【修士論文】『他人の顔』論 《8》 難題の棚上げ=先送り

修士論文 安部公房論―中期長篇小説を中心に―

第二部 『砂の女』以降


『他人の顔』論 《8》 難題の棚上げ=先送り


 さて、このように仮面作りに着手した「ぼく」は、プラスチックによる人工器官の研究を行っているK氏を訪ね、話を聞く(〈08〉)。
 K氏は「ぼく」に、「人間の魂は、皮膚に宿っている」との信念を語り、顔が「自分と他人とを結ぶ通路」であり、「人間というやつは、他人の目を借りることでしか、自分を確認することも出来ない」と述べるのだが、「ぼく」はそのK氏の意見に反発を感じる。
 下は〈09〉からの引用である。

もし、その考え方を認めるなら、顔を失ったぼくは、永遠に通路のない独房に閉じ込められてしまったことになり、したがって仮面も、おそろしく深刻な意味を負わされることになる。ぼくの計画は、人間の存在を賭けた、脱獄のこころみになり、したがって現状も、それにふさわしい、絶望的な状況だということになる。[……]意地でも受け入れかねる考え方だった。


 「ぼく」は「顔の穴をふさぐ栓」としての仮面の計画に着手しながらも――つまり、顔の喪失を解決すべき困難な問題であると認めながらも――、「顔の喪失が、べつに本質的なものの喪失ではありえない」と考えることで、問題を「気軽に考えようとしていた」(〈09〉。また、《7》 の第一の引用文もこの事情を述べている)。
 このような「ぼく」の内部のアンビバレンス=自己矛盾は、K氏の「顔は人間どうしの通路だ」という意見を聞くことによって表面化する。

 詳しく述べよう。
 K氏の意見は、バッハの事件や妻に拒絶された事実と同じように、「ぼく」の置かれている状況の困難さを「ぼく」に知らしめる。
 そのことへの反発=反動として、「ぼく」は仮面の計画に、「顔と、顔の権威に対する、果し状的な意味」を与える。
 「顔の権威に対する、果たし状」とはおそらくは、素顔ではなくつくりものの仮面によってでも、人間関係は可能である、という認識のことであろう。
 さらに彼は、「顔だけが、はたして唯一無二の通路なのだろうか。そんなことは信じられない」と考え、「魂や心」を「顔でしか流通させられないと思うのは、習慣からくる一種の先入観なのではあるまいか」、「顔の習慣に、安易によりかかることで、かえって人間同士の交流をせばめ、型にはめる結果になっているのではないか」とも思う。
 しかし一方では、K氏の言ったことが「心の奥底」で、打ち消しがたく「黒々と影をひろげて」きている。
 「ぼく」のオブセッシヴなまでの「顔の過小評価」(〈10〉)=否認の態度は、実際のところは、彼自身が顔の重要性を認めざるをえないのではないかと感じていることの表れであり、彼自身も後からの「追記」である 〈10〉 でその欺瞞性を指摘している。

 「ぼく」はこうして、顔の喪失が自分の人間関係にとって重要な=危機的な状況であるというべきか否か、という問題――それはすなわち、顔が人間の通路であると認めるべきか否かという問題である――に対し、肯定の答えも否定の答えも出せない宙吊りの状態に陥る。
 そして「いっこうに進展しない、顔をめぐる自問自答に疲れはて」(〈11〉)、このアポリアを棚上げ=後回しにして、仮面作りの技術的な側面(彼にとって手を出しやすい部分)に力を注いでゆくことになるのである。

 顔を、人間にとって重要な他者との通路であると考えるべきか否か。
 この問いは「ぼく」にとって本来、仮面作りの最初の段階で、明確に答えを出しておかなければならない問題であったはずだ。
 この問題に自分なりの回答を出さなければ、仮面を作る目的が曖昧になってしまう。
 しかし、彼は答えを出さず、このアポリアの解決をとりあえず先送りし、技術的な問題の解決へと逃避する。

 このような傾向は、「ぼく」の性格の特徴であるといえよう。
 《7》 の終わりで見たようなヴィジョンの欠如もその表れであるし、また、新しい顔を無数の可能性の中から選ばなければならないという「厄介な問題」に突き当たったときも(〈16〉、《6》 で少しふれてある)、それへの「対決をずるずる延ばしにし」て、もっぱら「技術的な仕事」に時間を費やす(〈17〉)。

 もっとも、顔の選択という問題については、技術的な問題に対処する中で解決の糸口が見出されることになる(〈19〉)。
 「ぼく」は仮面の裏側として「蛭の巣」となった自分の顔の型を取り、それを土台にすればどのような顔を作るかの目安になることに気づく。
 そうして彼は、「アンリ・ブランの『顔』という本」の分類にもとづいて、顔の「四つの基本形」を選択肢とするのだが(〈20〉)、ここで注目すべきは、彼がそれまで顔と人格との相関性を否認しようとしていたにも関わらず、「四つの基本形」を「心理形態学的方法にてらし」た上で選択を行おうとすることである。
 人間の「魂や心」と顔とを結びつけて考えることの是非について、決定的な判断を下すことを回避し続けたあげくに、「ぼく」はいつの間にかなし崩し的に、顔と心理の間に相関性を見るようになっているのである。

 彼は四つのタイプからまず二つを除外するが(〈22〉)、今度はその二つのうちから一つを選ぶことの困難に直面する。
 そのとき彼は、「容貌が、心理や性格と、多少の相関性をもっていることは、いやでも認めざるをえないようである」と追認を行うが、しかし「蛭にくい荒らされ、空洞になってしまった自分の顔の残骸を思い出したとたん」、「顔のどんな意味も一切よせつけまい」とする気持ちから、「心理や性格が、一体なんだというのだ!」と、なし崩しにしていたアポリアの中へ回帰してしまうこととなる(〈23〉)。
 そうしてまたも根本的な難題を後回しにして、「顔型の結論を出さずに出来る仕事」へと走るのである(〈24〉)。
 その仕事とは、「顔の表面を手に入れる」ことであった。