂の穴に戻される。

 ――第三章前半すなわち第28節から第30節。10月、男はもはや脱出のために積極的な行動を取ることができなくなっている。鴉を捕らえてその脚に救援を求める手紙を結びつける、などというおよそ空想的な考えから、罠の装置を作って「《希望》」と名づけているくらいである。せめてわずかな時間だけでも穴の外に出る権利を得たいと部落にかけあったところ、部落の者が見下ろしている前で女と性交すれば認めると言われる。男は女に襲いかかるが、反撃を受けて失敗する。

 ――第三章後半すなわち第31節。同じく10月、「《希望》」に水が溜まっていることを発見して世界観の逆転を経験した男は、砂の中から水を得る溜水装置の研究に没頭する。翌年5月、女が子宮外妊娠のため病院へ送られる。そのとき砂の穴に縄梯子が残されており、男は外に出られるが、すぐに溜水装置のある穴の底へ戻る。

 以上の分割をもとに、この小説の事件を主人公がどのように経験するのか、いくつかの主題をめぐって確認してゆこう。

 第一章前半には、主人公のいわば初期状態が示されている。そこでの男は、「新種の発見」を目指す昆虫採集家である(第2節)。首尾よく新種を見つけられれば、その昆虫の「長いラテン語の学名」とともに自分の名前も図鑑に載り、「半永久的に保存」されて「ながく人々の記憶の中にとどまれる」だろう。そうして男は、砂に着目する。「定着」を拒む砂の「流動」の中にこそ、適応性の強い変種がいるのではないかと考えたのだ。さらに男は、「流動」する砂自体にも心ひかれるようになる。男が砂丘地帯を訪れたことからは、昆虫採集という目的だけでなく、「流動」する砂への嗜好も読み取ることができる。

 しかしそもそも昆虫採集とは、野生の昆虫を捕獲し、殺虫瓶に入れた後「ピンでとめ」る行為である(第4節)。それは「流動」を「定着」へと固定することであり、図鑑への記載も同様だろう。男が「自分自身が流動しはじめているような錯覚」をおぼえるとき(第2節)、その感覚は欺瞞的なものだといわねばならない【注2】。「砂に浮べる船」というイメージ(第6節)は、その欺瞞が形象化されたものである【注3】。「内側は固定したまま、外側だけがまわる」二重の樽状のその構造物は、外面は「流動」に身を寄せながら内面の「定着」を確保し続ける男の身振りの隠喩となっている。

 自分は「定着」の側に身を置きつつ一時的に「流動」にふれ、その経験をまた「定着」の領域へと持ち帰るというのが、初期状態における主人公の行動のパターンである。このような運動のパターンを、自己肥大の弁証法と名づけておこう。措定(ここでは「定着」)が反措定(ここでは「流動」)にふれたとき、反措定をのみこむ形で綜合に至り、その綜合は措定と同質のまま(ここでは「定着」)であるような、必然性を見込んだ行動や認識の運動しか、初期状態の主人公は知らない。

 それにしてもなぜ男は、「定着」の側にいながら「流動」に魅せられたのか。男が砂丘地帯へやってきたのは、「義務のわずらわしさと無為から、ほんのいっとき逃れるため」だったのだという(第6節)。男は、都市における「定着」の生活および労働が自分に押しつける義務を厭うがゆえに、「流動」に心を奪われたのである。自分の労働が、自分のためにならぬ厭わしい義務としか感じられなくなる事態は、疎外と言い換えられるだろう。男は、都市生活の「定着」の中での義務に、疎外を感じていたのである。

 砂丘地帯へ来た男は、砂丘にあいた穴の中に家が建っているのを見下ろす(第3節)。「いずれ、砂の法則に、さからえるはずもないのに……」と考えつつカメラをかまえる男は、対象を物理的に見下ろしているだけではない。超越的な視座を心理的に仮構して、その安全な高みから視覚によって対象を支配しているつもりなのだ。安全な超越的視座から対象をとらえるこの態度は、前述の自己肥大の弁証法を担保するものでもあり、昆虫採集という趣味にも通じている。この超越的視座を、第16節に出てくる言葉で「観察者」の立場と呼ぶことができるだろう。そしてこの視座が、もっぱら書物から得られた知識と理論によって仮構されたものであることは、第2節から明らかである。

