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zoom RSS 【まとめ】藤沢令夫『プラトンの哲学』要約

<<   作成日時 : 2017/04/28 01:31  

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藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書、1998年)
要約

【目次】


(1) T〜V
(2) W
(3) X〜Z

画像


【超要約】

● T 序章「海神グラウコスのように」
    ――本来の姿の再生を!


人間の生き方と自然万有(=世界=宇宙)の見方を統合する全一的なプラトンの哲学は、ソクラテスの遺志を継ぎ、常識的思考と闘うものだった。
プラトンの哲学はさまざまに解釈が分かれ、時代の風潮に影響されやすく、特に近代以降、科学主義とポスト科学主義(科学主義批判)の両方から不当な批判を受けてきた。
しかし、プラトンのイデア論は本来、科学主義的思考の原型(〈物〉的世界観)への原理的批判を踏まえて成立しているので、科学主義からの批判に応えうるものだし、ポスト科学主義からの批判は的外れである。
プラトンのイデア論は常識的思考の枠に収まらないものであり、また、プラトンの敵である常識的思考は、絶大な影響力をもったアリストテレス哲学に補強されているので、プラトンの哲学は誤解されている。
したがって、プラトンの真価を見るためには、プラトン哲学の本来の姿を再生させる必要がある。

● U 「眩暈」
    ――生の選び


プラトンはその前半生において、政治にたずさわろうと志しつつ、ソクラテスの哲学に心惹かれていた。
ソクラテスの死刑(前399)に衝撃を受けたプラトンは、政治と哲学の双方を真剣に考えつづけ、40歳ごろ、反常識的で困難な「哲学による政治」(哲人統治)の考えを固める。

● V 「魂をもつ生きた言葉」
    ――プラトン哲学の基層としてのソクラテス


▼3−1 プラトン哲学における「ソクラテス的基層」


終始プラトンの哲学を支えたのは、ソクラテスのエロース(恋)的な人となりと一体になった言葉(ロゴス)であった。
ソクラテスの「無知の知」とは、「自分が何ごとかを知っていると思い込む以前の状態に、つねに自分を置く」構えであり、これは哲学の出発点・立脚点である。
そして哲学の要である「知」は、細かく分類されるようなものではなく、その人の行為をすべて支配する全一的なものである。

当時のアテナイでは、徳(アレテー)(=卓越性、能力)とは政治的能力のことだったが、ソクラテスは「知と真実を求めること」「魂がすぐれてあること」こそ本当の徳だと主張した。
哲学とは、その人の生が徳に向けられているかどうか吟味することであり、「よく生きること」をめざすことである。

*基本的な対立構図
・常識的思考 →「生き延び」の原理。身体=物(ソーマ)への配慮。
・哲学 →「精神」の原理。魂(プシューケー)への配慮。


▼3−2 対話篇形式の必然性

プラトンが、ソクラテスが大きな役割を担う対話篇という形式で哲学のテキストを書いた理由は、3つある。

・プラトンは自分の哲学を、ソクラテスと一体のものとしてとらえていた。
・つねに「無知の知」の自戒をもって、問答により吟味することが大事。
・思考とは、魂の内なる対話である(ロゴスのディアロゴス性)。


対話篇形式は、自分の思考を登場人物間の論争へと構造化し客観視する方向性と、論争されている問題を自分との対話の次元にまで沈潜させる方向性を併せもつ。

ギリシアのポイエーシス(詩)の伝統は、叙事詩 → 抒情詩 → 悲劇 の順に継起する中で、人間の行為と生をロゴスと対話によって主題化する傾向を強めていったが、プラトンの対話編は、その流れの到達点である。

≪叙事詩≫
前8世紀 ホメーロス
前700頃 ヘシオドス
   ↓
≪抒情詩≫
前7〜前6世紀 
  アルキロコス
  アルクマアン
  サッポオ
   ↓
≪悲劇≫
前5世紀
  アイスキュロス
  ソポクレス
  エウリピデス
   ↓
前380年代半ば〜 プラトンの対話篇


● W 「美しき邁進」
    ――イデア論とプシューケー論


常識的思考からは世迷言とされるに違いない「哲人統治」の発想を支えうる「哲学」の内実を、プラトンはどのようにして形成していったか。

▼4−1 前期対話篇(イデア論の準備)

★『ゴルギアス』(前387年前後)


『ゴルギアス』は、プラトン哲学の形成の出発点であり、物質的充足を求める大衆の欲望(通俗道徳を転倒させただけのもの)に対する、哲学の側(通俗道徳とは異なる真の徳)からの対決宣言が発せられる。

