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zoom RSS 唐十郎『透明人間』について

<<   作成日時 : 2015/05/16 15:15   >>

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唐組 第55回公演 『透明人間』
東京=新宿・花園神社
5月9日(土)10日(日)/15日(金)16日(土)17日(日) 6月6日(土)7日(日)/12日(金)13日(土)14日(日)
東京=雑司ヶ谷・鬼子母神
5月23日(土)24日(日)/29日(金)30日(土)31日(日)
長野=城山公園
6月19日(金)20日(土)21日(日)

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 唐十郎が1990年に書いた戯曲『透明人間』は名作と評価されており、唐の劇団唐組においても他の企画においても、『水中花』や『調教師』といった題に改められつつ繰り返し上演されてきた。私は1990年の初演は観られなかったが、他の公演はすべて観ている。その中でも、唐組の2015年春公演は、戯曲に書かれていることを伝える手つきの正確さと明晰さ、引き締まった美的な完成度において、最も優れた達成であるといえる。

 唐十郎は現在療養中であり、今回の公演でも舞台に立ってはいない。演出は久保井研と唐の共同クレジットとなっているが、唐が稽古の現場をいつも取り仕切るということはできなかったであろう。そのような状況下で、『透明人間』という戯曲の可能性がこれまで以上に実を結んだのは、皮肉なことだともいえようが、唐が久保井をはじめとする劇団員たちと積み重ねてきたことの成果であるのは間違いない。

 今回の唐組の上演によって見えてきたのは、『透明人間』という作品の重要性である。この作品は、劇作家としての唐十郎の資質を知るうえで重要であるのみならず、私たち自身にとって重要なものなのだ。私は唐組による『透明人間』の素晴らしい上演を、まったく文句なく楽しんだ。楽しんだ後は、考えねばならない。『透明人間』はいわゆる「考えさせられる」劇ではなく、「考えることを可能にしてくれる」劇なのである。

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 まずは戯曲『透明人間』に「何が書かれているのか」を、大まかに確認しよう。本稿では緻密な分析をするつもりはないので、中心的な登場人物である辻という青年、およびその父親の来歴を追うことで、筋の紹介の代わりとする。(いわゆる「ネタバレ」になってしまうので、唐組による上演をまだ観ていない方には、観劇後に読まれることをおすすめしたい)

 辻の父親は、戦時中は中国の福建省におり、陸軍歩兵学校の軍用犬の調教師をしていた。彼は犬との間に過剰な共感の回路をもっており、四つ足で走り、犬を性の対象にすらしていたという。彼が特に愛していたのはモモと名づけられた犬だった。以下、モモという名をもつものが多数登場するので、この犬のモモを「モモ1(犬)」とする。

 あるとき、訓練用の盆地に大雨が降って沼ができ、その沼へ行った時次郎という犬が狂犬病をもって戻ってきた。狂犬病は、それに罹った犬が水を恐れる特徴的な症状から恐水症とも呼ばれ、人間にも感染する。時次郎が他の軍用犬たちを噛んだことで、犬舎に恐水症が蔓延した。歩兵学校は、犬たちを撲殺することを決定する。

 辻の父親は、最愛のモモ1(犬)だけは撲殺の寸前で逃がす。しかしその数日後、合田という一兵卒が「とてもモモに似た犬」を見つけてしまう。その犬がモモであることを認めれば撲殺となってしまうので、辻の父親は「モモじゃない」と否認する。そこで歩兵学校の医務官は、犬を沼へ連れて行き、沼にダリアの花を沈めて「これを、とってこさせろ」と辻の父親に命令する。水の中の花を取って来られるならば、恐水症ではないと証明されるから、そのときにはその犬がモモでないということにして見逃そう、というわけである。

 その犬がモモであることを確信しつつも、その犬を助けたい辻の父親は、驚くべき行動に出る。犬(おそらくモモ1)の足を摑んで水に潜り、ダリアの花を取ってくわえさせたのである。そして彼は犬を逃がす。

 そのような行動が許されたとは思えない。このことによって、歩兵学校での彼の立場は危うくなったようである。以後の彼は気力を失い、福建省の村をさまよった。そして現地の一人の女性と一緒に暮らすようになる。彼はその女性を犬のモモ1と重ね、沼の中のダリアの花を思わせる水中花を家に飾り、そればかりか、女性に犬と同じモモという名をつけた。この女性を以下、「モモ2(中国人)」とする。