 このような超越的視座は、むろん架空のものでしかない。本当に超越的な視座に位置しているとすれば、男のまなざしはあらゆる事物を鳥瞰するはずだが、実際のところ男はここまで、「遠景にはほとんど気をとめ」ず、「足もとから半径三メートルばかりのあいだに、全注意力を集中」して歩いてきたのだ。初期状態の主人公はきわめて近視的な対象意識にとらわれていながら、その近視性に無自覚であり、自分が超越的視座にあると思い込んでいる。その思い込みが無根拠であることは、足もとの砂が突然流れ出すという小さな危険によって暗示される。

 以上が主人公の初期状態である。砂の穴の中で出会った女は、二つの点で初期状態の主人公を苛立たせる。

 一つには女の語る、砂がものを腐らせるという話である(第4節)。砂がものを腐らせるということは、砂が水分と何らかの関わりを持つということを意味する。まさにこの後『砂の女』の物語を支配することになるのは、ときに対立的な性質を示し、なおかつ奇妙な親和性も見せる、砂と水との複雑な関係である。しかし男は、砂は乾燥したものだという自分の知識に固執し、砂と水との関わりを否認する。初期状態の主人公は、砂と水との関係のあり方を知らぬまま、心は砂にひきつけられる一方、身体では水を求めているのだ。

 もう一つは、砂掻きの労働である。男は女の砂掻きの仕事について、「砂掻きをするためにだけ生きているようなものじゃないか!」と言う(第6節)。男が思わず語気を強めてしまったのは、無益に思える砂掻きに従事する女の姿を通して、厭わしい義務の中で生きる自分の都市生活、すなわち自分の疎外を見せられてしまったからである。

 さて、第一章後半で、主人公は砂の穴に監禁されたことを知る。いっときの「流動」を安全に経験した後、都市の「定着」へと戻ろうという男の予定調和的な運動が、ここで切断される。このとき、主人公の初期状態に、否定が突きつけられるのだといってよい。初期状態においては昆虫採集家であり観察者であった男は、閉じ込められたことに気づくと、自分を「昆虫」や「鼠」に喩えてしまう(第7節)。超越的視座にいたはずの男は、内在的位置に叩き落とされたのである。

 部落は男に、砂の穴に「定着」して砂掻きをすることを求めている。男は第一章前半で、砂掻きから自分の都市生活における義務を想起していたのだから、男にとっての砂の穴とは、都市の疎外状況の「凝縮された象徴」だといえる【注4】。したがって、ここで男に突きつけられる否定は、都市の「定着」の中で男をとらえていた疎外が、凝縮され形をとったものなのである。だからこそこの否定によって、初期状態の男が抱えていた欺瞞が暴かれてしまうのだ。

 この否定に対する主人公の最初の態度は、否定の否認である。「おれは、馬や牛じゃないのだから」(第7節)と考える男は、自分が内在的位置にあるいわば実験動物であることを否認し、逆に女を「虫けら」や「けもの」(第10節)のような対象としてとらえることで、超越的な観察者の視座を確保しようとする。

 男は脱出するために、砂の壁の傾斜をなだらかにすることを試みる。自分の知識と理論を信じて男は作業に取りかかるが、しかし、ことは頭の中の理屈どおりには運ばない。知識と理論に支えられた主人公の超越的視座は失われ、必然性を見込んだ自己肥大の弁証法は失効する。第一章が終わる時点で主人公は、自分の初期状態が否定されたことを、もはや否認できなくなる。

 否定の否認に失敗した主人公は、次に何を行おうとするのか。否定の否定である。第二章は、否定を否定して初期状態に戻ろうとする男の試行錯誤を描いている。男は砂を「流動」としてしかとらえられないため、砂の穴に「定着」することは不可能だと思い込み、都市の「定着」へと帰還することを目指して試行錯誤する。それは、「未知数だらけの方程式」(第18節)に手当たり次第に数字を代入し続けるような、先の見えない運動となる。

 第二章前半の主人公は、内在的位置から抜け出して超越的視座に復帰することを望んでいる。女を「犬」や「豚」に喩え、女の生活を疎外論の言葉で批判するのは、超越的視座への希求のあらわれである(第12節)。しかし女には疎外論の言葉は通じない。そして、試行錯誤の相次ぐ失敗によって自分の認識の近視性を思い知らされるとき、男は自らを蠅(第17節)や「獣」や「魚」(第18節)に喩えてしまう。

