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zoom RSS 【まとめ】吉本隆明「詩とはなにか」要約

<<   作成日時 : 2017/04/02 19:56   >>

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吉本隆明「詩とはなにか」要約
初出 「詩学」1961年7月号
テキスト 『詩とはなにか』詩の森文庫、2006年

▼吉本隆明「詩とはなにか」要約 目次
第1節 「ほんとのこと」の妄想
第2節 詩の発生(意識の自己表出)
第3節 散文と詩(言語の時代的水準と励起)
第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)
第5節 詩と現実

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【超要約】


 ◆第1節 「ほんとのこと」の妄想

世界を凍りつかせるような「ほんとのこと」を吐き出すことで、現実社会の抑圧を一時的に解消しようとする営みが、詩の本質である。

自分は「ほんとのこと」を口に出したいと思うとき、自分を現実社会の関係の外に立たせている。
それは「じっさい的態度」に反する「幻想的態度」だが、であるからこそ「ほんとのこと」を口に出したいという欲求は、現実社会の力によっては消滅させられない。

「ほんとのこと」を口に出せば世界が凍ってしまうという妄想は、詩人でない人ももっているだろうが、詩人はその妄想をもとに、意識の外化として実際の詩作を行う。
だから詩の本質は、あくまで詩をかくという行為、あるいはかかれた詩の中にある。

 ◆第2節 詩の発生(意識の自己表出)

折口信夫による文学の信仰起源説を検討すると、文学が人間の意識の自己表出として発生したことがわかる。
詩の、そして文学の本質は、意識の自発的な自己表出である。
詩は叙事詩から抒情詩、叙景詩へと、意識の自己表出の面を切り出し純化するように分化してきた。

通俗的唯物論者たちの間では、労働から芸術が生まれたとする説が流布されているが、問題は芸術の起源が祭式か労働かではなく、「芸術の条件は意識の自己表出だ」という点である。
原始人が、祭式や労働の動作や叫びを、単なる反射的な動作や叫びとしてではなく、意識の自己表出として行ったとき、はじめて芸術の最低限の条件が生まれたのだ。

折口が「信仰」と呼んでいたものを、自己表出の能力ととらえなおせば、その能力の形態が信仰から芸術へ転化した過程はたどりうる。

(1)巫術師が神憑り状態の神語として、祭式の叫び・呪文・歌を考える
    ↓ 社会の発展
 神憑り状態が慣習化
    ↓
(2)巫術師が神憑り状態を意識的に表現


詩は、叫びのような自己表出に言葉を与えるものであり、自己表出以外の要素は、散文のほうにふりわけられていく。

 ◆第3節 散文と詩(言語の時代的水準と励起)

現実の世界では、人間はコミュニケーションのために指示表出として言葉を使い、その言葉に裏側から自己表出が貼りついている。
しかし詩をかく場合は、どんなに指示表出性の高い言葉でも自己表出として発せられ、その言葉に裏側から指示表出が貼りついている。
詩をかくとき、言語は意識の自己表出の頂点で指示表出性をもつのである。

詩をうまくかき終わったときには一時的に、大きな充実感や放出感が味わわれる。
この充実感や放出感は、ある意味のことを散文ではっきり指示できた手応えとは違っており、意識の澱のようなものが残らない。

自己表出と指示表出は完全に切り分けられるものではないし、詩と散文の区別もはっきり存在するわけではない。
しかし、散文は想像的現実であるのに対して、詩は想像的なものそれ自体であるといえる。

日常的生活語や書き言葉には、平均値のような時代的水準があり、そこに位置する言葉が慣用語などである。
書き言葉における慣用語は、想像的世界の安定性と定常性に対応しており、これが散文の言葉である。
それに対し、書き言葉におけるまだ熟していない言語は、意識の指示表出性においても自己表出性においても励起され、時代的水準よりも高いボルテージにあり、これが詩の言語である。
そして詩とは、定常的な意識から励起された状態にのぼったのち、衰退して定常的な状態に復帰するまでの表現である。

このような散文と詩の違いは、語のレベルではなく意識のレベルにある。
詩では、語としては慣用語を使ったとしても、意識は励起状態にあるのだ。

言葉と現実や想像は、以下のように対応している。
・第1の現実――――――生活語
・第2の想像的な現実――散文芸術
・第3の想像の根元―――詩

詩をかくというのは、第1の現実の中に生きながら、第3の状態へと励起されることである。
一般的にいえば、人間はその原始社会において何らかの矛盾をもつようになったとき、自己表出が可能になった。

(1)社会的な矛盾を経験
    ↓
(2)意識のしこりが生まれる
    ↓
(3)しこりが意識の底まで届く
    ↓
(4)叫びのような自発的な表出〔自己表出〕


 ◆第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)

詩においては、指示表出性の高い言葉にも自己表出性が高度に負わされ、指示表出性のない言葉にも指示表出的な役割が負わされるといった、自己表出と指示表出の矛盾が交響している。
そのような矛盾の交響状態を実現させようとする言語の努力から、詩的喩が生まれた。
喩法は、詩をかくことの本質と結びついているので、修辞的にではなく本質的に、喩法を考える必要がある。

詩的喩は本質的に、意味的あるいはイメージ的な「当り」に起源をもつ。
「当り」の意味やイメージは、励起されて言語の時代的水準以上に突出した、自己表出と指示表出の交響としての詩の言葉の中に、はじめて出現する。
詩的喩は「当り」によって励起をもたらすものであり、意識の自己表出を助け、詩の価値を高める。

喩は本質的には、意味的な喩とイメージ的な喩のいずれかのアクセントをもってあらわれる。
「直喩/隠喩」などの分類は、本質的なものではない。

時代の流れの中で、喩は詩的言語の意味かイメージに「当たって」、表出の励起を強めていく。
言語の意味的/イメージ的な「当り」は無際限なので、詩的喩の可能性も無際限である。
詩の要である詩的喩は、詩人の意識の自己表出力を、励起状態に「当てる」ことにほかならない。
ただ、言葉は必ず指示表出の面ももつので、詩の自己表出の言葉も、何かを意味してしまう。

 ◆第5節 詩と現実

自分は、普通に語ったり書いたりすれば世界を凍らせてしまうであろうことを、普通に語ったり書いたりするのを禁忌して、詩という形にする。
現実社会は、私に語らせまいと抑圧してくる。
終わりなき現実の抑圧の中で、詩は一時的な解放としてのみ存在するのである。

第4節の詩的喩論は、詩と現実の関係の結節点である。
古代人は、彼らが彼ら以外のものでもありうることを妄想し、その可能性をさぐり「当てる」ところに詩的な喩を発生させた。
現代においては逆に、自分たちが自分たちでいられないような疎外のある現実社会の中で、自分たちが自分たちでいられる方法を妄想し、それをさぐり「当て」ようとするところにこそ、詩的喩の価値があるのだ。

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▼吉本隆明「詩とはなにか」要約 目次
第1節 「ほんとのこと」の妄想
第2節 詩の発生(意識の自己表出)
第3節 散文と詩(言語の時代的水準と励起)
第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)
第5節 詩と現実

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