documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 安部公房「デンドロカカリヤ」における「顔」と「植物病」

<<   作成日時 : 2015/02/06 15:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

安部公房の「デンドロカカリヤ」初出版における「顔」と「植物病」について

安部公房「デンドロカカリヤ」初出版 → 内容の整理は http://42286268.at.webry.info/201502/article_7.html
雑誌「表現」1949年8月に発表
テキスト=安部公房全集 第2巻(カッコ内にページ数と段を示す)

画像


安部公房の短篇小説「デンドロカカリヤ」の初出版には、「顔」と「植物病」をめぐる、難解で奇妙な記述がある。
その記述は、はっきりとした定義をすることなく独特の概念を用いて行われており、管見の限り、その理路を正確に解釈している先行研究はない。
今後の生産的な議論のために、「デンドロカカリヤ」における「顔」と「植物病」の意味を、小説のテキストの中の論理によって明らかにしておこう。

1.「顔」について

「デンドロカカリヤ」初出版において、「顔」は次のようなものだといわれている。

ぼくらの顔はフィルターなんだ。顔の凹凸に合わせて、原存在が意識に固定される。
(234下)


この文章を理解するためには、「原存在」および「意識」という概念が何を指しているのか、そしてそれらが「顔」を媒介としてどのような関係を持っているのかを把握しなければならない。

「デンドロカカリヤ」初出版において「原」という表現は、「原存在」の他に、「原・顔」および「原・植物」という形で出てくる(243上)。
ゲーテから借用された概念である「原・植物」は、「変形の奥底に浮かび上る非存在」と呼ばれる。
これは、現実の世界には個々の具体的な植物が存在しているが、それらの個別化の根底には、具体的には存在していない原形がある、という発想だろう。
そして「原・顔」は、個人の「顔」を剥がした後に残るかも知れない何かとして、とりあえず想定されるものである。(実際にはそのようなことは「不可能」だともいわれるわけだが)
つまり、「原・植物」とは、個別化されて具体的に存在している植物たちを起点に遡及的に想定される、個別化以前の植物そのものという「非存在」であり、
「原・顔」とは、それぞれの個人の「顔」へと分節化される以前の顔そのものとして想定される「非存在」なのである。

「原」という表現についての以上のような理解をもとにすると、「原存在」という概念の持つ意味が分かる。
「原存在」とは、個体へと分節化されたそれぞれの存在者をもとにして遡及的に想定される、個体化以前の存在そのものである。
このような発想は、安部公房が少年期に傾倒したハイデガーの、いわゆる存在論的差異という考え方からヒントを得て作られたものだろう。
存在論的差異とは、個別に存在する「存在者」と、存在者が「存在」するということ自体とを、峻別する考え方である。
・存在者=個別の存在するもの。形を持つ。
・存在=存在するということ自体。形を持たない。
「デンドロカカリヤ」に出てくる「原存在」という概念は、ハイデガーの存在論的差異における「存在」を、個別の「存在者」を産出する不定形な力(「非存在」)として解釈したものだといえる。

このように考えると、「デンドロカカリヤ」の「意識」という概念は、存在論的差異における「存在者」の方の対応物だろうと考えられる。
「意識」と「原存在」は、以下のような関係にあるのではないか。
・「意識」=分節化され個別化された個人の意識。
・「原存在」=個別の「意識」に分節化される以前の、世界に充満している不定形な力。
ちなみに、これらの概念の関係に時間的前後関係を導入しているのは、ハイデガーの文脈からすると厳密さを損ねているといわねばならないが、「デンドロカカリヤ」という小説の読解という意味では大きな瑕疵にはならないだろうと思われる。

さて、冒頭に引用した文章において、「顔」は「フィルター」であるとされ、「顔」の表面に合わせて「原存在」が「意識」に固定されるのだといわれていた。
このことは別の箇所では、「原存在が意識に流れこむフィルター」という記述になっている。
本稿がここまでで明らかにした「意識」と「原存在」の概念規定を踏まえれば、「顔」がどのように「原存在」と「意識」を媒介しているのかも、いまや理解できる。
「顔」は、以下のように「原存在」が「意識」へと分節化する、いわば個体化あるいは個人の産出を媒介しているのである。

