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zoom RSS 村上春樹「ドライブ・マイ・カー」について

<<   作成日時 : 2015/08/16 20:20   >>

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 村上春樹の短編集『女のいない男たち』の劈頭を飾る「ドライブ・マイ・カー」は、周到な計算のもとに書かれた佳作である。
 60代も半ばになる村上はこの作品で、自身がデビュー当時からもちつづけてきた主題に対し、現在の彼なりのやり方で正面から向きあっているといえる。
 「ドライブ・マイ・カー」を通して私たちは、村上春樹とはどのような小説家であったのか、改めて知ることができる。

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 短編小説「ドライブ・マイ・カー」は、一行空きによって11の節に分けられている。

 第1節から第5節まで(単行本の15ページから34ページまで)が前半である。
 主人公の家福は俳優であり、飲酒運転による事故と視力の問題から、自分で自動車を運転することができなくなった。
 彼はみさきという娘ほどの年齢の女性ドライバーを紹介され、専属の運転手として雇う。
 みさきの運転する自動車の助手席に座るようになってから、家福は、10年近く前に亡くなった妻のことを頻繁に思い出すようになる。
 妻は美しい女優であり、家福とよきパートナー同士であったが、家福以外の男たちと定期的に性的関係をもっていた。
 そのことに気づき苦しみながらも、妻が死ぬまでの間、家福は何も知らないかのように演技をしつづけた。

 第6節から第11節まで(単行本の34ページから63ページまで)が後半である。
 専属の運転手になってから2ヶ月ほど経ったある日、みさきが珍しく運転しながら家福に話しかけてくる。
 みさきは、家福がどうして俳優になったのか、どうして友人をつくらないのかと質問する。
 「演技」および「友だち」という話題から家福は、妻の死後に妻の不倫相手と「友だちらしきもの」になったいきさつを語る。
 家福は亡き妻との関係を知らないふりをして相手に近づくことで、なぜ妻がその男と関係をもったのかを「理解」し、また、その男に何らかのダメージを与えるつもりであった。
 しかし結局のところ家福は、高槻という相手の男に対して報復めいたことを行わなかったし、妻が高槻と関係をもった理由も「理解」できなかった。
 この話を聞いたみさきは家福に言う。
 ――妻は高槻に特別に心惹かれたわけではなかったのではないか。不倫は妻にとって「病のようなもの」だったのではないか。そのことを「頭で考えて」理解しようとしてもできないのではないか。
 「今でも棘のように心に刺さっている」ことをみさきに聞いてもらった家福は、ささやかな心の平穏を味わう。

 以上のようなあらすじから、題名となっている「ドライブ・マイ・カー」との文言をとらえるとすると、「マイ」を「家福の」と考えて、家福の自動車をみさきが運転する、というふうに解釈することができよう。
 しかし「ドライブ・マイ・カー」という題名には、より複雑な含意がある。
 この題名がビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』(1965年)の1曲目「ドライヴ・マイ・カー」からとられていることはいうまでもないが、ビートルズの楽曲において「drive my car」というフレーズは、女性が視点人物の男性に対して呼びかける「Baby, you can drive my car.(あなた、私の自動車を運転させてあげてもいいわよ)」という文の一部なのだ。

 村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」の視点人物は、男性の家福である。家福は現在は自動車を運転できないものの、以前はむしろ、彼のサーブ900コンバーティブルを運転できるのは彼自身だけだった。
 では、家福に「Baby, you can drive my car.」と呼びかけた女性はいるか。
 いる。
 亡くなった家福の妻である。
 妻と自動車と家福の関係は、次のように描かれている。

その車を新車で購入したとき、妻はまだ存命だった。ボディーカラーの黄色は彼女が選んだものだ。最初の数年間はよく二人でドライブをした。妻は運転をしなかったので、ハンドルを握るのはいつも家福の役だった。(中略)妻の死後、何人かの女性と交際したが、彼女たちを助手席に座らせる機会はなぜか一度もなかった。(20ページ)


 つまり「ドライブ・マイ・カー」という題名は、助手席の家福と運転するみさきの関係を指すと同時に、助手席の妻と運転する家福の関係を示唆している。
 そしてこの2つの関係の重ね合わせが、小説を成り立たせるのである。

 家福が運転手としてみさきを雇うとき、読者はふつう、家福が後部座席に座ることを想定するのではないか。
 しかし家福は助手席に乗る。
 カセットテープを操作するためである。
 ここに作者の巧妙な仕掛けがある。
 かつて妻が座っていた、妻しか座らなかった助手席に座るからこそ、家福は亡くなった妻を思い出すことになるのだ。

   2

 女性であるみさきと家福が、ともに家福のサーブに乗ること、特に運転席と助手席に隣りあって乗ることは、本来ありえないはずのことだといえる。
 サーブは家福にとって最もプライベートな空間であり、まるで亡き妻に対して操をたてるかのように、家福は助手席への他の女性の侵入を拒んできた(先の引用では「なぜか」といわれているが、これは明らかに一種の否認である)。
 また家福は、女性の運転を好まない。
 女性が運転している自動車の助手席に座ると、その女性から「緊張の気配」を感じ取ってしまうというのだ。