 歩兵学校は、そんな夢想にふける辻の父親を許さない。医務官は辻の父親への見せしめとして、モモ2(中国人)を独特なリンチにかける。医務官はモモ2(中国人)に、以下のように命令した。
――お前と一緒に暮らす男は、あまりに犬に執着しすぎた結果、犬と同じ恐水症に罹って狂ってしまっている。同棲しているお前も、恐水症に感染しているはずである。そうでないと証明したければ、沼の底に立ってみよ。
 つまり医務官は、犬と人間を混同する辻の父親のロジックをわざと悪質になぞり、モモ2(中国人)をモモ1(犬)と同じ目に遭わせたのである。大雨の降る夜に沼の底に立たされたモモ2(中国人)は、溺死してしまう。

 この事件によって、辻の父親は決定的に軍国主義の日本から弾き出されたといえる。その日本も戦争に敗れ、辻の父親は日本に引き揚げるが、おそらくその後立ち直ることはできず、社会不適合者としての人生を歩んだようである。そんな中で生まれた息子に、辻の父親は中国での体験を繰り返し語って聞かせた。彼は死に際して、戦時中に着ていた古い革のジャンパーとともに、モモという名の女に出会ったら親切にしてやれという言葉を息子に遺す。

 息子の辻は、父親の遺言に縛られて生きることになる。彼はさまざまな街をめぐり、風俗店で働かされている女性たちの中からモモの名をもつ娘を見つけては、その娘をこっそり逃がしてやるということを繰り返すのである。父親から形を変えて受け継がれた妄執による、荒唐無稽なこの行為は、期せずして性をめぐる経済を攪乱しており、風俗店に関わるやくざ者たちの間で辻は噂になっている。

 さて、戦時中に福建省の陸軍兵学校にいた合田の住む街へ、辻がやって来た。合田とは、「とてもモモに似た犬」を見つけてしまったあの一兵卒である。「時と場所が分からない」とうそぶく辻は、戦時中に中国にいた父親と自分を重ね、合田に対しては恨みすら抱えているのだが、それを隠して合田に近づく。

 この街で辻がしようとしていることは、かなり複雑なことである。まず辻はいつもどおりに行動し、中国人のモモという女性を風俗店から逃がす。このモモを以下、「モモ3(中国人)」とするが、ただ逃がしただけでは、モモ3(中国人)には行き場所がない。そこで辻が目をつけたのが、合田の住み着いている焼き鳥屋で働く、これもモモという名の別の女性である。このモモを以下、「モモ4(日本人)」とする。辻はモモ4(日本人)を焼き鳥屋から追い出して、モモ3(中国人)を後釜に据えるのである。

※【2015.06.07.追記】
戯曲を読み返したところ、このモモ4は本当は日本人ではないことが分かった。モモ4は中国人であり、そのことはエピローグで明かされていたのである。いままで気づかなかったことを恥ずかしく思い、ここに訂正する。
【追記終わり】
【2015.06.22.追記】モモ4については、本稿の末尾にさらに追記した。


 さらに辻は、モモ3(中国人)と自分とで、モモ2(中国人)と辻の父親との物語を再演し、改変しようとする。どういうことか。
――第一に、辻は父親の革のジャンパーを着て、モモ3(中国人)に父親の記憶を語り聞かせる。
――第二に、「モモ2(中国人)がリンチの結果殺された」という物語の結末を、「モモ2(中国人)がリンチを受けたとき、辻の父親が医務官を殺し、モモ2(中国人)を助けた」という結末に変える。
――第三に、改変されたその物語を、モモ3(中国人)が自分の身に起こったこととして辻に語る。
 以上のような操作により、モモ3(中国人)はモモ2(中国人)になり、辻は辻の父親になり、過去における辻の父親とモモ2(中国人)の悲惨な物語が、現在において救われることになる、というわけである。