@ もともと世界には、個別の存在者を生み出す不定形な力である「原存在」が充満している。
    ↓
A その「原存在」は、「顔」という「フィルター」を通して、それぞれの人間の身体に流れこむ。
    ↓
B 顔の内側に流れこんだ「原存在」は、それぞれの個人の「意識」として、個体の内部に固定される。
    ↓
C 個人の内部に固定された「意識」があり、個人の外部に固定されていない「原存在」がある、という構図ができあがる。

画像


2.「植物病」について

「顔」が「原存在」と「意識」を媒介するメカニズムをもとにすると、「植物病」についても明確な理解が得られる。

ぼくらはみんな、不安の向うに一本の植物をもっている。
(234下)


「植物病」とは、「不安」によって引き起こされる病気である。
たとえば「ぼく」が「植物病」を発症したとすると、「あのぼくとこのぼくとが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、意識が絶えず顔の向側へおっこちてしまう」結果、植物になるという(235上)。
このことを言い換えれば、「不幸な、孤独な意識の中から」、「意識が逆に顔の志向性を辿って原存在に還元され」る、ということになるらしい(235下)。
これは、「原存在」から「意識」へという方向に生気のようなものを流し込む「フィルター」としての「顔」が、「裏返し」になることで逆向きの方向に作用してしまうという意味だろう。
つまり、「原存在」から分節化される形で個人の「意識」が産出されるという個体化の過程(前節の終わりで図式化したもの)が、「顔」という「フィルター」の反転によって逆流し、個人の「意識」が「原存在」へと溶け出してしまうのが「植物病」なのである。

画像


では、なぜ「顔」は反転するのか。
「裏返し」になった「顔」というモチーフは、これも少年時代の安部公房が耽溺した、リルケの『マルテの手記』に見られる。
近代的な都市における生活の中で、「可哀さうな人間が考へごとに沈んでゐるとき」、些細なきっかけで「顔」が「裏がへし」になってしまう、というのがそのエピソードである(1939年の大山定一訳より)。
このことを「デンドロカカリヤ」と比べてみると、
・「可哀さうな人間」という部分が「不幸な、孤独な意識」に、
・「考へごとに沈んでゐる」という部分が「不安」に、
それぞれ対応していることが分かる。
「デンドロカカリヤ」でも、「顔」を「裏返し」にしてしまうのは、人間の「孤独」と「不安」なのだ。
近代的な都市生活において「孤独」を感じている個人が、「不安」の中で物思いに沈むとき、その「孤独」と「不安」から、「顔」が「裏返し」になってしまうのである。

しかし、「孤独」と「不安」から「顔」が「裏返し」になるというのは、なぜなのだろうか。
この疑問を解消するため、「原存在」と「意識」の関係を、比喩を用いて把握し直しておこう。
いま、多細胞生物Aがあり、このAが分裂する形で、Aの外に単細胞生物aを生み出したとする。
このとき、単細胞生物aに意識があれば、
単細胞生物aとしての意識自体が自分という存在であると思うと同時に、
多細胞生物Aのことも、いくらか自分であるように感じるのではなかろうか。
さらに、単細胞生物aが、かつて自分が一体となっていた多細胞生物Aから切り離されてしまっている自分の状況に「孤独」と「不安」を感じるとき、
単細胞生物aは、多細胞生物Aと再び一体化し、自分の個別性を多細胞生物Aの中に解消してしまいたいと望むだろう。
ここで比喩を解除すると、多細胞生物Aは「原存在」に、単細胞生物aは個人の「意識」に対応する。
分節化された個体としての小さな自分(「このぼく」)を、その外側にある母体としての大きな自分(「あのぼく」)へと還元することで、「孤独」と「不安」を解消したい――
そのような欲望により、「顔」という「フィルター」が「裏返し」になって逆方向の志向性を持ち、個人の「意識」を個体の内部から外側の「原存在」に向けて吸い出してしまうのである。

こうして「顔の向側へおっこちて」しまった「意識」は、外部世界に充満する「原存在」の中に溶け込む。
身体の内部には個人の「意識」は残らない。
個人だったものの身体は、中身のない抜け殻になる。
「外界の一切が自分になり、ただ自分でない、しかも今まで自分だった管のような部分が植物になる」のである(243上)。
このような「植物病」は、「精神分裂とアナロジー」の関係にあるものとしてとらえられる(250下)。

3.「植物病」をめぐる闘争

初出版「デンドロカカリヤ」という小説は、語り手の「ぼく」という人物が「植物病」について、「君」という人物に語りかける話という体裁を取っている。
「植物病」にかかっている人たち(まだ完全に植物になっているわけではない)は、みなそれを自分だけの病気だと思い、恥ずかしがって他人に話さず、孤立しているという。
「君」もまた、「植物病」による孤立の「被害者」である。
では「加害者」は誰かというと、「存在せずに、君をとりまき、君の顔から滲みこんでくるあの君自身」だと「ぼく」は述べる。
前節までの議論からすれば、
・「被害者」としての「君」とは、個人の「意識」としての自分であり、
・「加害者」としての「君」とは、「原存在」としての自分である、
ということになるだろう。
しかし、そもそも「原存在」という概念自体が、個人の「意識」をもとに遡及的に想定されたものにすぎず、
また、「原存在」を自分だと思い込むことも、個人の「意識」の投影でしかない。
したがって、「デンドロカカリヤ」初出版における「植物病」は、近代都市に生きる個人の「孤独」と「不安」の産物であり、
とりあえずのところは、「被害者」も「加害者」も当の個人であるといわねばならない。
実際、「デンドロカカリヤ」の主人公であるコモン君の植物化は、本人の「意識」の問題として始まる(236上)。

しかし、語り手の「ぼく」は「植物病」について、「病気というより、一つの世界、とくにぼくらの世紀のね」とも言っている(235上)。
この言葉が意味しているのは、
「植物病」の原因である「孤独」と「不安」を、近代の都市生活によって構造的に生み出される、普遍的な問題としてとらえねばならない、
ということである。
また、「植物への変形を、病気の世界から事実の世界へとつれもどさねばならない」という「ぼく」の言葉(235上)は、
「孤独」と「不安」を個人の病気とみなすのではなく、世の中で同時代的に広く起こっている出来事だとみなで認めるべきだ、
ということを意味している。
「ぼく」は「まだ植物になってはいけない」と言い、植物にならないために連帯しようと「君」に呼びかける。

このような「ぼく」の立場と対立的な位置にあるのが、植物園長の立場である。
「デンドロカカリヤ」初出版の植物園長は、「植物病」にかかっているコモン君を偶然見つけると、コモン君を「政府の保証」つきの植物園の温室に閉じ込め、完全に植物化させようとする。
「孤独」や「不安」を利用して、個人を権力のもとに管理しようとする植物園長の次のような言葉は、フーコーの剔出した生権力の概念を思わせるものである。

幸福だの不幸だのなんて、一体何んの役に立つんです。どうでもいいじゃありませんか。要するに、ますます純粋に、豊富に存続しつづけるということが問題なんでしょう。
(251上)


短編小説「デンドロカカリヤ」は、1952年に単行本『飢えた皮膚』(書肆ユリイカ)に収録される際、大幅に改稿される。
(初刊単行本版の内容の整理は → http://42286268.at.webry.info/201502/article_8.html
(どのように改稿されたのかは → http://42286268.at.webry.info/201502/article_9.html
その初刊単行本版においては、植物園長の役割が大きくなっており、コモン君の植物化のほとんど(1回目の発作以外)が植物園長によって仕組まれたものであるような印象を読者は受ける。
初出版の植物園長は、近代的な都市生活におけるコモン君の「孤独」と「不安」に偶然気づき、そこにつけ込む人物として描かれているのだが、
初刊単行本版の植物園長は、息苦しいまでの必然性を配備してコモン君を追い込んでゆく人物である。
植物園長の役割の拡大にともない、作品内の植物化の意味づけも、初出版から初刊単行本版にかけて変化している。
初出版の「植物病」が、存在論的な「孤独」と「不安」にもとづくものであるのに対し、
初刊単行本版の植物化は、社会的な疎外にもとづくものになっているのである。
しかし、そのあたりの事情について述べるためには、稿を改めるべきであろう。

→ 「安部公房「デンドロカカリヤ」の改稿について」 http://42286268.at.webry.info/201502/article_10.html

※ 「『砂の女』と小説の地平――安部公房の小説について――」では、「デンドロカカリヤ」と『砂の女』とを比較して論じています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

安部公房「デンドロカカリヤ」における「顔」と「植物病」 documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる