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zoom RSS 唐十郎論――肉体の設定(4)

<<   作成日時 : 2015/11/07 20:29   >>

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唐十郎論――肉体の設定

1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
3 唐十郎の演劇の体制
・4 フィクションの政治性
5 現代演劇の政治と美学

    4  フィクションの政治性

 ◆ 社会主義リアリズムへの批判

 「いま劇的とはなにか」における唐十郎の批判対象は二つある。一つは中原中也であった。いま一つは社会主義リアリズム論である。

 唐の中原批判は、「中原と影法師のずぶぬれの密着」との一言に集約される。これは「肉体」と「特権的肉体」とを「密着」させたという意味であり、小林秀雄の指摘した実生活と芸術との「密着」に対応する。
 その「密着」の内実は中原の「芸術論覚え書」を参照すると分かりやすいのだが、唐は中原を、自らの実生活を芸術に従属させた者とみなしたのだ。中原の「肉体」は虚構の「特権的肉体」の方へにじり寄り、社会的現実から遠ざかって、詩というスクリーンにほとんど接触している。「肉体」と「特権的肉体」が「密着」していては、両者の相互作用によって生活と表現の領域をともに拡張することなどできないし、表現の全過程がスクリーンだけで完結してしまい、社会的状況という背景をもちえない。これに対し特権的肉体論は、劇作家に「特権的肉体」の社会的な背景の設定と投射を振り当てることで、芸術がスクリーン上に自己完結することを避けるのである。

 唐にとっての中原は、その可能性を抽出するために召還すべき過去でもあったが、もう一方の社会主義リアリズムは1960年代当時の新劇に残存する綱領であり、目の前の敵として戦わねばならない相手であった。
 社会主義リアリズムは現実を芸術的に形象化するにあたって、正確性歴史的具体性を原理とする。その演劇の体制は以下のようにモデル化できるだろう。
 まず劇作家が、社会の中の注目すべき一部分を比率正しく再現するように戯曲を書く。その戯曲が演劇の表現するべき全体となり、演出家を介して俳優に与えられる。各俳優は演出家の解釈に依拠しつつ再び全体を解釈し、自分の役を部分として位置づけ、舞台上で比率正しく再現する。
 社会主義リアリズムの演劇体制における役割分担は、いってみれば社会的状況をコピーして舞台上にペーストする一つの過程の中の段階的な分業であり、しかも戯曲の提供する全体性が俳優の演技を支配している。そして作品と現実との対応の科学的な正しさが、社会主義の発展のために役立てられねばならない。

 このような社会主義リアリズムを、唐は「芸術と政治の二元論」と呼ぶ。この言葉はむろん、近代日本において繰り返され1960年代にも再燃した「政治と文学」をめぐる論争を反映したものである。
 「政治と文学」の問題は、じつは「いま劇的とはなにか」のテキスト全体の否定的な主題になっている。中原中也にしても、〈「政治と文学」ではなく〉「芸術と実生活」が問題になる詩人だったからこそ、題材として選ばれたのだ。

 「政治と文学」論争はそのときどきの具体的な主題によって焦点を変えていったが、問題の最も基本的な構図は、芸術は政治的な目的のためになされるべきか、それとも芸術それ自体を目的として自立するべきかという点である。つまり現実の政治と虚構の芸術との間に、後者が前者に従属するような単一方向のベクトルが存在するか否かということだ。
 唐が「特権的肉体」および「遠征と襲来」という概念に、現実と虚構の間の相互作用を含意させたのは(本稿第2節参照)、この「政治と文学」の枠組み自体に対する優位を確保するためだろう。現実のはたらきが虚構を作り、虚構のはたらきが現実を変動させる、両方向のベクトルをもつ演劇理論によって、一方向のベクトルしか問題にしない「政治と文学」の議論全体を葬り、社会主義リアリズムに失効宣告を突きつけようというわけだ。

 ◆ マルクス主義の切断

 では、なぜ唐十郎は社会主義リアリズムを批判せねばならなかったのか。1960年代の唐の伝記的事実を確認しよう。
 唐は60年安保の政治運動に参加した後の62年、新劇の中でも政治色の強い劇団青年芸術劇場に入団した。同じ年に菅孝行「死せる「芸術」=「新劇」に寄す」を発表しているが、新劇を代表する劇団俳優座が政治性と娯楽性を曖昧に妥協させていることを指弾したこの文章は、新劇に「政治と文学」の問題の解決を迫るものであった。当時の新劇の抱える最大の難問は「政治と文学」だったのであり、そしておそらくそのことへの自覚や反省を不足させたまま、演劇人たちは政治を語っていたのだろう。また唐は青年芸術劇場在籍時、戯曲を解釈する稽古で意見を否定あるいは無視され、他のメンバーたちに「パー」扱いされていたという。唐が63年に青年芸術劇場を退団した原因は、新劇が「政治と文学」の問題を解決できずにいたことと、新劇の集団が個人の創造性を圧迫するもののように感じられたことにあったのではないか。

 唐はその後「シチュエーションの会」を経て、劇団状況劇場を旗揚げする。どれほど自覚的であったかはさておき、状況劇場における唐の課題は次の二つだったはずだ。一つには、党派的な既成の政治性を俳優に鵜呑みにさせるのではなく、それぞれの俳優にとって切実な社会的状況だけを担わせることであり、もう一つは、その状況(シチュアシオン)を共有する新しい集団性の確立である。

 唐による「肉体」概念の設定は、このことと関係している。
 よく指摘されることだが、唐は俳優を「河原乞食」という前近代的な形象と結びつけた(「幻の観客へ」)。この戦略は花田清輝の「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえる」という有名なテーゼ(「柳田国男について」)から発想されたものだろう。
 また絓秀実は「肉体」の概念を、吉本隆明から「アングラ演劇」にもたらされた「民衆的下層」への着目の一つの形とみなしている(『革命的な、あまりに革命的な』)。文学に党派的な政治性を求める旧左翼の社会主義リアリズム論を攻撃し、1963年にはまさに「「政治と文学」なんてものはない」という一文を発表した吉本は、散文の文体まで含めて確かに唐の重要な参照先だと思われる。唐が「いま劇的とはなにか」で芸術の政治利用を批判するために援用したのも、マルクス主義の「前衛」を標榜する旧左翼を批判した吉本の言葉であった。
 すると次のように考えられる。唐の「肉体」概念とは、俳優の身体から近代性を削ぎ落としたものであり、その近代性とは、旧左翼を呪縛していた「政治と文学」の問題のことだったのではないか。近代日本の芸術に持ち込まれたマルクス主義を〈知らない〉俳優の身体として、「肉体」という概念は設定されたのではないか。

 近代以前の「河原乞食」を標榜するとき、俳優の「肉体」はマルクス主義から切断され、「政治と文学」の問題に拘束されずにすむ。このような「肉体」の演出は、芸能の本来性とでもいったものを想定してそこへ読み手を誘導するものであり、あまり真に受けないよう警戒せねばなるまいが、ともかく特権的肉体論はこの「肉体」概念を打ち出すことで、新劇において自明化されていた既成の政治性を〈いったん〉ゼロに戻し、「政治と文学」の隘路から離脱した。そのうえで一人ひとりの俳優が、自分の置かれた現実の社会的状況を主体的にとらえ、そこでの他者との関係からフィクションの登場人物を生み、虚構を通して自分と社会との関係を変化させる。劇作家はそのことを可能にするために、俳優と共有している状況(シチュアシオン)にもとづいてフィクションの背景を設定し、登場人物に投げ与える。

 ◆ フィクションの限定解除

 唐十郎の劇において舞台上の登場人物たちは、唐の登場以前の新劇にはおよそ期待できなかったであろうような、じつに荒唐無稽で現実離れした言動を示す。だが彼らをそのような言動へと駆り立てる背景の設定は、政治や経済を含む現実の社会状況へのシビアな認識にもとづくものだ。
 虚構性と現実性とのこの混交は、「特権的肉体」とその背景との分離および接合、すなわち、俳優の演技が目指す人物像と劇作家が設定する社会的関係との重ね合わせによってもたらされる。社会状況への参照は背景が担当してくれるため、俳優は舞台上での演技にあたっては、現実との対応の正確性を厳守しなくてもよい。このようにして特権的肉体論は、俳優の演技をリアリズムから解放し、演劇のフィクションにとって可能なことの領域を押し広げたのである。

 スラヴォイ・ジジェクの分類(「サイバー・スペース、あるいは存在の耐えられない閉塞」)を援用すると、社会主義リアリズムが現実をモデルとするイミテーションであるのに対して、特権的肉体論は「存在していない何か」を生み出すシミュレーションだといえよう。
 またこの差異は、フィリップ・ラクー=ラバルトの用いた「制限的なミメーシス」と「普遍的なミメーシス」という対概念(『近代人の模倣』)へと敷衍することができる。前者は自然からすでに与えられたものの模倣(ミメーシス)であり、後者は自然のもつ根源的産出力の模倣(ミメーシス)である。おそらく演劇は、現実を何らかの形で模倣せざるをえない。模倣と手を切ろうとするならば、まったく無意味なものか純粋に形式的なものになるしかなかろう。しかし、模倣であることを受け入れたうえで、比率正しい再現という制限を外し、新しいものを産出することはできるはずだ。

