【修士論文】『燃えつきた地図』論 《1》 事件と〈事件〉

修士論文 安部公房論―中期長篇小説を中心に―

第二部 『砂の女』以降


『燃えつきた地図』論 《1》 事件と〈事件〉――テキスト化の主体と主人公


 歴史上の人物をとりあげた特異な作品『榎本武揚』をいちおう別にして、『砂の女』、『他人の顔』、および『燃えつきた地図』(1967年)は、自らの社会的位置の自明性(日常の自明性)から疎外されてしまった(疎外という言葉はそれぞれの小説の中で無効になるのだが、とりあえずはこういっておこう)人物を扱った小説である。
 特にその疎外――もしくは逃亡――の重要な形態である失踪は、『箱男』および『密会』へと引き継がれてゆくだろう。
 その大きな共通点を持つ作品群の中で、『燃えつきた地図』においてまず私たちが注目しなければならない小説論的な偏差は、『燃えつきた地図』が一人称を事件のテキスト化の主体とする一種の探偵小説であり、興信所員の「ぼく」という視点人物が、失踪した人物を三人称(「彼」)として追い続けながら、事件をテキスト化していっている、という点である。

 小説のプロットに目をやると、以下のようになる。
 ――探偵の「ぼく」は、失踪した「彼」の足取りを追ううちに、かえって手がかりをなくしてゆき、小説の結末部では自ら記憶を失い失踪する。
 つまり「ぼく」は、最終的に「彼」に非常に近似した存在になってしまうのである。
 ドナルド・キーンは『燃えつきた地図』の新潮文庫版の解説【註1】で、この作品のテーマを次のように要約する。

探す人が探される人になった。ポジがネガになった。安部文学によくあるテーマである。


 確かに、『燃えつきた地図』の探偵小説としての――そして小説としての――特異点は、上に指摘されたところに存する。
 しかし、プロットのみに注目した作品論は、上のようなテーマを指摘するにとどまるだろう。
 この先に進み、さらには安部公房の作家論への接続の可能性を得るためには、この小説における事件のテキスト化の体制の偏差と、プロット――そしてテーマ――との関わりを見なければならない。
 ここでの問題は、事件のテキスト化の体制と事件との関わりであり、また、事件のテキスト化の体制と失踪(疎外)のモティーフとの関わりなのである。

 他の作品と比較するところから始めてみよう。

 たとえば『砂の女』においては、砂の穴に閉じ込められ失踪との審判を下されることになった主人公の「男」に対し、事件をテキスト化する体制はメタレヴェルに立ちながらも、ほとんどの場合は寄り添っていた。
 「男」を三人称として設定しながらも、自由間接話法を極端に多用し、また他の人物の内面にはいっさい侵入しないその事件のテキスト化の体制は、男を確実に事件の主人公として定立することのできるものであり、このような事件のテキスト化の体制を持ちえた『砂の女』というテキストは、ある意味で幸福な小説であったともいえよう。

 『砂の女』以後、このような事件のテキスト化の体制は、長い期間安部公房の長篇小説から排除されることになる。
 物語――テキスト化される事件――のオブジェクトレヴェルに内在する視点人物からの、あまりに厳密な一点描写が小説の駆動力となるのである(もっとも、安部の小説の文章が原理的に描写と呼べるものであるかということは、重要な問題点であるため、ここでの一点描写という表現は、とりあえずの便宜的なものでしかないのだが、描写という問題については後にふれることにする)。

 すでに見たように、『他人の顔』では、顔面のケロイド瘢痕によって従来の自明化された人間関係を喪失してしまった男が、妻に宛てた手紙としてのノートを書く、というのが事件のテキスト化の体制であった。
 途中、妻が男に書いた手紙が挿入されるが、それも男自身が読んだ/読みうるものとして挿入されるものであり、メタレヴェルのいわゆる語り手は存在しない。
 事件のテキスト化の主体――いわゆる語り手=書き手――の男は視点人物であると同時に、彼のテキスト化してゆく事柄が彼自身を中心として起こった事件――彼自身の行動と認識のトライアル・アンド・エラー――であるという意味で、事件の主人公である。

 あるいは『燃えつきた地図』以後の『箱男』および『密会』においても、事件のテキスト化の体制がきわめて複雑化しているとはいえ、事件のテキスト化の主体はつねに事件の中心人物である。
 社会的な自明の日常を喪失した、もしくは自ら日常の自明性から逃亡した人物、すなわち事件の主人公が事件をテキスト化する主体となっている。
 『方舟さくら丸』や『カンガルー・ノート』においても同様である。
 もう一度述べれば、中期以降の安部公房の重要長篇小説においては、事件の主人公が事件をテキスト化する主体となっているのだ。

 一方、『燃えつきた地図』は、探偵の「ぼく」を視点=事件のテキスト化の主体とする探偵小説である。

 ここから先では、本稿が『他人の顔』論で定義した小説においてテキスト化される出来事のひとまとまりの連鎖としての事件と区別して、探偵小説において探偵の操作と推理の対象となる出来事〈事件〉と表記するが、そうしたとき探偵小説というジャンルは、小説においてテキスト化される事件が解かれるべき謎としての〈事件〉をめぐって展開するような、特殊な小説の集合であると考えることができるだろう。
 つまり、典型的な探偵小説においては、謎に包まれた〈事件〉を合理的に理解し解決しようとする探偵の行動と推理が、事件としてテキスト化されるのであり、この〈事件〉と事件の二重構造こそが、探偵小説というジャンルの特殊性なのだといえる。

 原理的/典型的に、探偵は推理あるいは調査という特権によって〈事件〉のメタレヴェルに抜け出すことのできる存在であって、〈事件〉を起こす張本人――すなわち、〈事件〉の主人公――ではない
 探偵小説とはその典型において、〈事件〉の主人公ではない存在が小説の事件の主人公であるという、特異な形式の小説である(無論、統計的=実証的な数字からいうと例外はあまりに多いが、ここではあくまでそのようなモデルを探偵小説の典型として措定しておく)。
 この〈事件〉の主人公小説の(=事件の)主人公という2つの位相を明確に分けて考えなければならないのだが、『燃えつきた地図』という小説が一人称の探偵小説であるということは、安部公房の中期の長篇小説群の中でのこの小説における事件のテキスト化の体制の偏差を考察する上で、決定的に重要である。

 自明化された社会性(日常)からの逸脱という出来事――それは〈事件〉と呼ばれうるものであろう――を契機に小説が成立しているという点を、『燃えつきた地図』と他の中期の長篇小説とは共有している。
 しかしながら、『燃えつきた地図』において小説のスタート地点での〈事件〉の主人公は、事件のテキスト化の主体(視点人物)たる「ぼく」ではない。
 そして結論めいたものを先取りしていってしまえば、『燃えつきた地図』という小説は、〈事件〉の語り手(ここではあえてテキスト化の主体とは呼ばない)でしかなかった「ぼく」が、その語り手の座=メタレヴェルから失脚し、〈事件〉の主人公というオブジェクトレヴェルへと下降する過程を、事件として記録したテキストなのである。

 先に引用したドナルド・キーンのテーゼは、このような位相にまで至らねばならないし、また、このことをふまえてのみ、「ぼく」を『燃えつきた地図』という小説の/事件の主人公と呼ぶことができるのである。


【註】

1― ドナルド・キーン「解説」(『燃えつきた地図』新潮文庫、1980年)