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zoom RSS 藤沢令夫『プラトンの哲学』要約(2)W

<<   作成日時 : 2017/04/21 11:17   >>

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藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書、1998年)
W 要約

【対話篇】*藤沢令夫による分類(p56)

≪初期対話篇≫(順不同)
 ・『ソクラテスの弁明』 → ソクラテスの哲学のロゴス
 ・『クリトン』
 ・『エウテュデモス』
 ・『プロタゴラス』
 ・『カルミデス』
 ・『リュシス』
 ・『ゴルギアス』 → プラトン哲学の形成の出発点
 ・『ヒッピアス(大)』
 ・『ラケス』
 ・『エウテュブロン』
 ・『メノン』 → 前期対話篇の終わり、中期への助走

≪中期対話篇≫
 ・『饗宴』 → 美のイデア
 ・『パイドン』 → イデア論の拡充
 ・『国家』 → 哲人統治
 ・『パイドロス』 → 魂(プシューケー)論
(・『クラテュロス』)

≪後期対話篇≫
 ・『パルメニデス』 → イデア論の不備への気づき
 ・『テアトイアス』 → 知覚論、〈物〉の問い直し
 ・『ソピステス』
 ・『ポリティコス』
 ・『ピレボス』
 ・『ティマイオス』 → コスモロジー
 ・『法律』 → 起動因としての魂(プシューケー)

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【要約】

● W 「美しき邁進」
    ――イデア論とプシューケー論


常識的思考からは世迷言とされるに違いない「哲人統治」の発想を支えうる「哲学」の内実を、プラトンはどのようにして形成していったか。

▼4−1 前期対話篇(イデア論の準備)


★『ゴルギアス』(前387年前後)


『ゴルギアス』は、プラトン哲学の形成の出発点である。
物質的充足を求める大衆の欲望(通俗道徳を転倒させただけのもの)に対する、哲学の側(通俗道徳とは異なる真の徳)からの対決宣言が発せられる。

★展開していくプラトン哲学

哲学とはどこまでも先へ考えていこうとすることであり、その先に真の徳がイデアとして望見される。
通俗道徳批判は、イデア論の形成によって可能になるのであり、プラトン哲学の新たな内実はイデア論から与えられることになる。

イデア論の基盤は、「無知の知」というソクラテスの知のとらえ方と、「〜とは何であるか」という問いである。
「〜とは何であるか」という問いは、定義を求める問いではなく、答えを却下して無知の自覚をもたらすことで、逆に潜在的な知を鍛え、最終的な同定(イデア)に向かうものである。
「〜とは何であるか」の問いが求める答えこそ、イデアである。
中期対話篇以降は、「〜とは何であるか」という問い自体よりも、問われていた「相」(エイドス=イデア)の存在論的・認識論的ステータスが論じられるようになる(イデア論)。

★『メノン』

『メノン』は前期対話篇の最後の作であり、中期への助走である。
想起説、知識論など重要概念が提示されるが、イデア論とのつながりをつくれていない。

▼4−2 中期対話篇への突入(思想の形成)

★『饗宴』

『饗宴』では、巫女ディオティマがソクラテスに、エロース(恋)の道の最高の奥儀と啓示として、美のイデアを語る。
ディオティマの語る美のイデアの性質は、以下の通り。

・恒常性
・絶対性・普遍性
・それそのものはこの世界に現象しない
・完結性・不変性、分有される


美のイデアとは、美の認識の窮極にあるものとして要請されるもの(「美とは何であるか」という問いが求める、美の知がめざすべきもの)である。

★『パイドン』

『パイドン』では、美のイデアだけでなく、倫理的価値規範のイデア、数のイデア、人工物のイデア、自然物のイデアが示され、イデアが一般化される。
イデアは「感覚・知覚されるもの」(アイステートン)ではなく、「思惟されるもの」(ノエートン)である。
人間は、感覚されるものから、イデアへの「類似性」とその「不完全性」を感じ取るという形で、イデアを想起する(想起説)。
感覚的判別は、規範としてのイデアへの類似性と不完全性の感知として成立する。
イデアは、感覚的判別・認識にとって不可欠の規範であり、それゆえに、経験されるものの中には存在しない先験的な原理である。

