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zoom RSS 唐十郎『特権的肉体論』「いま劇的とはなにか」解釈の試み(4)

<<   作成日時 : 2014/12/05 12:51   >>

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テキスト=唐十郎『特権的肉体論』白水社、1997年

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以下は、唐十郎のテキストを、私が解釈したものです。
その妥当性は、今後この作業を続ける中で検証してゆくことになります。
あくまで、『特権的肉体論』の本文を読むときの参考程度のものとお考えください。
改行は、ほぼ本文の段落分けと対応させてあり(分かりやすくするために変えたところもあります)、本文の表記をできるだけ生かしていますが、これは解釈の試みの作業であり、いわゆる「あらすじ」や「解説」のようなものです。
記事の最後に要約を載せます。

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(1)(2) p7-p11 再要約

唐十郎は、<特権的肉体>というものについて語るための第一歩として、そのカテゴリーの中のひとつの<特権的病者>であった、詩人の中原中也をとりあげる。
なにものかから視られているという<意識>によって、<肉体>が痺れて<畸形>的な形に固まってしまい、その<畸形>を演じ続けなければならなかったのが、中原という<病者>であり、その物腰には<痛み>が見て取れる。
では、中原に<痛み>をもたらしたのは、何から視られているという<意識>なのだろうか?
この問いに対する最初の仮説として、<悲しみ>――心の中に<悲しみ>を呼び起こすような<モノ>――から視られているという<意識>が、中原に<痛み>をもたらしたのではないか、というふうに考えられる。
しかし、その<悲しみ>から視られているという<意識>は、たいした<痛み>を伴うものではなさそうだ。
最初の仮説が<痛み>の説明としては不十分だとすると、本当のところは、なにものの視線が中原の物腰に<痛み>を生じさせていたのか、と改めて考えてみる。
私たちが<現在>という場を突っ切るためには、<陽光>と<暗黒>を同時に見通し、その2つの領域をかけめぐる<有効な方法>を見つけなければならないのだが、
中原は、<偶然>の支配する<陽光>の領域をおそれて、<悲しみ>という<暗黒>の領域にとどまり、詩の誘う<悲しみ>に自分の生活までも捧げてしまった。
中原の<悲しみ>の<一元論>は、月下の<街>を酔っ払いが歌いながら歩く、という情景に象徴される。
そしてこの情景の中の<病者>は、中原を視ている<悲しみ>ともども、じつは<街>という現実に視られているのだ。
不可解な物と物の衝突する、<自由>を孕んだ響きは、<現実>の<街>からやってくる。
それはもしかしたら、<悲しみ>を呼び起こす<モノ>すら問題にならないような、最も<現在>的なものかもしれない。
このようにして、中原中也の詩をうたう物腰から見て取れる<痛み>は、本当のところは<街>という<現実>から視られているという<意識>だったということが分かったのだが、
しかし、この<街>という<現実>からの視線にさらされると、詩の中の中原の痛々しい物腰は、<ゼスチュア>――多少わざとらしい演技――のように見えてくる。