★展開していくプラトン哲学


哲学とはどこまでも先へ考えていこうとすることであり、その先に真の徳が、イデアとして望見される。
通俗道徳批判は、イデア論の形成によって可能になるのであり、プラトン哲学の新たな内実はイデア論から与えられることになる。
そのイデア論の基盤は、ソクラテスの「無知の知」と、「〜とは何であるか」という問いであった。

★『メノン』


『メノン』は前期対話篇の最後の作であり、中期への助走として想起説・知識論など重要概念が提示されるが、イデア論とのつながりをつくれていない。

▼4−2 中期対話篇への突入(思想の形成)


★『饗宴』

『饗宴』では、巫女ディオティマがソクラテスに、エロース(恋)の道の最高の奥儀と啓示として、美のイデアを語る。
美のイデアとは、美の認識の窮極として要請されるものであり、その性質は次の通り。

・恒常性
・絶対性・普遍性
・それそのものはこの世界に現象しない
・完結性・不変性、分有される


★『パイドン』

『パイドン』では、美のイデアだけでなく、倫理的価値規範のイデア、数のイデア、人工物のイデア、自然物のイデアが示され、イデアが一般化される。
イデアは「感覚・知覚されるもの」(アイステートン)ではなく、「思惟されるもの」(ノエートン)である。
人間は、感覚されるものから、イデアへの「類似性」とその「不完全性」を感じ取るという形で、イデアを想起する(想起説)。
イデアは、感覚的判別・認識にとって不可欠の規範であり、先験的な原理である。

『パイドン』では、個別のものを感覚する身体(ソーマ)と、イデアを思惟によってとらえる魂(プシューケー)とが対立するものであるかのように語られ、哲学者のつとめは「魂の清浄化」(魂を身体から引き離すこと)であるとされる。

・身体 → 感覚・欲望・情念・快楽
・魂  → 思惟


こういった内容は、魂と身体の二元論、および感性への不当な蔑視(感覚・欲望・快楽などへの侮蔑)と見られてきたが、魂と身体の対立と思われているものは、本当は、魂のはたらきのふたつのあり方の対立である。

・知と思惟、そこに向けられる感覚・欲望など
・〈物〉的なものに向けられる感覚・欲望など


この対立は、求知者の内部での葛藤であるといえる(非求知者は後者しかもたないため)。
このような対立を提示することで、プラトンは、次のふたつの生き方の対比を哲学的に根拠づけている。

・求知者の生き方:身体的な欲望や快楽との対立の中で知を求める「精神」の原理
・非求知者の生き方:身体的な欲望や快楽を求め、死を恐れる「生き延び」の原理


プラトンの思想的な戦いとは、ソーマ(身体=物)を愛求する非求知者たちの〈物〉的世界観・自然観に対する、史上初の吟味であった。
〈物〉的な性格のものを吟味するには、生成と消滅の「原因」を考える必要がある。
物質的要因は、原因が原因として機能するための必要条件(補助原因)でしかなく、真の原因として考えられるべきは、〈善〉という秩序化の力である。
しかし、そのような〈善〉原因を考えることは非常に困難なのでいったん断念され、次善の策として、「個別のものがある性質をもつのは、そのイデアを分有しているからだ」(イデアの「分有」式の説明)という「イデア原因論」が提示される。
このような議論による達成と、残された課題は次の通り。

(達成)
・〈物〉的性格の原因を、〈善〉原因とイデア原因によって斥けた。
(課題)
・〈善〉原因の内実はあきらかになっていない。
・〈善〉原因とイデア原因の関係も不明。
・生成消滅の原因(起動因)も論じられていない。


▼4−3 『国家』(哲人統治の考え、哲人統治者の育成について)

★『国家』

『国家』では、プラトンがずっと温めてきた「哲人統治」の考え(イデアに目を向ける哲学者が政治を行うこと)が表明される。
そのような統治者=哲学者をいかにして育成するかが論じられる中で、統治者が学ぶべき最高の価値である〈善〉(アガトン)に関する、次のような課題への取り組みが行われる。

・〈善〉原因の把握
・〈善〉原因とイデア原因の関係の明確化


(1)太陽の比喩


〈善〉は「知ること」と「知られること」を成立させる究極の原因であり、〈善〉に最も似ているのは太陽である。
〈善〉は、事象の原因たるイデアのさらに上位にあり、イデアに実在性と真理性を与える。

〈善〉という根源的な価値
 ↓ 【〈善〉原因】
イデア
 ↓ 【イデア原因】
感覚界の個別のもの


プラトンは明言していないが、〈善〉のイデアよりも上位に、根源的な価値としての《善》があると考えるべきである。

(2)線分の比喩

線分の比喩では、(広義の)存在するものの真実性や明確性の比例関係が示される。

【1】 (思惑されるもの):(思惟されるもの)
【2】=(似像):(実物)
【3】=(悟性的思考):(理性的思惟)

