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zoom RSS 無意識の光(メーテルリンク『ペレアスとメリザンド』について)

<<   作成日時 : 2016/05/27 18:57   >>

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無意識の光 ―― メーテルリンク『ペレアスとメリザンド』について

  ◆ メリザンドとは何者なのか

 舞台は海と森に囲まれた暗い城アルモンドの周辺。あるとき、アルケル王の孫ゴローが森で迷い、泉のそばで泣いている女メリザンドと出会う。ゴローは他国でメリザンドと結婚し、半年以上経ってから帰国する。ドイツ・ロマン派の好んだモチーフ「水の精」を思わせるメリザンドは、ゴローの弟ペレアスを魅了し、三角関係が展開される。結果、ペレアスはゴローに殺され、メリザンドはゴローの子を産んで死ぬ。

 いちおうのところこのように要約されうるであろうモーリス・メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』は、しかしながら、どのような物語であったのか。この問いに明確に答えることはきわめて困難である。

 たとえばこれは、リヒャルト・ワーグナーが楽劇に仕立てた『トリスタンとイゾルデ』のような、情熱的な愛と死のドラマなのだろうか。そういえないことは明らかだ。ペレアスはともかくメリザンドは、愛のドラマの主体となりうる条件を決定的に欠いている。メリザンドはあまりに謎めいているため、読者あるいは観客は、この人物を愛のドラマの主体として認識することができない。

 メリザンドの言動を意識の水準で分析して彼女の目的を割り出そうとしても、その試みは成功しない。メリザンドは、主人公としての主体性をもたない人物なのだ。だが彼女には主体性がない代わりに、行動原理とでも呼ぶべきものが与えられている。

 メリザンドの第一の行動原理は、彼女と向き合う人間の欲望を反射することである。ゴローやペレアスはメリザンドを見るとき、自分でも気づいていなかった自分の欲望を、メリザンドという鏡面に映して見ている。ゴローはおそらく、祖父の定めた政略結婚を受け入れて暗いアルモンドの城を継承することから逃れたいと望んでいた。またペレアスは、きわめてマッチョなゴローとは違う形で自己実現したいという欲望をもっていた。一種の鏡であるメリザンドは、ゴローに対してはゴローの欲望を反射し、ペレアスに対してはペレアスの欲望を反射するので、結果として一貫した主体性をもつことがない。

 メリザンドの第二の行動原理は、真実を言わないことである。メリザンドはゴローに対してだけでなく、ペレアスに対しても嘘をつく。メリザンドの死の間際、「本当のことが入用だ」と彼女に迫るゴローは、ついに「本当のこと」を知ることができない。そして読者あるいは観客も、メリザンドの言動からいかなる真実も与えられはしないのだ。

 真実はどこにあるのか。真実とは、水の底で光る宝である。『ペレアスとメリザンド』では、溜まった水の底に、必ず何か光るものが配置される。その光は、欲望とともに水鏡を覗き込む者に視覚を与えるものであり、そしてメリザンドの真実なのだ。森の中の泉の底の冠、盲目の泉の底の指輪、城の地下の水溜りの底に光るもの、それらはジャック・ラカンの精神分析理論でいうところの対象a、「欲望の原因」である。

 メリザンドという人物は、水鏡にほかならない。欲望をもってその水面を覗いた人間は、自らの欲望の反射を見るだけであり、けっして真実そのものを手に入れることはできない。このテーマのもとに光の主題と水の主題を交錯させたのが、戯曲『ペレアスとメリザンド』なのである。

  ◆ 光という象徴

 『ペレアスとメリザンド』が水の物語であることはよく指摘される。しかし、この作品はまた光の物語でもある。そもそも一幕一場が、光を呼び込み水を撒くところから始まっている。また、海から昇り海へ沈む太陽が、劇中で幾度も言及される。太陽の光は海のほうからやってくる。これはアルチュール・ランボーの詩「永遠」における、太陽と溶け合った海を想起させる。『ペレアスとメリザンド』とは、光と水の戯れの物語なのである。

 そして、この作品のそこここにちりばめられた水の底にゆらめく光は、陽光を反射しているのではなく、それ自体が光源として機能する。『ペレアスとメリザンド』の光は、太陽にすら集約されない。それは光そのもののイデアから備給されているのではなかろうか。

 光とはおそらく、最高の象徴である。ランボーも、「永遠」を変形しながら引用した「言葉の錬金術」の最高潮で、光そのものになった自分を語っていたではないか。象徴とは、現実よりも高次の何かに現実的な形象を与えたものであり、言葉とイメージがゆるく結びついたものであり、ふたつ以上の意味をもち指示内容を確定できない隠喩のことであるが、現実に在るものの中で最も抽象度の高い光は、その最高の形態であろう。

 そして光という象徴は登場人物たちに、「見ること」を可能ならしめる。逆にいえば、人間は光なしに見ることはできない。光のないところでは、誰もが「盲目」にならざるをえないのだ。光と明るさを執拗に調整する『ペレアスとメリザンド』の物語は、見る主体の受動性をこそ暴き立てるのである。

  ◆ 精神分析的な、あまりに精神分析的な

 ハンス・H・ホーフシュテッターは、サンボリズム芸術と精神分析はともに一九世紀前半のロマン主義を源泉としており、本質的な関連性をもつと指摘している(『象徴主義と世紀末芸術』)。たしかに、象徴主義の芸術運動とほぼ同時代に生まれた精神分析の理論は、しばしば象徴主義演劇の代表的作品と呼ばれる『ペレアスとメリザンド』を理解するための、ひとつの視角を与えてくれる。

 『ペレアスとメリザンド』の舞台は、ジークムント・フロイトの第一局所論によって整理できる。すなわち、城は「意識」であり、森は「前意識」であり、水の中は「無意識」である。

 またこの作品の登場人物たちは、同じくフロイトの第二局所論の中に、「自我」たるゴローとペレアスを基軸として配置することができる。「超自我」に近いところに、祖父アルケルと母ジュヌヴィエーヴ。とくに、ペレアスを城につなぎ止め旅立たせまいとする老王アルケルは、もはや役に立たなくなりつつある超自我の代理である。また「エス」に向けては、子どものイニョルド、下層民たち、女中たち、そしてメリザンド。

 『ペレアスとメリザンド』には、飢饉の中にある下層民たちの姿が、見るに耐えない異物として現れる。それらは中世的な世界観の中の登場人物というよりも、たとえばシャルル・ボードレールの作品に描かれたような、近代的な下層民を参照したものなのではなかろうか。さらにいうと、ボードレール以降に自然主義がことさらとりあげることになった民衆的下層の形象が、エスに通じる象徴として奪い返されているのではないか。

 女中たちはよりエスに近い。彼女たちはアルケルやゴローにではなく、エスに仕えている。メリザンドは、エスの領域から遣わされた使者である。そして、エスにもし中心というものがあるとすれば、そこにはほとんど非人称の「彼」がいる。メリザンドに冠を与えた「あの方」、幼いイニョルドが夢の中で出会った「あの人」が。それはキリスト教的な意識によって抑圧された、非一神教的な何者かであろう。

 『ペレアスとメリザンド』とは、ゴローとペレアスというふたりの自我が、意識と無意識の間で迷う物語であるともいえる。逆説的なことだが、深いところで光とつながっているのは無意識のほうであり、それに対して意識の世界は暗い。エスに通じる力をもったメリザンドは、ゴローとペレアスを無意識という水の中へと誘う。結果、ペレアスは無意識に呑まれて死ぬ。ゴローは意識の領域へ戻るが、そこはそれ自体としては暗く閉ざされた「盲目」の世界でしかない。かくして『ペレアスとメリザンド』が浮き彫りにするのは、自我の、意識の、主体の無力なのである。

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