(3) p12-14 再要約

中原中也の<痛み>を感じさせる物腰は、とても<ゼスチュア>――わざとらしい演技――めいて見える。
<悲しみ>から視られるという<痛み>は、<痛み>の想像にすぎない。
<悲しみ>とは違った<現実>的な<他者>からの視線があって初めて、<現実>的な<痛み>の<意識>が生まれるはずだ。
そして、<痛み>の想像よりも、<現実>的な<痛み>の方が、<現在>的な――アクチュアルな――ものである。
表現を仕掛ける者は、<現実>の中であい対する<他者>の顔つきを、作品の中に描き出すべきであるはずだ。
中原は、<悲しみ>との関係だけを表現し、<痛み>の<ゼスチュア>に終始した。
<現実>が存在することを感じていながら、そこに入ってゆかず、<悲しみ>との戯れを演技して見せるような<ゼスチュア>の態度に、われわれも陥ってしまう危険性があるので、警戒していなければならない。
中原の表現したものは、詩とも、意志とも、精神ともいい難い、<怨恨>の<肉化>した<コブ>のようなものに見える。
<現実>によって<変貌>させられることを拒否し、<悲しみ>に対してのみ我が身を捧げた中原の<コブ>は、<病者>的なものだ。
見る価値があり描き出す価値がある<肉体>――舞台の上に立ち現われるべき<特権的肉体>――とは、そもそもかっこ好いものではなく、観客(あるいは読者)の<眼差し>によって切開されてゆく運命を持つ、一回性の<瘤の花>かも知れない。
その<瘤の花>は、観客(あるいは読者)の<眼差し>によって切開されると、血しぶきを放ち、その血しぶきの<由来>――その血しぶきがどのような<肉体>からやってきたものなのか――を語る。
そして問題は、その血しぶきの<由来>をどうやって語るかである。
中原中也のことについていうと、読者である私たちに見えるのは、詩というスクリーンに映された中原の<影法師>だけであり、それこそが、中原の<現在>形――読者にとって<現在>的な形――である。
そして、中原自身の<肉体>は、そのスクリーンの向こう側にあり、スクリーン上に<影法師>を投げかけている。
では、そのスクリーンに<影法師>を映し、その映像を読者に届ける<光源>はどこにあるか、といえば、
中原の<肉体>のまた向うにある、中原が<意識>している<街>の<眼>こそが、<光源>なのである。
<街>の<眼>にとっても読者にとっても、中原中也の<影法師>――中原の<肉体>の影が詩というスクリーンの上に投げかけられた<怨恨>の虹――は、厳然として存在する。
ところで、表現される<影法師>はまた、表現する者の<肉体>を導いてゆくものにもならなければならないはずだが、中原中也の<影法師>は、メソメソと<悲しみ>にひたるだけだ。
だから中原の<怨恨>の虹は、<病い>をかかえた<影法師>なのだといわねばならない。
中原中也自身と、詩というスクリーンに映った彼の<影法師>とが、<悲しみ>において分かちがたく密着してしまっていることを、再び(中原にとっての)<瘤の花>と呼ぼう。
このような<悲しみ>を演技してもいいが、このような<悲しみ>だけに生きてはならない、唯一の<特権的病者>が、その<瘤の花>の持ち主だ。
自分の抱いていたあらゆる意志、もっていたいくらかの<自由>、幾度かの賭けを、最も下等な<現実>でしかない<悲しみ>に、すべて捧げてしまった温かい叔父さんこそ、中原中也だ。

  *

(4) p15-17

ならば、唐十郎はこのような<病者>を何故に、<特権的肉体>というカテゴリーの中に入れたのだろうか。
リアルな<肉体>にこれほど縁のないものはいないではないか、と読者は思うかもしれない。

しかし、<肉体>とは、カシアス・クレイ[※1]の強い筋ばかりではない。
例えば以下のようなことがある。

東北の農村に80歳の頑健な婆さんがいて、陽が沈むまで働きつづけ、夕方、土手にしがみつき、「ああ、辛かった」と言って、股間に二本指を入れて何時間か過すという。
彼女にとっては、その時間こそが<現在>――最もアクチュアルな時間――であり、そのことのためにのみ、朝から夕方まで敢えて辛い労働に出かけるのだ。
するとその労働時間は、土手での<現在>を際立たせるためのコンストラクション――準備――にすぎないことになる。
このような独特な<肉体>への目つき、<肉体>が最も<現在>的に見えるようにするためのあらゆる知恵が、全てあの指を股間に入れる一瞬のために働く。

これを思う時、私たちは、彼女の<特権的時間>を<追体験>することなどは出来ない。
東北の貧婆が、このような形で<肉体>を評価したことを凝視し、その風景が語る意味を知るだけだ。
だから、このようなものが唐十郎の前に表現された場合、唐がそこに見ようとするのは、老婆自身の味わう<特権的時間>そのものではなく、婆さんの<特権的肉体>であろう。

カシアス・クレイもまた、子供の頃自転車を盗まれ、盗んだ奴をなぐるためにボクシングを始めたという。
ここにも、独特な形で<肉体>を見つめた<器>がある。

このようなことから、<肉体>とは強い筋でも絶倫の性器でもなく、最も<現在>形である<語り口>の<器>のことだ、といえる。

「20世紀前半の芸術は、時間の中にスルスル吸い込まれ、20世紀後半の芸術は、逆に空間の中へスルスル」[※2]などという言葉も、現実になるためには、このような最も<有効な方法>――最も<現在>的な<語り口>の<器>としての<肉体>の使い方――をもたなければならないだろう。