 さらに唐十郎に代わって問おう。社会主義リアリズムの演劇が作品の全体によって現実を再現できたとしても、そのことがなぜ社会の変革につながるのか。答えは必ずしも自明ではあるまい。
 一方特権的肉体論では、全体性という契機は理論に組み込まれていないし、演劇の目的は個々の俳優の「肉体」から「特権的肉体」という新しい人間を生むことに置かれる。さらに唐は、演劇の「黄金の効果」とは、観客に「その時代の生の極限状況に自分を 投企 してみよう」と決断させることだと主張する(「幻の観客へ」、強調引用者)。「投企」(サルトルの術語)とはここでは、自分の「肉体」から演技によって「特権的肉体」を作る俳優の飛躍を、現実の領域で観客が模倣することにほかなるまい。そこではいわゆる〈前衛〉としての社会主義リアリズムの政治的課題(大衆へのはたらきかけ)が脱臼させられ、観客の「心のかどわかし」へとずらされている。特権的肉体論は、社会主義リアリズムから全体および再現という規定を解除しながらも現実の社会的状況を参照し、マルクス主義の政治性を外しながらも現実変革を志向する演劇理論なのである。

 ◆ 〈もの〉の三つの位相

 「特権的肉体論」、特に「いま劇的とはなにか」は、中原中也と社会主義リアリズムという両極を同時に乗り越えようとする試みであり、演劇の政治性を同時代の社会に向けて開いた。
 その社会的な射程は具体的には、「いま劇的とはなにか」のテキストにおける〈もの〉のありようから読み取れる。表現者の「肉体」と関係をもち、「特権的肉体」を浮かびあがらせる光を放つ〈もの〉について、テキストには三つの型が提示されていた(本稿第2節参照)。

 第一の型を代表するのは、中原中也を見つめ中原によって見つめられもした、「悲しみ」を喚起する「モノ」である。第二の型は街の中を行き交う、社会的に構造化された「」である。そして第三の型は、「いま劇的とはなにか」の最終段落で例示された「ボロボロのカラン」のような、焼け跡に転がる「もの」である。焼け跡の「もの」は戦争という社会的な外傷の痕跡であり、戦後社会が覆えずにいる裂け目の場所を占めている。

 唐十郎の発想には、情念的な「モノ」と社会的な「物」と痕跡的な「もの」という、〈もの〉の三つの位相がある。情念的な「モノ」は個人の内面と関わる。社会的な「物」は状況(シチュアシオン)を構成する要素である。ここでの状況(シチュアシオン)とはおおまかにいって戦後の日本社会のことだが、戦後社会の秩序には穴があいており、「物」によっては被覆できなかった外傷、すなわち戦争が顔を覗かせている。この穴を仮に埋めているのが、戦争の痕跡としての「もの」である。

 (ちなみに、精神分析の理論家ジャック・ラカンの概念と照合すると、情念的な「モノ」は「想像界」に、社会的な「物」は「象徴界」に、痕跡的な「もの」は「現実界」に関わる。唐の演劇観とラカン理論との関係を生産的に論じることは可能であり、たとえば1964年のセミネール『精神分析の四基本概念』でラカンが示した図と特権的肉体論の図式は、ともにサルトルの眼差し論を参照しているため類似したものになっている〔図4〕。しかしその検討は、必ずしもいまやらねばならないことではないので、別の機会に回す)

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 唐十郎の代表作の一つ、1973年の『ベンガルの虎』を例にとろう。
 この作品はハンコという〈もの〉を中心に展開する。商品であり給料の受け取りのために必要とされもするそれは、社会的な関係の中にある「物」だといえる。またこの劇のヒロインが、離ればなれになった夫から送られてくる「バッタンバンの象牙」で作られるはずのハンコを求めて情念を燃やすとき、ハンコには「モノ」としての性格も与えられる。さらにそのハンコの材料は、戦時中に外地で死んだ日本兵の遺骨であることが明らかになる。ハンコは戦争の痕跡としての「もの」の側面を見せ、そこから戦争の時間が劇の中に流れ込む。

 特権的肉体論は潜在的に、情念から社会を経て戦争という社会の外傷に至るまでの射程をもっていたのだ。特に70年代の唐の劇のフィクションは、情念と社会的関係を同時に扱えるだけでなく、戦後社会の外傷や抹消されつつある戦争の痕跡を観客の目の前に浮上させる、日本の近代への政治的な問いでもある。そして「特権的肉体論」以降の唐の戯曲が異様に複雑なのは、このような政治性を孕む社会的関係を、劇の背景として設定しているからにほかならない。唐はその設定により、それ自体としては一定の意義もあろうベケット的な不毛さからあえて脱し、具体的な政治や歴史を直接的に扱える劇作家となった。

 しかし、この政治性や歴史性は、同時代の社会によってどのように受容されたのか。これが本稿の最後の課題となる。


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