【1】……個別のものとイデア
【1】【2】……「原範型‐似像」式説明
【3】……イデアの探究のふたつの方法

線分の比喩は、イデアの「分有」式の説明から、「原範型‐似像」式説明(イデアは原範型、個別のものはその似像)への移行を示す。
線分の比喩はまた、イデアの探究方法(魂はいかにして、万有の始原である《善》に到達できるか)を示している。
イデアの探究方法には、仮設のもとに行われる悟性的思考(数学)と、仮設を超えて始原まで到達する理性的思惟(哲学)があり、後者は、ロゴスの「問答(対話)する力」によって行われる。

(3)洞窟の比喩


洞窟の比喩は、哲人統治者の教育の理念と、哲人統治者の条件を示している。

・洞窟内の囚人の住まい → 感覚界
・洞窟の中の火 → 太陽
   ↓ 上昇
・上方の外界 → イデア界
・外界の太陽 → 《善》


真の教育とは、人の魂の中にある知性を、感覚界からイデア界へと向け変えること(ペリアゴーゲー)であり、哲人統治者となるべき者の教育は、次のような順序で行われるべきである。

・幼少期…………感性の教育(音楽文芸)
・予備教育………思考の行使(数学)
・本当の教育……問答することの力(哲学)


哲人統治者の条件とは、支配権力を求めないことであり、イデア界を見た哲学者が、本当は哲学的生を送りたいところを、やむをえず政治にたずさわるということが大事である。

▼4−4 『パイドロス』(恋、狂気、魂について)


★『パイドロス』


『パイドロス』では、恋と狂気の批判への反論と、当時の弁論術への批判が展開される。
弁論術批判では、弁論術は哲学とディアレクティケー(問答法)に従属するものでしかないと語られる。
恋と狂気の批判への反論では、神的な狂気への礼賛を通して、恋する魂(プシューケー)の本質規定が為される。

(1)プシューケーの本質


「自分で自分を動かすもの」たるプシューケーは、〈動〉の始原(原理)である。
人間の魂は、翼をもった善悪2頭の馬と、その手綱をとる翼をもった御者というイメージで語られるが、この魂のイメージを『国家』で語られた魂の三部分説につなげると、次のようになる(プシューケーとソーマの対立ではなく、魂の諸機能の間の葛藤)。

・御者………理知 → 知ることを求める
・善い馬……気概 → 名誉を求める
・悪い馬……欲望 → 利得を求める


(2)恋する魂の物語

魂は、かつて天上にありイデアを観照していたが、欲望のせいで翼を失い、下界の人間の身体に宿った。
恋とは、人間の身体に宿った魂が、美しい人を見て美のイデアを想起し、翼の再生をうながされることである。
そして、天上に上がれぬまま下界をなおざりにしてしまうとき、その恋は狂気と呼ばれる〔が、このような状態はイデアへの憧れから引き起こされたものだから、擁護されるべきだ〕。
恋する相手に対しては、魂の欲望的部分も反応するが、美のイデアの想起による畏敬の念に打たれるとき、理知の力の前に欲望は屈服する。
そして、恋人同士が秩序ある求知の生き方に目覚めるなら、やがて魂の翼は再生する。

● X 「汝自身を引き戻せ」
    ――反省と基礎固め


イデア論の不備に気づいたプラトンは、イデア論の手前に戻って、〈物〉(個別のもの)の認識論的・存在論的ステータスを問い直す。

▼5−1 『パルメニデス』(個別のものの考察の不足に気づく)

★『パルメニデス』


プラトンの哲学は本来、個別のものxと性質Fの結びついた常識的思考を突き崩して、イデアΦへと魂の目を向け変えようとするものである。
しかし、イデアの「分有」式の説明「xはΦを分有することによりFである」を採用すると、主語とされたxが突出してしまい、常識的思考はxとFの区別だけを見て、Φを不要のものとみなす。
プラトンは「分有」式の説明を捨てて「原範型‐似像」式の説明を採るようになったが、それとは別に、常識的思考と結びついた個別のもの(〈物〉)の資格審査が必要になる。

▼5−2 『テアトイアス』(知覚論を通して個物の実体性を否定)


★『テアトイアス』


『テアトイアス』では、次の3つの命題が検討される。

(1)「知識とは知覚である」
(2)相対性のテシス(知覚されるxの自体性の否定)
(3)流転性のテシス(知覚されるxの恒常性の否定)


