documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 唐十郎論――肉体の設定(5)

<<   作成日時 : 2015/11/07 21:59   >>

トラックバック 0 / コメント 0

唐十郎論――肉体の設定

1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
3 唐十郎の演劇の体制
4 フィクションの政治性
・5 現代演劇の政治と美学

    5  現代演劇の政治と美学

 ◆ 「反逆の美学」の消費

 1970年代初頭、劇団状況劇場の人気が広がっていった時期に、扇田昭彦は援護射撃のように多くの文章を書き、同時代の社会が唐十郎を受容するための解釈の枠組みを設定した。近代演劇から現代演劇への転回に関して、唐が象徴的な人物とみなされたことに、扇田は誰よりも貢献している。

 このときの扇田による初期設定には、見逃せない点が二つある。第一点はすでにみたように、「特権的肉体」の概念を〈俳優の〉「肉体」と同一視したことであり、第二点は、唐には政治性が〈ない〉と、繰り返し強調したことである。

 その帰趨はどうなるか。たとえば扇田の初期設定を近年きまじめに再演したのが、『唐十郎論』樋口良澄である。樋口は「特権的肉体論」を「六十年代後半から七十年代前半にかけての〈肉体の叛乱〉の時代の象徴」として読み、次のように述べる。

六十年代当時の社会では、「特権」がいたるところにはびこっていた。役者は、世俗的な「特権」から最も排除されていた存在の一つだった。だから、役者の 「特権的肉体」には、弱者による逆襲のイメージ もついてくるはずだ。欠如が反転すれば過剰になり、状況劇場初期の役者の異形性も加わって、〈異形なるものの襲来〉というイメージができあがったのだろう。(強調引用者)


 ここでは「特権的肉体」が〈俳優の〉「肉体」と等置されるとともに、具体的な政治性を脱色された反逆の美学とでもいうべきものが揚言されている。扇田以降常識化した解釈を律儀になぞり直す樋口の論は、いわゆる68年的なものへの無害なノスタルジーとも親和性のある、分かりやすいものである。

 しかしこれは間違っている。フィクションの登場人物の独特なあり方を指す「特権的肉体」は、俳優の「肉体」とはまったく異なる概念であるからだ。
 また前節で検証したように、唐十郎の「特権的肉体論」には政治的なものにつながりうる社会的な射程があり、「異形なるものの襲来」などという美学的な水準には収まらない具体的な政治性を、1970年代の唐の作品にもたらすことになった。たとえば72年の『二都物語』『鐵假面』では、アジアに対する日本の植民地政策や経済侵略が主題化されているが、これを「弱者による逆襲のイメージ」などに回収してよいのだろうか。

 フレドリック・ジェイムソンは、階級や政党といったマルクス主義的発想が1960年代に世界的規模で後退し、まったく新しい政治空間が形成されたという(「六〇年代を時代分析する」)。「個人的なものは政治的なものである」というスローガンが象徴するこの新しい政治性は、68年の「特権的肉体論」によってマルクス主義的な「政治と文学」の問題を〈いったん〉ゼロに還元した唐がその後、一から具体的に見つけていった政治性に対応している。

 特に状況劇場のヒロインであり唐の当時の配偶者であった李礼仙(現在は李麗仙)は在日コリアンの三世で(75年に日本に帰化)、李を通して唐は差別の問題を意識するようになった。73年の『海の牙』や77年の『蛇姫様』は、日本国内の朝鮮民族に対する差別を鋭く告発する劇である。

 唐の政治性は旧左翼の教条的マルクス主義からは切断されているが、〈だからこそ〉70年代の唐の劇は、きわめて政治的なものだったのだ。そして唐のそのような資質を、扇田昭彦の慧眼が見抜けなかったはずがない。

 扇田は『二都物語』を「内容的には、この作品は右翼的でも左翼的でもなく、ただロマン的なだけである」と評し(「紅テント′注ン」)、また唐について「この端倪すべからざる才能が真正の『右翼』に転化することを最も恐れる」と述べている(「墜落願望者の夢」)。

 扇田は政治性を測るときに「右翼」か「左翼」かという評価軸しかもっておらず、唐が「右翼」に傾くことへの恐れから、唐の政治性そのものを否認したのだ。すると扇田の駆使できる語彙は限られてくる。「民衆」と「反権力」である(「息はずませる「民衆」の実体」、「「昭和三十五年夏」の刻印」など)。こうして扇田による唐十郎像ができあがる。権力に対する民衆の反逆のロマンを、異形の役者の「肉体」で表現した唐十郎。

 唐の作品の政治性は、具体性において議論の対象となる手前で、反逆の美学へと回収される。この美学は、いわゆる68年の新左翼がノスタルジックな形で回顧されるときの通俗的イメージに、あまりに似通いすぎてはいまいか。川本雄三は、「アングラ演劇」が新左翼の思想と共鳴するものであったために、新左翼の運動が沈静化するにつれて「アングラ演劇」も衰え、単なるファッションとなったと述べるが(「小劇場運動の意味」)、唐の劇も新左翼の〈美学的側面の〉象徴として消費されたのである。