※【2015.05.19.追記】
 戯曲を読み直してみて、上の「第一に」から「第三に」までの部分は、少し違うようだと分かった。以下、訂正する。
 辻はおそらく、「物語の実際の結末」までは、モモ3(中国人)に語り聞かせられなかった。なぜなら辻は、「物語の実際の結末」を知らないからで、知らない理由は2つある。
――一つは、当たり前のことだが、辻が辻の父親ではないということ。
――もう一つは、「物語の実際の結末」があまりに悲惨すぎて、辻の父親も辻に話せなかったということ。(これは私の推測である)
 辻は、自分が知らない「物語の本当の結末」を、モモ3(中国人)に語らせようとする。
 モモ3(中国人)は、「おそらくモモ2(中国人)はリンチの結果殺されただろう」という推測を、自分のこととして語る。
 その話をマゾヒスティックな態度で聞いたうえで、辻は物語の結末を、「モモ2(中国人)がリンチを受けたとき、辻の父親が医務官を殺し、モモ2(中国人)を助けた」という結末に変えようとする。
 ――辻が試みていたのは、以上のようなことだと考えられる。
【追記終わり】

 私が思うに、この奇妙な「上演」は、この街で初めて試みられたことである。合田と再会したこと、さらにこの街で出会ったモモが偶然中国人であったことから、辻はこのような荒唐無稽な過去の救済策を考えついたのだろう。(他の解釈もありうるとは思う)

 しかし、この街の上田というやくざ者が、事前に辻の情報を手に入れており、辻を罠にかける。上田は保健所員の田口という青年を騙して、モモ4(日本人)(本当は中国人)を見張らせていたのである。辻とモモ3(中国人)が焼き鳥屋の二階にいるところへ上田は踏み込む。さまざまな偶然が重なり、辻は殺される。

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 以下、詳しく論じることはできないが、いくつかの論点を粗くメモする。

 この作品のタイトルである「透明人間」とは、現実の中に場を占めることができず、社会から排除されながらも、人間を荒唐無稽な行動へと駆り立てるもののことである。それはまずは、統合失調症を患う白川という人物の幻覚として提示される。統合失調症は「分裂症」と旧名で呼ばれるが、白川の教え子であるマサヤという少年は、「分裂症」と「透明人間」に憧れている。唐十郎は主人公の一人ともいえるマサヤの視点をとおして、「分裂症」をポジティブにとらえているのであり、これはドゥルーズ&ガタリの影響かも知れない。

 『透明人間』の主題の一つは「感染」である。常識を超えた行動へと人を衝き動かす妄想が、人から人へ「感染」するか否か。この主題は、マサヤの「他人の透明人間は、僕の透明人間にならないの?」という台詞に、最も直接的にあらわれている。「透明人間」はいたるところで「感染」の網を繰り広げている。辻の父親から辻へ、革のジャンパーを介して戦時中の悲惨な記憶が相続されるのも、一種の「感染」ととらえられるし、辻が田口やマサヤに強烈な印象を遺すのも「感染」である。戦争の記憶は、日本の戦後社会からすれば厄介なものだが、私たちはこれを排除してはならない。「透明人間」がときに辻の身に起こったような悲惨な出来事を引き起こしかねないとしても、私たちは「感受性」を高め、「感染」によって記憶の風化に抵抗せねばならない。

 1970年代の唐十郎は、当時の配偶者であった李礼仙に、差別を反転させた強度を身にまとうアジアの女性を演じさせた。これは差別を作品に利用する危うい戦略ではあったが、他者に対する唐の感受性のあらわれとして、ポジティブに評価することも可能だと私は考えている。唐と李は88年に離婚し、唐の作品からは李というヒロインが失われる。その後の作品である『透明人間』が、李を失ってもアジアの女性をヒロインの一人(本当はモモ4も中国人なので、二人とも)としていることは興味深い。モモ3(中国人)は、李の演じたような強烈なヒロインではないが、だからこそ「李礼仙自身の存在感に頼らずに日本とアジアの問題を抉り出す」試みとして評価できるのではないか。

 そこで問題になるのが、モモ2(中国人)およびモモ3(中国人)の主体性の問題である。辻の父親も辻も、モモたちを大事に思っていたのだろうが、しかし、彼らの執着は明らかに、モモたちの主体性を奪っている。陸軍歩兵学校や戦後社会から圧迫された辻父子は、それに抵抗するための妄想(「透明人間」)を育てることにより、皮肉にもモモたちを圧迫してしまっているのだ。

 今回の劇団唐組の上演は、美しく、細部まで丁寧で、素晴らしいものであった。しかし、辻父子がモモたちの主体性を奪っているというこの問題については、戯曲自体に対していったん批判的になってでも、もっと切り込むこともできたのではないかと思う。そして、そのような批評的な作業によってこそ、『透明人間』という戯曲はさらなる可能性を見せてくるのではないか。何度も繰り返される「もう、モモと呼ばないで」という台詞が、追い詰められた叫びとしてだけでなく、辻父子に対する痛烈な批判としても響いたとき、『透明人間』の上演はさらに感動的なものになるはずだと私は思う。

