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zoom RSS 田中美知太郎『ソクラテス』要約

<<   作成日時 : 2017/03/19 00:35   >>

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田中美知太郎『ソクラテス』(岩波新書、1957年)

【年代】


前6世紀初頭 アテナイでソロン(前639頃〜前559頃)の改革
前6世紀〜前5世紀 イオニア学派
前508 クレイステネス(前6世紀後半〜前5世紀後半)の改革
★アテナイ民主制の基礎の確立
前500 イオニアの反乱、ペルシア戦争はじまる
前5世紀初頭〜 エレア派
 ・パルメニデス(前500または前475〜?)
 ・エレアのゼノン(前490頃〜前430頃)
前479頃 デロス同盟結成
前470〜前468頃 ソクラテス誕生
前449 ペルシア戦争終結
★イオニアなど東方の進んだ学問がアテナイに流入
前443〜前429頃 ペリクレス(前495?〜前429)時代
★アテナイ民主制の完成
前431 ペロポネソス戦争はじまる
前427 プラトン(〜前347)、クセノポン(〜前355?)誕生
前423 アリストパネス(前446頃〜前385頃)『雲』初演
前404 ペロポネソス戦争終結
前404〜前403 三十人政権(三十人僭主)
 → クリアティス(前460頃〜前403)の独裁
★アテナイ民主制への疑いが育つ
前399 メレトスの訴え〜ソクラテスの死
前384 アリストテレス(〜前322)誕生

画像


【要約】


  一、何をどこまで知ることができるか


世界史的な事件であるソクラテスの死(前399)を、さまざまな困難を乗り越えて、歴史としてできる限り正しくとらえることが、本書の目的である。
そのための中心的な資料は、以下のようなもの。
・プラトン(前427〜前347)の著作 → 晩年のソクラテス
・クセノポン(前427?〜前355)の著作 → 晩年のソクラテス
・アリストパネス(前446頃〜前385頃)の『雲』(前423) → 46歳のソクラテス


  二、生活的事実

メレトスという人物に訴えられ死刑を宣告され、救出の申し出を断って死んだソクラテスは、どのような気持ちだったのか。
ソクラテスの人生の日常的な事実を押さえる。
・父や家業について
・家計について
・伝説的悪妻クサンチッペ
・二重結婚説について


  三、啓蒙思想の流れに

アリストパネスの『雲』には、アテナイにペルシア戦争での勝利をもたらした旧教育と、ソクラテスの新教育との対比が描かれている。
ペルシア戦争後、アテナイには東方から啓蒙思想が流入し、ペリクレス時代に文化が開花したが、それは古い伝統の解体でもあった。
ソクラテスは、アテナイの伝統に対立する有害な新思想の持ち主だと考えられていた。
・空中や地下の思索探究 ← イオニア自然学の影響?
・弱論強弁の論争術 ← エレア派の影響?

ソクラテスは無駄話をする空論家と思われていたが、「行動や情熱を抑えてロゴス(よく考えた上で最上の結論だと明らかになったもの)に従わせること」が、ソクラテスの実践であった。

  四、ダイモンに憑かれて

ソクラテスは、伝統的な宗教を否定し(不敬)、新しいダイモンの祭りを導入した、一種の宗教家として訴えられた。
「ダイモンの合図」を受け取るソクラテスに、一般人は嫌悪と驚異を感じていた。
ダイモンには実体はないが、「ダイモンの合図」はソクラテスの役に立つものだった。
「ダイモンの合図」は何らかの生理現象だったと考えられるが、それを解釈するところに、ソクラテスの占者としての一面がある。
「ダイモンの合図」は禁止としてしかはたらかず(「これをせよ」という命令ではない)、ソクラテスにはダイモンに対する自由や自主性があった。
そもそも古代ギリシア人の世界は、ダイモンの介入のある世界だった。
ダイモンとは、オリュンポスの神々以前の最も原始的な宗教的対象だったと考えられる。
それは無意識のようなもので、存在の深さからの呼びかけだった。
ソクラテスの「夢知らせ」や「没我的状態」も、「ダイモンの合図」とつながったものとして考えることができる。
内的超越としてのダイモンや夢に束縛されることは、ソクラテスにとって運命(モイラ)のようなものだった。

  五、デルポイ神託の謎

ソクラテスの死について、彼の内面と外来の事件の合致する点を求めていきたい。
ソクラテスの死の要因のひとつは、時勢の変化(外)である。
ペロポネソス戦争の敗戦とその後の混乱は、ソクラテス的新教育が招いたものだとされた。
ソクラテスの死の要因のもうひとつは、ソクラテス自身の変化(内)である。
彼は晩年、広く青年と接触して影響を及ぼすようになり、そこから「青年を堕落させる」との訴えを受けたのだ。
この変化をもたらした転機は、知人カイレポンが受けた「誰もソクラテスより智慧のある者はない」というデルポイの神託である。
この神託を謎として受け取ったソクラテスは、神に問い返すために自分より智慧のある者を探そうとしたが、誰と問答しても相手を智慧のある人だとは思えなかった。
そして、「自分は智慧がないと知っている点で、自分が最も智慧のある人間だといわざるをえない」という「無智の智」を発見する。
「智」と「無智」は、一般的な知識の有無ではなく、何らかの「大切なことがら」にかかわるもの。
「神のみが智者である」という一般的命題を解釈して、「人間の無智を暴露する」という特殊命題を導き出したところに、ソクラテスの特性がある。
そして、無智の暴露を通して「よい生き方」を広めることを、ソクラテスは神命と考えるようになった。
そして、智慧を愛し、若い青年を愛するところに、ソクラテスの教育者としての本質がある(ダイモンとエロースの一致)。
デルポイの神託は、ソクラテスが死刑の宣告を受けることになるさまざまな要因の中心にあるといえる。

  六、哲学

ソクラテスの神命としての哲学は、人が自分自身=精神をできるだけすぐれたものにすること。
俗世的な価値をむなしいものと感じさせるソクラテスのアイロニー(エイローネイアー)は、人々に憎まれた。
ソクラテス哲学の核心は、「徳」を中心とする吟味である。
智と徳との関係は、非常に難しい問題である。
無智とは実践の中で出てくるものだから、智も実践的なものでなければならず、正しい行為や正しい人をつくる実践的な智は、徳と呼ぶことができる。
ソクラテスの問答法も、理論を行動に先行させるものではなく、実践的なものだった。
また、哲学の智は政治の智に近づくはずである。

  七、死まで


前399年に訴えられたときのソクラテスの罪状は以下の5つ。
(1) 国家の公職の決定法(抽籤)にケチをつけた。
(2) 国賊クリアティスやアルキビアデスと交友があった。
(3) 父に非礼をはたらくことを青年に教えた。
(4) 近親や友人を尊敬しなくてよいと青年に教えた。
(5) 名高い詩人の作品を教育に悪用した。

このタイミングで起訴される必然性は、(2)にこそあったのではないか。
ペロポネソス戦争敗戦後の三十人政権で、クリアティスは独裁恐怖政治を行った。
クリアティスは、ソクラテス的な啓蒙思想と合理主義の影響を受けた人間である。
そして、クリアティスら三十人政権の打倒のために戦ったアニュトスが、メレトスなどをけしかけてソクラテスを起訴したのだ。
ソクラテス自身は、政治とかかわることをダイモンによって禁止されており、「本当に正義のために戦うなら、公人ではなく私人としてあらねば身がもたない」と考えていた。
しかし、ソクラテスの哲学は本来、真に政治的な「呼びかけ」であった。
ソクラテスは、政治の中での危険を知っていながら、「よく生きる」ことを選んだ。
「よく生きる」とは、「精神をよくする」ことであり、正義であり、不正に対して不正で返さないことであった。
だからソクラテスは、何の罪もなくただ間違って殺されることを、(脱獄という一種の不正をはたらくことよりも)よしとしたのだろう。
ソクラテスの生死は、(「よく生きるとはどういうことか」という)哲学的な問いかけの、ひとつの答えだったといえる。

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