『パイドン』では、個別のものを感覚する身体(ソーマ)と、イデアを思惟によってとらえる魂(プシューケー)とが、対立するものであるように語られる。

・身体 → 感覚・欲望・情念・快楽
・魂  → 思惟


哲学者のつとめとは、「魂の清浄化」(魂を身体から引き離すこと)であり、それは「死の練習」でもあるとされる。
こういった内容は、魂と身体の二元論、および感性への不当な蔑視(感覚・欲望・快楽などへの侮蔑)と見られてきた。
しかし、プラトンのテキストを注意深く読めば、一般に流布されている俗流プラトニズムとプラトン自身の理論は違っていることがわかる。
第1に、感覚・欲望・快楽などの主体は、身体ではなく魂である(魂が身体を通して感覚したり欲望したりする)。
第2に、プラトンの理論では、知を求める欲望も存在するとされる。
第3に、プラトンの理論では、感覚はイデア想起の機縁となる(感覚自体がよくないわけではなく、感覚の対象だけにとらわれすぎるのが問題)。
魂と身体の対立と思われているものは、本当は、魂のはたらきのふたつのあり方の対立である。

・知と思惟、そこに向けられる感覚・欲望など
・〈物〉的なものに向けられる感覚・欲望など


非求知者は後者しかもたないので、上の対立は、求知者の内部での葛藤であるといえる。
このような対立を提示することで、プラトンは、次のふたつの生き方の対比を哲学的に根拠づけている。

・求知者の生き方:身体的な欲望や快楽との対立の中で知を求める「精神」の原理
・非求知者の生き方:身体的な欲望や快楽を求め、死を恐れる「生き延び」の原理


非求知者はソーマ(身体=物)の愛求者であり、〈物〉的な性格のものを真実の存在だと思い込む。
プラトンの思想的な戦いとは、〈物〉的世界観・自然観に対する、史上初の吟味であった。
〈物〉的な性格のものを吟味するには、生成と消滅の「原因」を考える必要がある。
物質的要因は、原因が原因として機能するための必要条件(補助原因)でしかない。
真の原因として考えられるべきは、〈善〉という秩序化の力である。
しかし、そのような〈善〉原因を考えることは非常に困難なので、いったん断念される。
次善の策として、「個別のものがある性質をもつのは、そのイデアを分有しているからだ」(イデアの分有式の記述)というイデア原因論が提示される。
イデア原因論がトートロジーのように感じられるとしたら、それはイデアと感覚されるものを混同しているからである。
このような議論による達成と、残された課題は以下の通り。

(達成)
・〈物〉的性格の原因を、〈善〉原因とイデア原因によって斥けた。
(課題)
・〈善〉原因の内実はあきらかになっていない。
・〈善〉原因とイデア原因の関係も不明。
・生成消滅の原因(起動因)も論じられていない。


▼4−3 『国家』(哲人統治の考え、哲人統治者の育成について)


★『国家』

『国家』では、プラトンがずっと温めてきた「哲人統治」の考え(イデアに目を向ける哲学者が政治を行うこと)が表明される。
そのような統治者=哲学者をいかにして育成するかが論じられ、以下の課題への取り組みが行われる。

・〈善〉原因の把握
・〈善〉原因とイデア原因の関係の明確化


〈善〉(アガトン)こそ、すべての魂が追い求め、あらゆる行為がそれのために為されるものであり、国の統治者が学ぶべき最重要の価値である。

(1)太陽の比喩


〈善〉は「知ること」と「知られること」を成立させる究極の原因であり、〈善〉に最も似ているのは太陽である。

・〈善〉は、知る主体に認識力を与える。
・〈善〉は、イデアに真理性を提供する。


〈善〉は、事象の原因たるイデアのさらに上位にあり(メタレベルの原因)、イデアに実在性と真理性を与える(〈善〉原因とイデア原因の関係のアウトライン)。

〈善〉という根源的な価値
 ↓ 【〈善〉原因】
イデア
 ↓ 【イデア原因】
感覚界の個別のもの


すべての事象には、イデアを介して価値が滲透している。
したがって、個々の事象に対するすべての知覚・判別は、価値的なものである。
プラトンは明言していないが、〈善〉のイデアよりも上位に、根源的な価値としての《善》があると考えるべきである。