 ◆ 美学的な意匠

 このことに関しては、唐自身の責任も指摘せざるをえない。したたかな興行師である唐は、「特権的肉体論」のテキストや自分の劇に、誤解を誘発するようなさまざまな要素を盛り込んで猥雑さと難解さを演出したし、誤解を自分の人気のために利用したはずだ。また、1970年代の唐の劇作術は基本的に、都市の底辺で生きる主人公たちが権力的な悪役と闘争するという構図を採用した。安定したこのストーリーの型が毎回反復される中で、個々の劇においてとりあげられる政治的主題はその具体性を摩耗し、作品を構成する美学的な意匠として均質化してしまいかねない。

 別の角度から考えてみよう。「特権的肉体」とは、実験としての劇をとおして作られる人物形象のことだった。「腰巻お仙」シリーズの「腰巻お仙」や『少女都市』のヒロイン(本稿第3節参照)がその理念型であり(「ジョン・シルバー」シリーズの「ジョン・シルバー」は、直接的に俳優によって演じられるとはいえないため該当しない)、それを70年代において受け継ぐのが、差別的に有徴化されたことを反転させて劇的なエネルギーを身に纏うヒロインたちである。
 おそらく唐は「特権的肉体」の概念を典型的には女性ジェンダーとしてイメージしたうえで、舞台上に社会的マイノリティーを登場させるために活用している。しかしこの方法は本質的に、差別を美学のために利用するという危うい性格をもつ。たとえば74年の『夜叉綺想』では、差別への関心が部落問題に向けられるが、皮肉にもそこでの人物表象は、それ自体が差別的なものになってしまっている。唐自身も遅くとも70年代後半には、この危険を自覚せざるをえなかったようである(『蛇姫様』には「そうやって姫、姫ってエコヒイキにするのも、差別なんだぞお」との台詞がある)。

 ◆ 政治と美学

 ここにあるのは政治と美学をめぐる難題にほかならない。新劇という近代演劇を覆っていた社会主義リアリズムは、政治のために芸術を利用する理論であった。政治に役立つか否かで芸術の価値が決定されるとしたら、政治的に正しくさえあれば作品の価値は保証されるということになってしまう。唐は「特権的肉体論」でこの美学の政治利用を切断した。そしてその後、自分たちにとって切実な政治性を自力で発見しながら、危うい手つきで劇を作っていった。だがその劇を受容する側には、政治性を美学に回収する消費の枠組みが設定され、それがいまに至るまで日本の現代演劇の土壌であり続けている。

 まず、日本の現代演劇の多くは政治性を欠落させている。それもよかろうが、はたしていまの社会は何の問題もない素晴らしいものなのか。また、たとえいわゆる〈社会問題〉をいかにも過激に扱ってみせても、出来合いの〈問題〉の紋切型をなぞるだけならばそれは〈問題〉に淫しているだけであり、現状肯定以外の何ものでもない。唐の影響を強く受けた野田秀樹の近年の作品のように、それなりに意義のある政治的メッセージを明確に打ち出す劇もある。だが、毎回重要な問題をめぐって感動的なストーリーが展開され、〈劇場内で〉すっかり満足させられてしまうことに、私たちは満足してよいのだろうか。それこそ政治の美学利用ではないか。いっそ演劇など見限って、舞台上の幻にすぎない時代遅れのドラマに一喜一憂する者たちを憐れみながら、ストーリーもないパフォーマンスに足を運ぶのが賢いというのか。しかし、そのような安直な解決策を信じられるほど私は楽天的ではない。

 ◆ 他者の開示

 唐十郎の受容と現代演劇をめぐり、考えねばならないことがもう一つある。
 「特権的肉体」の概念が誤解され、俳優の「肉体」を介して〈日本の〉「民衆」と結びつけられたとき、唐のフィクションはナショナリズムに囲い込まれた。絓秀実は「アングラ演劇」における「民衆」や「肉体」の概念について、「イマジナリーな『日本』をこえ出るものではなかった」と断じている(『革命的な、あまりに革命的な』)。また菅孝行は、「植民地住民、少数民族、女性、障害者」などの「〈他者〉を開示できなかったこと」が1960年代の演劇の最大の弱点だったと述べる(「六〇年代演劇の歴史的位置と現在」)。絓や菅の指摘する暗黙のナルシシズムとでもいうべきものは、今日の現代演劇にも蔓延している。