ソクラテス(プラトン)は相対性のテシスと流転性のテシスを利用して、〈物〉(x)が実体ではないことを示す(個別のものx抜きで、「原範型‐似像」式の説明を根拠づける)。
さらに、相対性のテシスと流転性のテシスのそれぞれの批判から、知覚を成立させる必要条件として、性質Fに「価値」と「意味」があることを示す。

また、「知識とは知覚である」という説に反駁し、知覚と知識の峻別を行う(そして知識はイデアにつながるものである)。

・知覚:「Fとして気づく」(身体を通して受け取られて魂に届くまで)
・知識:「Fであると考察する」(魂において価値と意味が主題化される)


● Y 「美しく善き宇宙」
    ――コスモロジーに成果の集成を見る


プラトンの思想は、宇宙論(=世界論=自然論)にどのように組み込まれて集大成されるか。
そしてプラトンの宇宙論は、ギリシア哲学の伝統の中でどのような意味をもつか。

▼6−1 宇宙論(コスモロジー)


★『ティマイオス』


まず前提として、イデア論には次の区別があり、@(原範型)を原範型としてつくられるものは美しく真実である一方、A(似像)を原範型としてつくられるものは美しくなく真実ではない。

@ 思惟される実在(イデア)=原範型
A 思わくされる生成(個別のもの)=似像


宇宙は何らかのイデア(@)を原範型としてつくられた似像なので、Aである。
ゆえに宇宙について語る自然学の言説は、真実らしい近似的な物語たらざるをえない。
プラトンは、宇宙を説明する近似的な物語として、「造り主」による宇宙創造の神話的イメージを採用するが、それによると、「造り主」は「できるだけよい宇宙をつくろう」と考え、無秩序なものすべてを秩序へと導いた。
「造り主」とは、宇宙論的なプシューケーである知性(ヌース)をたとえたものであり、また「できるだけよい宇宙をつくろう」という「造り主」の意志は、万物の始原である《善》をたとえたものである。
こうしてイデアと《善》は、宇宙論全体の基盤になっている。

また、現象界の個別のもの(〈物〉)については、場(コーラー)という概念の導入によって説明が与えられる。
イデアの似像がある場(コーラー)に受け入れられ、ある性質として現れたのが、個別のものである(だから〈物〉は実体ではない)。
こうして、「イデアΦの似像が、コーラーのここに受け入れられて、性質Fとして現れている」という、似像によるイデアの記述方式が確立される(個別のものxは不要に)。
「他のものに動かされることによって、必然的に他のものを動かすもの」である〈物〉(ソーマ)は、現象の真の原因とはなりえないが、「補助原因」として位置づけられる。

★『法律』第十巻

ソーマ(物=身体)に対立するプシューケー(魂)こそが、「自分で自分を動かすもの」であり、万物の運動と生成・変化の「起動因」である。

▼6−2 ソクラテス以前の哲学との関係


ギリシアの初期の哲学者たちは、物質と生命(プシューケー)を一体としてとらえており、万物の始原(自然の根源)の探究はプシューケー(神的な活力・霊気)の探究であった。
また、初期の哲学者たちにとって、自然の探究は人間存在の探究と一体のものであった。

しかし、その探究は次第に困難の度を増していき、レウキッポスとデモクリトスの原子論へと特殊化される。
原子論は、〈物〉を実体としてとらえる考え方であり、プシューケーは二次的なものとされてしまう。
また、原子論では知は原子という〈物〉だけに向けられ、人間存在の探究は排除される。

この流れを押しとどめようとしたプラトンは、分離されたプシューケーとソーマをそれぞれ検討し、プシューケーを中心に据えた。
また、自然の問題と人間の生き方の問題を一体のものとして扱い、知の全一性を回復しようとした。
プラトンの哲学は、〈物〉的世界観による逸脱と特殊化に抗い、ギリシア哲学の伝統への復帰をめざすものだったのである。

● Z 「果てしなき闘い」
    ――現代の状況の中で


プラトン以後、〈物〉主義的な考え方が常識的思考に支えられて広がり、近代初頭には原子論もリバイバルされ、〈物〉的世界観にもとづく科学主義が成立した。
しかし、相対性理論や量子力学によって〈物〉の地位が崩れた現代においては、科学主義は限界に直面しており、その中で全体的な世界像が求められるとすれば、それはプラトン的世界像の現代的な再生しかない。

また、〈物〉的世界観と結びついた科学技術も、現在さまざまな弊害を生んでおり、このような危機に対処するには、「快ではなく善を志向せよ」というプラトンの「精神」原理をよみがえらせるしかない。

  *

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