 残念ながら、十分に考えを練って書くことはできなかった。今後、できれば機会を見つけて論として組み立てたい。

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【2015.06.22.追記】

 私が「モモ4」と番号を振った登場人物について追記する。

 モモ4は劇中、台詞らしい台詞を発しない。観客は、そしておそらく他の登場人物たちも、彼女は吃音なのだろうと推定する。だが、モモ4は吃音を装っているのである。何のためにか。日本語をうまくしゃべれないことを隠すためだ。モモ4は、日本に不法滞在している中国人であり、身元を隠して労働するために日本人のふりをしているのである。

 二幕の中盤、モモ3がモモ4に中国語の「風はどこから」の歌を引き継がせる場面がある。そこでのモモ4は、最初こそ「その中国語をたどたどしく受け」るふりをするものの、すぐに中国語で歌えるようになる。モモ3は「あんた、前から知ってたみたい」と言う。そう、まさにモモ4はその歌を、中国語で「前から知って」いたのだ。日本に来る前、中国で聴いていたからである。

 その場面でモモ4が何を考えていたかは、エピローグで田口が読むモモ4からの手紙に綴られている。「あの人と歌をすり替え、『前から知ってたみたい』と言われた時、そろそろ期限が切れたと、あたし、この日を予想しました」。「この日」とは、日本での出来事を、中国から回想する日のことである。不法滞在のモモ4は、中国人であることを知られてしまうと、中国へ送り返される。「期限が切れ」るとはそういうことなのだ。実際、エピローグの時点でモモは「海の向こう」にいる。中国語の歌をめぐる事件(『透明人間』の劇の本編)の結果、二幕の終わりに辻が殺されて警察沙汰になったとき、モモ4の身元も警察に知られ、強制送還となったのだろう。

 モモ4はエピローグの手紙のはじめに、「わたしはこんなにスラスラ話せます」と書いている。だが手紙の終わりには、「こうしてスラスラと話していると書いてしまいましたが、これも、あなたに伝わるように、友達に書き写してもらっているのです」とある。ここでの唐十郎は、非常に鮮やかな手つきで、話し言葉と書き言葉、そして言語の違いの問題を扱っている。モモ4は「友達」に、中国語で「スラスラと話している」。「友達」は、日本語の書ける中国人、もしくは中国語の分かる日本人であり、モモ4の話したことを日本語に訳して(「あなた〔=田口〕に伝わるように」)「書き写し」ているのである。

 モモ4が中国人であると考えなければ、エピローグはまったく解釈できない。逆にいうと、モモ4が中国人であることは、エピローグで初めて明かされる。エピローグにおいて、『透明人間』という劇の中で最大のどんでん返しが起こっているのである。

 私はこれまで、いくつものバージョンの『透明人間』の上演を観てきたが、モモ4が中国人であるということは、今回の唐組の上演を何度か観劇し、戯曲を読み直してやっと分かった。「モモ4とは何者か」ということは、明らかに作品の最大の核のひとつなので、私としてはもっと早い時点で考え、正しく解釈しておくべきであった。

 それにしても、この点は上演を観るだけでは、少々分かりにくいのではないか。私が鈍かったのは認めるが、エピローグの手紙が叙情性たっぷりに読まれると、私のような観客はどんでん返しに気づけず、わけも分からないままに雰囲気に流されてしまう(そうしないようにかなり気をつけてはいるのだが)。

 今回の唐組の上演は、これまでになくクリアに構築されていたので、以前のバージョンを観たときには分からなかったことが明確に理解できた。そして、他のポイントが(おそらく)ほとんどすべて理解できたからこそ、モモ4の身元をめぐるこのどんでん返しにも、私は気づけたのだろう。そして気づいてみると、どうしても惜しいと思えてしまうのである。エピローグに戯曲レベルで、もう少し分かりやすく書かれていれば。あるいは、難しいとは思うが、演出と演技でもう少し分かりやすくなっていれば。エピローグの場面を観ながらリアルタイムで、モモ4が中国人であるということに気づけていれば(気づいた観客も少なからずいたとは思うけれども)、『透明人間』の幕切れはより衝撃的で、より感動的なものになっていただろう。

【追記終わり】

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