(2)線分の比喩

線分の比喩では、(広義の)存在するものの真実性や明確性の比例関係が示される。

【1】 (思惑されるもの):(思惟されるもの)
【2】=(似像):(実物)
【3】=(悟性的思考):(理性的思惟)

【1】……個別のものとイデア
【1】【2】……「原範型‐似像」式説明
【3】……イデアの探究のふたつの方法

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線分の比喩は、イデア分有式の説明から、「原範型‐似像」式説明(イデアは原範型、個別のものはその似像)への移行を示す。
線分の比喩はまた、「魂はいかにして、万有の始原である《善》に到達できるか」を示している。
イデアの探究方法には、仮設のもとに行われる悟性的思考(数学)と、仮設を超えて始原まで到達する理性的思惟(哲学)がある。
後者は、ロゴスの「問答(対話)する力」によって行われる。

(3)洞窟の比喩

洞窟の比喩に出てくる要素とその意味は以下の通り。

・洞窟内の囚人の住まい → 感覚界
・洞窟の中の火 → 太陽
   ↓ 上昇
・上方の外界 → イデア界
・外界の太陽 → 《善》


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洞窟の比喩が示す内容は、以下のふたつである。

・哲人統治者の教育の理念
・哲人統治者の条件


教育の理念とは、人の魂の中にある知性を、感覚界からイデア界へと向け変えること(ペリアゴーゲー)である。
哲人統治者となるべき者の教育は、以下のような順序で行われるべきである。

・幼少期…………感性の教育(音楽文芸)
・予備教育………思考の行使(数学)
・本当の教育……問答することの力(哲学)


哲人統治者の条件とは、支配権力を求めないことである。
イデア界を見た哲学者が、本当は哲学的生を送りたいところを、やむをえず政治にたずさわる、ということが大事。

▼4−4 『パイドロス』(恋、狂気、魂について)


★『パイドロス』

『パイドロス』では、恋と狂気の批判への反論と、当時の弁論術への批判が展開される。
弁論術批判では、弁論術は哲学とディアレクティケー(問答法)に従属するものでしかないと語られる。
恋と狂気の批判への反論では、神的な狂気への礼賛を通して、恋する魂(プシューケー)の本質規定が為される。

(1)プシューケーの本質

「自分で自分を動かすもの」たるプシューケーは、〈動〉の始原(原理)である。
人間の魂は、翼をもった善悪2頭の馬と、その手綱をとる翼をもった御者というイメージで語られる。
この魂のイメージを、『国家』で語られた魂の三部分説につなげると、以下のようになる。

・御者………理知 → 知ることを求める
・善い馬……気概 → 名誉を求める
・悪い馬……欲望 → 利得を求める


ここにあるのは、魂(プシューケー)と身体(ソーマ)の対立ではなく、魂の諸機能の間の葛藤である。

(2)恋する魂の物語

魂は、かつて天上にありイデアを観照していたが、欲望のせいで翼を失い、下界の人間の身体に宿った。
恋とは、人間の身体に宿った魂が、美しい人を見て美のイデアを想起し、翼の再生をうながされることである。
そして、天上に上がれぬまま下界をなおざりにしてしまうとき、その恋は狂気と呼ばれる〔が、このような状態はイデアへの憧れから引き起こされたものだから、擁護されるべきだ〕。
恋する相手に対しては、魂の欲望的部分も反応するが、美のイデアの想起による畏敬の念に打たれるとき、理知の力の前に欲望は屈服する。
そして、恋人同士が秩序ある求知の生き方に目覚めるなら、やがて魂の翼は再生する。
プラトニック・ラブが重点を置くのは、肉体関係の有無ではなく、美のイデアの想起としての知的欲求の強さである。

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