【修士論文】『箱男』論 《6》 類似と連合

修士論文 安部公房論―中期長篇小説を中心に―

第二部 『砂の女』以降


『箱男』論 《6》 類似と連合


 〈15〉から〈18〉は、さまざまな意味でシミュレーションの場面である。【2014.03.25註】
 〈16〉と〈18〉のテキストはあるひとりの人物が病院の遺体安置所で書いているノートなのだが、その人物は「仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部屋」で「供述書」を書いている「君」=Cという人物のことを想像し、そのシミュレーションをテキスト化している。
 そして「君」=Cという人物が書いている「供述書」が、〈15〉と〈17〉なのである。
 その供述書は、「君」=Cが、〈16〉と〈18〉の書き手を「安楽死」として殺した後に警察に疑われることになってしまった場合を考えて「練習」として書いているものであり、そのような意味でシミュレーションだといえる。
 また、〈18〉で書き手は自分が「君」=Cに殺される様子をシミュレートしており、「君」=Cも〈16〉で書き手の死体の発見のシミュレーションをノートに書いている。
 この一連の場面は、何重にも入れ子になり交錯した、シミュレーションのテキストなのだ。

 そして「君」=C書き手との関係は、〈15〉と〈17〉では「贋医者」と「軍医殿」の関係として展開され、「奈奈」と「戸山葉子」という2人の女性が絡んだ四角関係が浮かび上がる。
 「軍医殿」はどうやら箱男のようであるが、彼の周囲の人間関係は〈14〉までの「ぼく」と「贋箱男」=医者と「彼女」との三角関係に類似しており、また、「軍医殿」が「戸山葉子」の裸を裸を見たいと「贋医者」に要求するという点など、〈14〉までの物語と同じモティーフが多数現れる。
 しかし、ここが重要なのであるが、「贋医者」―「軍医殿」―「奈奈」―「戸山葉子」という人物たちは、〈14〉までの「ぼく」―「贋箱男」―「彼女」ではない。
 関係として類似してはいるが、明らかに別の人物としてテキスト上に登場しているのである。

 その後、「ぼく」による「挿入文」である〈19〉をはさんで、〈20〉の《Dの場合》という断章が現れるが、この章も、「ぼく」を含んだ三角形とも、「贋医者」たちの四角形ともまったく関係のない人物たち――「少年D」と「体操の女教師」――のエピソードである。
 この章が『箱男』という小説の中に存在する必然性は、モティーフの類似という点にしか存在しない。
 Dの用いるアングルスコープという器具は鏡のモティーフおよび覗きのモティーフの変奏であり、また、〈17〉で「奈奈」がピアノ塾を開業したというエピソードが、〈20〉で女教師の弾くピアノへと類似によって接続されている。

 さらに〈22〉では、「ショパン」と呼ばれる男と、箱をかぶった「父」、および「ショパン」と結婚するはずだった「彼女」の物語がテキスト化される。
 これも他のエピソードと直接の関係はない。
 しかし、このエピソードの主人公である「ショパン」の名は、〈20〉での女教師の「ショパンよ。すてきで、偉大なショパン」という台詞から召喚されたものであり、露出狂、箱、登録と贋物、ピアノといったモティーフの類似が、この章の存在の必然性を作り出している。

これはなんだろうか。筋の進展といったものではあるまい。いわんや、話の落ちでないことは確かである。[……]それならば、百二十ページまで[=〈14〉まで]のテクストをテーマにしたヴァリエーションかというと、そんな気配でもない。


 上は篠田一士の評だが【註8】、本稿は「ヴァリエーション」という言葉がこの事態をある程度適切に評価したものであると考える。
 〈15〉から〈18〉、〈20〉、〈22〉のそれぞれのエピソードは、覗きという行為を中心としたモティーフの類似により、ヴァリエーションとしてテキストの表面に出現するのである。
 これらのエピソードを『箱男』という小説に構成してゆく体制は、一般的な小説に見られるような樹木状の統辞ではなく、ドゥルーズの概念を借用するならば、リゾーム状の連合であるといえる。

 このようなテキスト化の体制を用意したのが、《5》 で論じたようなシミュレーションであることは、興味深いと同時にうなずけることだ。
 シミュレーションとは、起こった事件を過去形として定着させるという体制とは逆の、確固とした事実性の裏支えなしにテキストを進行させるような体制である。
 ゆえにシミュレーションのエクリチュールにおいては、テキストの表面に現れる言葉が事実(小説内で現に起こること)から切断されて浮遊し、自律性を持ってしまう。
 そしてその自律性のために、言葉は樹木状に構築されるべき一本のストーリーへと奉仕することをやめ、モティーフの類似による連合的な結合を志向するわけである。

 付言すれば、上の事情は『箱男』という小説において、証言というモティーフの変奏と並行的な関係にある。
 〈06〉の時点では「ぼく」がノートを書く目的は、自分に自殺の意志がないこと――もしも自分が死ぬことがあったとしたら、それは自殺ではなく他殺であること――の証言であり、このときの「ぼく」にとって証言とは、事実を述べるということであった。
 しかし〈17〉では、「以上のことはすべて真実であります」という言明にもかかわらず、「供述書」は偽証のための道具である(「贋医者」=「君」は、「軍医殿」に自分の手で安楽死を施したことを隠し、自殺に見せかけるであろう)。
 そして〈21〉では、「すべての遺書が額面どおり、つねに真実を告白するものとは決まっていない」という言葉がテキストの表面に現れる。
 『箱男』という小説が、すでに起こった事件=事実のテキスト化という体制から離れてゆくのを反映するかのように、『箱男』という小説が進行する中で証言は、事実を述べるものから事実でないことを述べるものへと変化してゆくのである。


【註】

8― 篠田一士「〈箱男〉あるいはテクストのよろこび」(『波』1973年4月)

【2014.03.25註】

ある方のご指摘を受け、重大な事実誤認に気づきましたので、赤字にして訂正しております。申し訳ありませんでした。