 おそらく家福にとって、自動車の運転席と助手席のセットは、性的な対関係の意識を強くもたらすものなのだろう。
 だから家福は、妻以外の女性に強く心を惹かれることのないよう、自分でも意識せぬまま女性の運転に対して負の感情を発生させたし、女性をサーブの助手席に招き入れずにいたのである。

 しかし家福は、女性であるみさきを運転手として受け入れる。
 なぜか。
 みさきが「ぶっきらぼうで無口でかわいげがない」女性だと事前に聞いており、実際そのとおりだったからだ。
 つまり家福は、みさきが性的な対象になりそうもない女性だと判断したからこそ、彼女に自分のサーブへ入ってくることを許可したのである(「Baby, you can drive my car.」)。

 みさきは家福にとって、性的な対関係の意識を呼び起こさない存在だといえる。
 それだけではない。
 家福と亡き妻との間には、昔子どもが生まれたことがある。
 3日間だけ生きてすぐに死んでしまったその女の子は、もし生きていたとすればみさきと同じ歳になるという。
 さらにみさきは、「家福さんとうちの父は同じ年の生まれでした」と家福に告げる(58ページ)。
 みさきは、いわば家福の子どもの代理となって、家福の思考を亡き妻の思い出へと結びつける媒介者なのである。

 いや、妻の「思い出」というのは適切ではない。
 「ドライブ・マイ・カー」という小説の中では、家福が妻と暮らした日々や妻の死は、際立って具体的に描かれるわけでも、主要な位置を占めるわけでもないからだ。
 むしろ、妻の死後の高槻とのつきあいの方が、興味深く書かれているといえよう。
 サーブの助手席、つまり亡くなった妻の位置に、おそらく初めて身を置いた家福は、しきりに妻のことを考えるようになるが、それは思い出にひたる行為ではなく、妻の心の中を「理解」できないままでいる無力感の反芻なのである。

 そもそも、この小説において主人公でありかつ視点人物でもある家福は、ある問題を抱えている。
 「視野にブラインドスポットがある」ことである(25ページ)。
 この問題のために家福は運転手を雇わねばならなかったのだ。
 この「ブラインドスポット」は、後に浮上する「盲点」というモチーフのための、周到な伏線である(この作品では、こういったモチーフの段階的提示が非常に巧みに仕組まれている)。
 家福がみさきに語る回想場面の中で、家福と高槻が話題にする「盲点」とは、身も蓋もなくいってしまうと、男性にはけっして「理解」できない女性の中の何か、ということになるだろう。
 10年近く前に死んだ妻のことをいまだに「理解」できていないという「盲点」の問題は、時間の経過とともに意識されなくなってきていたとはいえ、家福の内面に癒しがたい傷を残していた。

 「ブラインドスポット」の問題の解決のために雇われたみさきは、家福の「盲点」の問題にも、ある種の関与を行うことになる。
 「ドライブ・マイ・カー」とは一言でいうなら、視野に「ブラインドスポット」を抱えた家福が、自分の目の「盲点」についてみさきに話しコメントをもらうことで、ささやかな癒しを得る物語である。
 みさきは話を聞くことをつうじて、家福の苦しみと無力感を受け止め、「頭で考えても仕方がありません」と言う。
 これは、「盲点」そのものを受け入れるしかないという諦念であり、他人のことは最終的に「理解」できなくても仕方がないという認識である。
 みさきは家福の苦しみと無力感自体を肯定したのだ。

 「ドライブ・マイ・カー」の内容的な主題はこれに尽きる。
 この作品を収めた短編集の「まえがき」で村上春樹は、「ドライブ・マイ・カー」を書いているときから「女のいない男たち」というモチーフが頭の中にあったと述べている(7ページ)。
 すると「女のいない男たち」とは、他者を「理解」することの不可能性が、男女の性的な対関係の水準に浮かびあがるというような主題なのだろうか。
 しかし、ここにみたような主題には既視感がある。

   3

 メモ。

 「ドライブ・マイ・カー」を書くにあたって、村上春樹は自身の『ノルウェイの森』を強く意識しなかったはずがない(ビートルズの『ラバー・ソウル』において、前者が1曲目で後者が2曲目。どちらも「コメディ・ナンバー」。)

 『ノルウェイの森』は、「女性が主人公を自分の部屋=心の中に招き入れようとしてくれたが、主人公は死の力に圧迫されている彼女の心をどうすることもできず、彼女は死んだ」という話(ビートルズの楽曲とも絶妙に対応)。
 そこには「理解」できないという他者に対する無力感が、ほとんど倫理的な感覚としてあった。
 その感覚は、初期村上春樹の魅力であった。

 「ドライブ・マイ・カー」は、そこに「演技」という冷めたモチーフを入れている。
 家福と妻はサーブという空間を共有するが、互いに「演技」しあう。
 よりシビアな現実感があり、作者の年齢にふさわしいともいえるが、初期の倫理的な感触は失われている。
 そのことをどう評価すべきか。

 また、『ノルウェイの森』では「女性にとってどうしようもない外部の力」は「死の力」(タナトス)であったが、これは「ドライブ・マイ・カー」にも「性の力」(エロス)として出てくる(さらにいえば、妻に死をもたらしたのも同じ力かもしれない)。
 村上春樹はよく「外部の不可解な力」を描こうとするが、そのことをどうとらえるべきか。

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