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zoom RSS 吉本隆明「詩とはなにか」要約(4)

<<   作成日時 : 2017/04/02 18:39   >>

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吉本隆明「詩とはなにか」要約
初出 「詩学」1961年7月号
テキスト 『詩とはなにか』詩の森文庫、2006年

第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)

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 4−1 詩的喩とは

詩においては、指示表出性の高い言葉にも自己表出性が高度に負わされ、指示表出性のない言葉にも指示表出的な役割が負わされるといった、自己表出と指示表出の矛盾が交響している。
そのような矛盾の交響状態を実現させようとする言語の努力から、詩的喩が生まれた。
喩法は、詩をかくことの本質と結びついている。
したがって、修辞的にではなく本質的に、喩法を考える必要がある。

 4−2 詩的喩の起源は「当り」

折口信夫は、やみくもに歌った言葉にたまたま「当り」があって、歌いたい真の対象に迫るきっかけになることが、譬喩のはじまりだと述べている〔と自分は解釈する〕。

詩的喩は本質的に、意味的あるいは像〔イメージ〕的な「当り」に起源をもつ。
「当り」の意味やイメージは、励起されて言語の時代的水準以上に突出した、自己表出と指示表出の交響としての詩の言葉の中に、はじめて出現する。

詩的喩の本質は、励起という点において、詩の本質とかかわるものである。
詩的喩は「当り」によって励起をもたらすものであり、意識の自己表出を助け、詩の価値を高める。

 4−3 意味的な喩と像的な喩

「直喩/隠喩」という修辞学的分類は、喩法の本質ではない。
本質的な分類は「意味的な喩/像〔イメージ〕的な喩」であり、これは「直喩/隠喩」と一致しない。
喩は、意味的な喩と像〔イメージ〕的な喩のいずれかのアクセントをもってあらわれる。

 4−4 散文的な喩とは


「〜のような」という直喩の表現が、説明的・散文的に感じられる理由は、「直喩だから」では必ずしもない〔「直喩/隠喩」は本質的なカテゴリーではない〕。
詩の喩が説明的・散文的に見えるのは、言語の時代的水準と比べて励起されておらず、慣用的な〔ありがちな〕表現にとどまるときである。
〔つまり、直喩が説明的・散文的に感じられるのは、「ありがちだから」である〕

慣用的な表現は安定した想像的な現実になっており、これに対して、励起された表現は想像的な表出そのものだといえる【註03】。

【註03】第3章の3−3、3−5参照。

 4−5 詩的喩の可能性

時代の流れの中で、喩は詩的言語の意味か像〔イメージ〕に「当たって」、表出の励起を強めていく。
〔それが言語の時代的水準の積み重なりである〕

言語の意味的/像〔イメージ〕的な「当り」は無際限なので、詩的喩の可能性も無際限である。
「当てる」ことの連続によって喩の概念を拡大するシュルレアリスムの詩は、いわば喩だけでできあがった詩である。

詩の要である詩的喩は、詩人の意識の自己表出力を、励起状態に「当てる」ことにほかならない。
ただ、言葉は必ず指示表出の面ももつので、詩の〔自己表出の〕言葉も、何かを意味してしまう。
したがって、喩だけでできたシュルレアリストの詩を、それだけで最高に価値のある詩だと考えることはできない。


▼吉本隆明「詩とはなにか」要約 目次
第1節 「ほんとのこと」の妄想
第2節 詩の発生(意識の自己表出)
第3節 散文と詩(言語の時代的水準と励起)
・第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)
第5節 詩と現実 ←NEXT

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