 第二章後半、主人公は脱出用のロープを作る(第23節)。その発想は唐突にやってきた思いつきであった。男が第二章前半で行っていた試行錯誤は、目的のために手段を講じるという論理のもとにあり、いまだ必然性を見込んだものだったといえるが、そのようなやり方がことごとく失敗に終わった後、試行錯誤の成果が無意識を経由して、偶然にもたらされたのである。しかしロープを使って穴から出た男は、「どうどう巡り」(第25節)の逃走の末に捕らえられ、屈辱とともに仮死のような状態に陥る。否定を否定しようという主人公の意志は、ここに完全に挫かれる。

 このときの逃走劇には、執拗に犬が登場している。そして男は、犬のように低い視点しか持てずにいた。男はほとんど犬になって、犬と戦っていたのである。第二章前半を振り返ると、仮病や人質といった手段を用いる男は、人として人と戦っているつもりだったのだろうが、しかしその姿はほとんど実験動物であった。第二章の主人公は動物だったのである。

 なぜ男は動物だったのか。それは、「未知数だらけの方程式」が問うていることを正しく把握できずにいたからである。男はこの方程式を、いかにして砂の穴から脱出するか、という問いとしてとらえていた。そのせいで動物のようにもがき、動物のように逃げねばならなかった。しかし男が本当に問われていたのは、「定着」の意味はいかなるものか、ということだったはずである。その問いを欺瞞抜きに解くことができなければ、もし脱出に成功して都市へ戻ったとしても、そこでの「定着」の中でまた疎外を感じるだけではないか【注5】。

 「定着」の本当の意味はいかなるものか。その問いを解く手がかりは、砂の穴の中の「定着」において疎外を感じずに生きる女の姿にあったはずだ。男は、女の「定着」と一体となった砂掻きの労働を、疎外とみなしていた。手段と目的という論理で労働をとらえると、確かに無益な砂掻きはこの上ない疎外である。第二章後半でテキスト化されている男の意識からは、男が女を誘って一緒に脱出しようとしていたことが読み取れる。男は、砂掻きの労働による疎外から女を救出しようと思うようになっていたのだ(第25節)。しかし女は男の誘いに乗らなかった。女の「定着」に疎外はないからである。女は手段と目的という論理によらず、ただ砂の中に生き、砂掻きをしているだけなのだ【注6】。しかし第二章までの男は、疎外のない「定着」について考えられもしなかった。そして「定着」の意味の分からない男には、砂と水との関係も分からないままなのだが、これについては後述する。

 第三章前半の主人公は、否定の否定を半ばあきらめている。男はまるで、「植木の鉢」(第29節)に植えられた植物のようになっているのだ。男が仕掛ける鴉用の罠は、内在的位置にある植物が、鳥の超越的視座に対して抱く嫉妬そのものである。その罠も男の試行錯誤の一つではあるが、シニカルに「《希望》」と名づけられているのは、男が超越的視座を持つことをほとんど断念しているからにほかならない。

 男は砂の穴の中の「定着」に順応しかかっている。「おれにだって、もっとましな存在理由があるはずだ!」といった疎外論の言葉も、もはや無意味なもののように感じられる(第28節)。もしも部落の者たちの前で女と性交するという儀式が完遂されていれば、男は部落に隷属し、その掟を内面化する形で砂の穴に「定着」してしまっていただろう。しかし、男は順応にも失敗する。

 第三章後半、「《希望》」に水が溜まる。それは主人公の試行錯誤の成果ではあるが、本来の目的とはまったく別の、偶然の効果である。『砂の女』という小説における先の見えない試行錯誤は、手段と目的の論理から離れた偶然の領域でこそ、最も豊かに実を結ぶ。偶然により、男が意図していなかった形で、否定の否定がもたらされたのである。

 ここまで男は砂と水について、砂は生の障害であり、水は生の源であるという具合に、両者を単純に対立させて考えていた。そのため男とって砂の穴への「定着」とは、根本的に不可能なことを強制される経験でしかなかった。また、水を供給してもらうためには部落の意志に従属し、義務としての砂掻きを行わねばならず、その労働の義務から疎外が発生する。つまりここまでの間、男の「定着」と疎外は、砂と水との相いれない対立という固定観念によって規定されていたのである。経験的には、砂と水との間に何らかの関係があるらしいことに気づきながらも(第24節)、それがどのような関係なのかを、男は見きわめられずにいた。