ならば、<特権的肉体>を駆使するほかはない。
<特権的肉体>とは、<特権>的に<肉体>の在りかを凝視していたものと、凝視されたものということになる。[※3]
それが逆説的に凝視した者[※4]であっても、それは<特権>的とよぼう。

山高帽を冠った中原中也の写真は、何故か女学生のようなおじさんに見える。
中原は<肉体>という言葉をとても嫌い、海の前にとび出す素裸の自分をとても恥じていたが[※5]、そこにも独特な<肉体>への照明がある。

しかし、人間はいつまでも自分の面構えを凝視していられるものではない。
<特権的肉体>は、<肉体>とよばれるものを突き破って、動き出さねばならぬ。
ならば、人生は、<特権的肉体>の仮面を手にした、ラジカルな役者修業だ。
舞台を一人の役者がマクベスの役で通りすぎる時、その横切りは、天井桟敷のお客が一生かかって経験する時間を、三時間でやってしまうと言ったのはカミュだが[※6]、
唐十郎もまた、このような時間のラジカリストとしての役者を、そのまま日常の中にまで連れて来ようと思う。

そして、舞台と生活(日常)との両方を横切る時間のラジカリストとしての役者修業は、<おもしろおかしく>生きることである、と唐十郎は述べるのだが、
しかし、役者修業を<おもしろおかしく>生きることとしてとらえるのは、最も危険な逆説の綱渡りになるかもしれぬ。

世に<おもしろおかしく>生きたいと願う人は数えきれなく居ろう。
しかし、そういう人が<おもしろおかしく>生きることを願って役者修業を始め、いくら<おもしろおかしく>演じたとしても、
それが単なる<表現>であって、人生そのものではないと思ってしまった時、[※7]
その人は本来、<おもしろおかしく>ということを、常に大胆な<語り口>によって波紋を起こすことだと考えていたわけだから、[※8]
<表現>という場にとらわれずにいつも<おもしろおかしく>生きたいと願う人は、きっと、「イチ抜けた」と言って役者修業をやめ、路地に逃げこんでしまうに違いない。

<表現>の地に待ち受けるこのような修業の倫理――<おもしろおかしく>あらねばならないということ――が、一本の十字架のように重くつらい受難に見えることもある。
また、「さあ、音楽!」と叫びたくなるような弾みで、<おもしろおかしく>あれとざわめく海鳴りに向かって、拍車をかけていかねばならぬこともある。
だが、<おもしろおかしく>あることに対して心が重かろうが軽かろうが、<表現>という海に乗り出す船は、断じて<特権的肉体>であろう。
<特権的肉体>には<特権>的な痰があり、
その痰には、必ず一つの<怨恨>がこもっており、
その<怨恨>には、<現在>として<表現>されるその<怨恨>の<大過去>である、絶対的な<もの>の眼差しがあり、
その<もの>の眼差しの向こうには、絶対的にみえるものの構造――<現実>――がビッシリと連なっている。
そして、それらをひっくるめて単一であるところの<特権的肉体>は、<特権>的であればこそ、よりこちらの観客から見られているってな具合だ。

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[※注]

1- アメリカ合衆国の元プロボクサー、モハメド・アリの旧名。1964年、世界ヘビー級王者になるが、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、1967年に有罪判決を受け、ボクシング・ライセンスとともに王座を剥奪される。
2- 出典要調査。
3- 「<特権>的に<肉体>の在りかを凝視していたもの」とは、独特な形で自らの<肉体>のあり方を見つめる人間(東北の老婆、カシアス・クレイなど)のことであり、「凝視されたもの」とは<肉体>のことである。これらを踏まえると、<特権的肉体>とは<肉体>そのものを指す概念ではなく、<肉体>とそれを見つめる自らの視線という2つの要素によって構成されるものであることが分かる。
4- 次の段落で言及される中原中也のこと。<肉体>を嫌うという「独特な<肉体>への照明」のことを、ここでは「逆説的に凝視した」と述べている。
5- 出典要調査。
6- 出典要調査。
7- 文意要検討。ここでは試みに言い換えた。
8- 文意要検討。ここでも試みに言い換えた。