 むろんここで、李礼仙がいるではないか、と考えるべきだろう。しかしここが非常に厄介なのだ。たとえばヒロインが劇中で日本人から朝鮮人への変身を遂げる『海の牙』は、戯曲を読む限りでは、変身後のヒロインが朝鮮人としてのアイデンティティーを主張することの必然性がつかめないのだが、ヒロインを李が演じた姿を想像すると(私には想像しかできない)、作品内の論理を超えた説得力があっただろうと思えてしまうのである。
 おそらく唐は他者の開示を試みるにあたり、現実と虚構の双方の水準において、李の存在に強く依存していた。だからこそ、唐のテキスト自体が他者の開示という点でどれほど成功していたのかは、李以外の俳優が演じることによって検証するしかないのだ。

 ◆ 演劇は新しく作られねばならない

 「特権的肉体」とは、李礼仙をはじめとする劇団状況劇場の伝説的な俳優たちの、取り替えのきかない「肉体」のことではない。劇という実験によってつねに新しく作られるべき、フィクションの登場人物のことである。その概念の可能性は、まさにいま試されているのだ。唐十郎のテキストは死んでいる。それが「現在形」として甦ることはありうるか。甦るためには、唐と状況(シチュアシオン)を共有しない者によって発見され、試されるしかない。

 いまさらいうまでもなかろうが、私は唐の劇に魅了されてきた人間の一人である。唐が書き、演出し、出演する舞台の魅惑は、私にとっては取り替えのきかないものであった。しかし、その取り替えのきかなさにしがみついていては見えないものがある。このようなことは述べたくないがそれでも述べよう。このまま唐に「密着」していては、いつか唐の「肉体」が姿を消したとき、特殊な「肉体」をもった伝説的な演劇作家として、ノスタルジーとともに唐十郎を語ることしかできなくなる。しかし唐のテキストには、いまだ清算されていない私たちの負債が刻み込まれており、それはいま私たちが知っている唐を超えて開かれるべきものなのだ。「特権的肉体は肉体とよばれるものを突き破って、動き出さねばならぬ」(「いま劇的とはなにか」)、それと同じように、唐十郎のテキストは〈唐十郎と呼ばれてきたもの〉から自由になってゆかねばならない。「特権的肉体」を生むために、さまざまな者によって唐のテキストの上演が試みられねばならない。その限界に対する批判も、必要に応じて具体的になされねばならない。

 唐十郎を甦らせるということは、「アングラ演劇」の復権などではまったくない。いま必要なのは、唐がマルクス主義を切断したうえで自分にとって切実な政治性を見つめていったように、「アングラ演劇」を切断しつつ唐のテキストに新しい生を与えることだ。また、日本の現代演劇が今後、1960年代後半のいわゆる〈祝祭感〉を取り戻すことなどありえない。そんなばかげたことを夢見るのではなく、より困難だが価値のあることを求めるべきだ。美学の政治利用を斥け、政治性の欠落も政治の美学利用も回避しながら、ストーリーを作りドラマを構築すること。ほとんど不可能にも思えるフィクションの危険な賭けを、一回ごとに切り抜ける実験にこそ、演劇の創造性が宿ると私は信じている。


(テキスト・参考文献)

唐十郎『腰巻お仙』(現代思潮社)、『唐十郎全作品集』(冬樹社、1979 - 80)
唐十郎鈴木忠志寺山修司別役実「新しい演劇をつくる」(「世界」1978・1)
菅孝行『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』(書肆深夜叢書、1967)
小林秀雄「中原中也の思ひ出」(「文芸」1949・8)
絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』(作品社、2003)
扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波新書、1995)、『唐十郎の劇世界』(右文書院、2007)
中原中也『中原中也全集』第3巻(角川書店、1967)、『中原中也全詩集』(角川文庫、2007)
花田清輝『近代の超克』(未来社、1959)
樋口良澄『唐十郎論』(未知谷、2012)
福田恆存『藝術とはなにか』(要書房、1950)
吉本隆明『擬制の終焉』(現代思潮社、1962)、『模写と鏡』(春秋社、1964)
岡室美奈子梅山いつき『六〇年代演劇再考』(水声社、2012)
諏訪春雄菅井幸雄『講座日本の演劇8 現代の演劇U』(勉誠社、1997)
フレドリック・ジェイムソン『のちに生まれる者へ』(鈴木聡・篠崎実・後藤和彦訳、紀伊國屋書店、1993)
ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(ジャック・アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、岩波書店、2000)
フィリップ・ラクー=ラバルト『近代人の模倣』(大西雅一郎訳、みすず書房、2003)
ジャン=ポール・サルトル『文学とは何か』(加藤周一・白井健三郎訳、人文書院、1952)、『想像力の問題』(平井啓之訳、人文書院、1955)、『嘔吐』(白井浩司訳、中央公論社、1964)、『存在と無』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫、2007 - 08)
スラヴォイ・ジジェク「サイバー・スペース、あるいは存在の耐えられない閉塞」(鈴木英明訳、「批評空間」第二期第15 - 16号、1997 - 98)
『全ソ作家大會報告』(ナウカ社、1934)


1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
3 唐十郎の演劇の体制
4 フィクションの政治性
・5 現代演劇の政治と美学

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

唐十郎論――肉体の設定(5) documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる