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zoom RSS 唐十郎論――肉体の設定(3)

<<   作成日時 : 2015/11/07 20:15   >>

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唐十郎論――肉体の設定

1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
・3 唐十郎の演劇の体制
4 フィクションの政治性
5 現代演劇の政治と美学

    3  唐十郎の演劇の体制

 ◆ 「特権的肉体」と「肉体」を混同してはならない

 「特権的肉体論」は以下の十編のエッセイから構成されている。「いま劇的とはなにか」「幻の観客へ」「石川淳へ」「文化的スキャンダリストへ」「役者の抬頭」「夢判断の手品」「灰かぐらの由来」「魔女考」「蛇考」「終止符の巷談」
 この中で最も頻繁に引用されるのは「灰かぐらの由来」の、「まず、戯曲があるのではなく、演出プランがあるのでもなく、バリッとそろった役者体があるべきなのです」という一文である。
 一見分かりやすそうなこの言明はいつも「特権的肉体」という字面と混同され、唐十郎は俳優の身体を重視することで戯曲の言葉から俳優を解放した、などということがまことしやかに語られてきた。だが前節で確認したとおり、「特権的肉体」とは俳優の「肉体」のことではない。

 この二つの概念を厳しく分けて考えねばならないということは、1969年の『少女仮面』の主題でもある。
 元宝塚のスターであるこの作品のヒロインは、自分の「肉体」が観客に奪われたと訴える。だがそれは本当は、自分の演じた役すなわち「特権的肉体」と同一化できなかっただけの話なのだ。そして本稿第1節でみたように、役との同一化という「完璧な瞬間」がもし実現するとしたら、それは完全に即自的な状態であるはずだが、サルトルによれば人間はそもそも即自的ではありえない存在である。
 『少女仮面』のヒロインは「肉体」と「特権的肉体」を混同したせいで、求めるべくもない不可能なことを求めて苦しまねばならなかったのだ。そして特権的肉体論を〈裏側から〉主題化したこの戯曲を、自らとともに「アングラ演劇」を代表した鈴木忠志の演出のために提供したことは、好敵手に釘をさすような悪意にも似た唐の気遣いだといえる。

 ◆ 「特権的肉体」を生み出す実験

 さて、先に引いた「灰かぐらの由来」の一節は、劇作家と演出家と俳優との複雑な協働体制を示唆するものでしかない。以下、この協働のあり方について考察しよう。

 「役者の抬頭」の中に、「先ず、役者とは、あるひとつの劇、あるいはあらゆる芸術の 下部構造 というべきだ」との一文がある(強調引用者)。
 芸術の「下部構造」という用語は、表現の素材となる物質のことを意味している。それは表現のために用いられるが、物質としての不透明さから独特の抵抗感を発揮する。唐は俳優の「肉体」という素材の、不透明な物質性を重視したのだ。その態度はサルトルの『文学とは何か』における詩的言語論、あるいは福田恆存の『藝術とはなにか』の芸術論あたりから導かれたものだろう。

 唐十郎の演劇とは、俳優の「肉体」を質料として「特権的肉体」を生むための、錬金術ならぬ「錬肉術」(『少女仮面』より)つまり実験なのだ。このこと自体が主題化された作品が、これも1969年の『少女都市』(戯曲発表は70年)である。
 「フランケ醜態博士」なる人物に人体実験を行われるこの作品のヒロインは、劇中で作られ劇中で壊れるガラスの人工身体をもち、「特権的肉体」の一つの理念型となっている。「特権的肉体」という概念は、劇の登場人物一般を指すものであると同時に、特異な人物を生み出す実験という唐の演劇観が凝縮されたものでもあるのだ。

 実験としての演劇において唐の戯曲は、とりあえずごく当たり前に考えると、「特権的肉体」すなわち登場人物の、言動のプログラムであるといえよう。それが俳優の「肉体」という素材に注入され、いわば人工的な授精が行われる。これまで存在したことのない新しい人間を生み出すこの実験は、人工的な子宮であるテントという装置によって可能になる。

 1967年以来、唐は自分の劇を主にテントで上演してきた。上演中のテントは基本的に密閉されており、外部の現実と内部の虚構との区別が際立つ。実験は閉ざされた空間で行われねばならないのだ(ただし状況劇場中期の公演においては、上演中にもテントを閉じることはできなかったという)。
 そして劇の結末で舞台背面の幕が落とされ、テントの外の風景が見える。そのとき、実験によって作られた人工生命である「特権的肉体」は消滅せねばならなくなるが、その一方で観客は、実験場が開け放たれてしまったことにより現実に向かって虚構が流出するという、一種の生物学的危害(バイオハザード)を目撃する。

 分娩にも似たこの実験の現場責任者であることが、唐十郎の劇における演出家の役割だといえる。唐は実験の準備のために劇作家であらねばならず、実験の遂行のために演出家であらねばならなかった。このような要請から、唐は劇作と演出を兼ねたのである。
 では、唐以外の俳優と、劇作家兼演出家の唐との協働はどうなっているのだろうか。特に問題となるのは、俳優が自らの「肉体」から「特権的肉体」を生むことと、劇作家が「特権的肉体」の言動のプログラムを作成することが、いかに関わるかという点だろう。

 ◆ 「肉体」に〈背景〉が投げ与えられる

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 ここで特権的肉体論の光学的な機構に立ち戻ることにする(図3上)。
 この機構において「肉体」から「特権的肉体」を生み出す飛躍は、「大過去」の設定によって可能になっている。表現される「現在」のスクリーン上にフィクションの登場人物を浮かびあがらせるにあたって、現実における表現者と他のものとの関係が、登場人物の「大過去」すなわち〈背景〉として活用されるのである。
 その「大過去」とはそもそも、主体が他のものの眼差しを意識した場面のことであり、主体の意識が現実社会における他者との関係をとらえることだといえる。そのように「現実界を世界として把握するその把握の、種々様々な様態」を、サルトルは「状況(シチュアシオン)」と呼ぶ(『想像力の問題』)。
 特権的肉体論とは、「特権的肉体」を作るために、「肉体」の置かれる社会的な状況(シチュアシオン)を〈背景〉として設定する方法論なのだ。

 本稿はこれまで特権的肉体論を影絵としてとらえてきたが、映画のリア・プロジェクションの仕組みとの類似も興味深い。
 リア・プロジェクションとは、スタジオで半透明のスクリーンに裏側から風景の映像を投射し、その〈背景〉の前で俳優が演技するのを撮影する技法である(図3下)。撮影するキャメラは観客の視点の相当物であり、背景と演技は映写時に、一枚の平面へと圧縮されて観客の視線にさらされる。
 〈登場人物に背景を与える〉という限りでリア・プロジェクションを隠喩として採用すると、特権的肉体論の機構は以下のように記述されうるだろう。観客の前で俳優が演技をする。その後方から、「大過去」の状況(シチュアシオン)が虚構の人物像の背景として投げ与えられる。演技と登場人物の背景は「現在」のスクリーン上に重ね合わされ、観客に鑑賞される「特権的肉体」となる。

 ◆ 状況(シチュアシオン)の一致

 しかし、ここで一つの重大な不整合が見えてくる。
 投射される状況(シチュアシオン)とは、表現者の 「肉体」の置かれた社会的状況であると同時に、「特権的肉体」という虚構の人物像の背景である。「いま劇的とはなにか」において特権的肉体論は、まず中原中也の詩の表現に即して説明されていた。詩人が自分の実生活をもとに詩を表現する場合、「肉体」の置かれた社会的状況と「特権的肉体」の背景は問題なく一致する。
 では演劇の場合はどうか。「肉体」の持ち主は俳優であるから、その社会的状況とは俳優の実生活である。しかし「特権的肉体」すなわちフィクションの登場人物の背景とは、劇作家の作る設定のことだろう。「特権的肉体」に独特さを与えてくれるはずの状況(シチュアシオン)の規定が、演じる者と設定する者との間でこのように引き裂かれてしまう。特権的肉体論は詩から演劇へと適用領域を変換したとき、不整合を生むのである。

 とはいえ唐十郎は、もともと詩の理論を構築していてそれを演劇へと拡張したわけではない。特権的肉体論の構想は最初から演劇的なものであったはずだ。したがってこの不整合を、単なる不注意による誤りだとみなすことはできない。唐の演劇観の中には、この不整合を当然のように解消してしまう発想があるに違いない。

 ここで問題となっている不整合が、状況(シチュアシオン)にまつわるものであることに注意しよう。これを解消するには、俳優の状況(シチュアシオン)と劇作家の状況(シチュアシオン)を一致させるしかあるまい。そして状況(シチュアシオン)とはサルトルの定義では、現実を把握する様態のことであった。とすると、以下のようにしか考えられないだろう。唐は、俳優たちの把握する現実のありようと、劇作家としての自分のそれとの間の、一致を確信していたのではないか。その確信があるからこそ、劇作家の設定する背景と俳優の置かれている社会的状況との違いなど、そもそも考えずにすんだのではないか。

 座談会「新しい演劇をつくる」での「肉体をぼくは分身としてとらえる」という唐の発言が、この推定に傍証を与えてくれる。〈劇作家〉としての唐は、俳優一人ひとりの「肉体」を自分の「分身」だと考えているのであり、その「分身」とはまず間違いなく、同一の状況(シチュアシオン)を共有する者どうしということだろう。
 また、唐の劇団の「状況劇場」という劇団名も、このような意味でしかありえない。状況劇場とは、本人たちの自覚はともかく、状況(シチュアシオン)を共有する劇作家と俳優たちの集団という意味だったのだ。そして状況(シチュアシオン)の共有の確信は、この劇団の強固で濃密な集団性によって担保されたものである。劇団状況劇場はときにほとんど共同生活を送りながら、公演のたびにテントを設営し、およそ劣悪な条件で旅回りをすることになるのだが、そのようなことを可能にしたのは、唐というカリスマを中心にした特異な集団性であった。

 以上のような前提により、「特権的肉体」の背景としての状況(シチュアシオン)を劇作家が設定することが正当化され、特権的肉体論の不整合が解消される。俳優と劇作家は、フィクションの登場人物を作るという共通の目的のために、前者は演技という形で、後者は背景の投射という形で、分業し協働することができる。唐十郎が毎年二度の公演のためにほぼ毎回新作戯曲を書き、新作ではない場合でも俳優に「当て書き」するように旧作を書き換えてきた理由はここにある。

 唐十郎の演劇体制の役割分担と協働性がこうして解明された。それにしても、特権的肉体論のこのような役割分担は、何のためのものなのだろうか。私の考えでは、演劇のフィクションにかけられていた限定を解除するためである。その点を次節で論じる。


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