  * (4) p15-17 要約

ならば唐十郎は、リアルな<肉体>に縁がなさそうに見えるこのような<病者>を、なぜ<特権的肉体>というカテゴリーの中に入れたのだろうか。
しかし、<肉体>とは、強靭な身体ばかりを指すのではない。

例えば東北の農村の老婆が、一日の労働の終わりに、土手で股間に指を入れるとき、その時間こそが老婆にとっては最もアクチュアルな<現在>――<肉体>が最も<現在>的に見える時間――なのである。
このようなものがわれわれの前に表現された場合、われわれは老婆自身の味わう<特権的時間>そのものを自分のこととして経験することはできないのだから、われわれはそこにただ老婆の<特権的肉体>を見るだけであろう。
強靭な身体をもつカシアス・クレイは、子供の頃自転車を盗まれ、盗んだ奴をなぐるためにボクシングを始めたというが、唐十郎はカシアス・クレイの身体の強さだけを見るのではなく、独特な形で<肉体>を見つめた<器>に注目する。
このようなことから、<肉体>とは最も<現在>形である<語り口>の<器>のことだ、といえる。

現代の芸術を<現在>的な――アクチュアルな――ものにするための<有効な方法>は、最も<現在>的な<語り口>の<器>としての<肉体>の使い方、すなわち<特権的肉体>を駆使することである。
<特権的肉体>とは、他ならぬその人に固有の仕方で<肉体>のありようを凝視する者と、凝視される<肉体>との間に作用するメカニズムである。
その凝視の仕方が、たとえ中原中也のように<肉体>を嫌悪するような逆説的なものであったとしても、「他ならぬその人に固有の仕方」という意味で<特権>的とよぼう。

しかし、人間はいつまでも自分ひとりで自分の<肉体>を見つめてばかりいられるものではない。
自分の<肉体>を見つめてばかりいることをやめて、<特権的肉体>の表現へと向かわなければならない。
<特権的肉体>という仮面を手にした、ラジカルな役者修業に、人生を賭けて乗り出そうではないか。
唐十郎は、時間のラジカリスト――舞台の上で密度の極端に高い時間を生きる者――としての役者を、そのまま日常の中にまで連れて来ようと思う。
そして、舞台と日常との両方を横切る時間のラジカリストとしての役者修業は、<おもしろおかしく>生きることである。

しかし、役者修業を<おもしろおかしく>生きることとしてとらえるのは、最も危険な逆説の綱渡りになるかもしれない。
<おもしろおかしく>生きたいと願う人が役者になり、<おもしろおかしく>生きたとしても、
あるとき、それが単なる<表現>であって、人生そのものではないように思われてしまったら、
その人は<表現>だけに満足せず、もっと常に<面白おかしく>あろうとして、役者修業をやめて現実の中に逃げこんでしまうに違いない。

<おもしろおかしく>あらねばならないという、<表現>の修業の倫理は、重い受難のように思われることもあるし、強い意欲につながることもある。
どちらにしても、<表現>において<有効な方法>が、<特権的肉体>であることは間違いない。

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<特権的肉体>は、独特で固有の<表現>を生み出す。
その<表現>には、必ず一つの<怨恨>がこもっているのだが、
その<怨恨>は、絶対的な<もの>が<肉体>に注ぐ眼差しに対する<意識>から生じたものである。
そして<もの>の眼差しの向こうには、<現実>がビッシリと連なっている。
こういったものをひっくるめて、単一のものとして<特権的肉体>は<表現>される。
そしてそれが<特権>的なもの――独特で固有のもの――であるからこそ、観客はそれを見るのである。


【2018年10月19日追記】
この作業にもとづいた評論文「唐十郎論―肉体の設定」を、文芸批評・文学研究の雑誌『文学+』創刊号に掲載しています。下記フォームからお求めください(在庫切れの場合はご容赦ください)。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfHCKEnxm2jV7uGofqBzmC7mUMhK7-unCLes-F0NE4JP4KmcA/viewform

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