 しかしいま、砂の中から水が得られることが分かった。砂と水とは排他的な対立物ではない。生の障害の中にこそ生の源がある。男は、部落から与えられる水によって生かされるのではなく、自分で手に入れる水によって生きることができる。「定着」が、強制されるものから、自分の手で作り出せるものになったのである。

 「穴の底であることに変りはないのに、まるで高い塔の上にのぼったような気分」を男は味わう(第31節)。男は内在的位置にありながら超越的視座を手に入れ、近視性を克服しているのだ。男はよろこびとともに溜水装置の研究を始める。水を得るための研究がそのまま生きることにつながり、手段と目的が一致する。もはや疎外論は必要ない。『砂の女』という小説全体の弁証法において、否定の否定は初期状態への復帰ではない。主人公は初期状態の欺瞞を揚棄している。

 本編の末尾、男は溜水装置のある砂の穴の底にとどまる。部落から与えられた縄梯子と、自分で作った溜水装置を秤にかけて、後者を選ぶ自由を男は手にしているのである。男は装置の中の水に手をひたす。「人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない」という一文が第18節にあるが、ラストシーンの男がまさに「魂」で味わう水は、「切れるように冷たかった」(第31節)。

 男は溜水装置によって、「定着」する場所を自分で選ぶ自由を獲得した。また、「溜水装置のことを誰かに話したいという欲望」(第31節)は、他者への通路を開くことになるかも知れない。男はいわば生まれ変わるところであり、赤ん坊のように「泣きじゃくりそうになるのを、かろうじてこらえ」ている。男は女との子どもを作ることに失敗した。男は自然の生命の連鎖に参加して子どもを生むことはできなかった【注7】。まるでそのことのせめてもの代償であるかのように、男自身がここで生まれてきているのである。

 以上、「定着」と「流動」、砂と水、動物との関わり、超越性と内在性といった主題を見渡しつつ、初期状態から否定を経て否定の否定に至る弁証法の過程をたどることで、『砂の女』の内容を確認した【注8】。ここで本稿が言及した事柄は、すべて小説に明らかに書かれていることであり、小説において現に読まれていることである。本節の確認は、今後の議論の出発点にすぎない。


【注】

1 作品内の時間については、本稿の第四節で詳しく検討し、確定する。

2 『砂の女』の主人公が「根深い自己欺瞞」に陥っていることを正しく論じているのは蘆田英治である(「安部公房『砂の女』について」、「論樹」1997年10月)。また廣瀬晋也も、男の「深層の定着願望」と「自己矛盾」を指摘する(「メビウスの輪としての失踪――『砂の女』試論――」、「近代文学論集」1987年11月)。

3 北川透はこの「流動する家」をポジティブなものとしてとらえているが(『文学における変身』笠間書院、1992年)、そのような解釈は小説の初期状態と結末とを混同し、動的な過程を捨象するものであり、誤りである。

4 安部公房・磯田光一「人間・共同体・芸術――安部公房氏に聞く」(「國文学 解釈と教材の研究」1972年9月臨時増刊)における磯田の発言(安部公房全集第23巻386ページ)。ほぼ同様の解釈は、たとえば佐々木基一の「脱出と超克――『砂の女』論――」(「新日本文学」1962年9月)に、「日常の煮つめられた極限」という言葉で示されている。

5 同様のことは、磯貝英夫「砂の女」(「國文学 解釈と教材の研究」1972年9月)、中野和典「流動と反復――安部公房『砂の女』の時間――」(「近代文学論集」2002年11月)などで論じられている。

6 廣瀬晋也はまさに「目的と手段」という観点から、「女にとって、砂掻きそのものが生きることである」と述べている(廣瀬前掲論文)。

7 木村陽子は、女が子宮外妊娠によって死亡したであろうことを指摘している(『安部公房とはだれか』笠間書院、2013年)。安部公房自身がシナリオを担当した映画『砂の女』(勅使河原宏監督、1964年)の該当場面も、この指摘の正しさの傍証となる。

8 本稿の筆者は、修士論文「安部公房論―中期長篇小説を中心に―」(2006年)http://42286268.at.webry.info/200603/article_1.html で『砂の女』の詳しい分析を行っている。また、『砂の女』の内容は「安部公房『砂の女』内容の整理」(2015年)http://42286268.at.webry.info/201502/article_5.html にまとめてある。


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