安部公房ワークショップ(演劇)報告 (1) オリエンテーション

■■安部公房略年譜

1924 東京に生まれる。翌年、父の勤務地である満州へ。
1940 家族と離れて東京の成城高等学校に入学。
1943 東京帝国大学医学部に入学。
1944 満州に戻り、その地で敗戦を迎える。
1946 日本へ引き揚げ。翌年、山田真知と知り合い結婚。(真知は美術家として、後に公房の本の装丁や舞台の美術を手がける)
1948 岡本太郎、花田清輝らの「夜の会」に参加。以後、小説を発表するとともに、前衛的な芸術運動に関わる。
1951 日本共産党に入党。芥川賞を受賞。
1954 ★初の戯曲『制服』を書く。翌年、劇団青俳により上演。
1955 ★『制服』を劇団青俳が上演。『どれい狩り』を劇団俳優座が上演。演出家の千田是也との共同作業が始まり、演劇論を展開するようになる。
1961 日本共産党を除名される。(発表は翌年)
1962 小説『砂の女』発表。
1966 ★桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇コース(劇団俳優座の俳優養成機関をもとに新設)の教授に就任。
1967 ★戯曲『友達』発表。
1969 ★自作の舞台『棒になった男』を初演出。以後、新劇から離れて独自の演劇活動へ。
1973 ★「安部公房スタジオ」結成。
1979 ★アメリカ公演。安部公房スタジオ活動休止。
1993 死去。

★安部公房の演劇

1954年までは、安部は演劇に関わった実績はありません(おそらく)が、周囲の芸術家たちに影響されるような形で、多少の興味はあっただろうと推測されます。

1950年代半ばに戯曲を書き始めた頃、日本で現代劇を上演するのは新劇の劇団でした。
その新劇の世界で、当時主導権を握っていたのは、劇団俳優座の演出家であり、スタニスラフスキーとアリストテレスに依拠した演技指導書『近代俳優術』(1949)の著者でもある千田是也です。
この千田が安部に注目し、安部と千田の共同作業が始まります。

1950年代後半、千田はブレヒトの理論を取り入れ(戦前からブレヒトを上演していたにもかかわらず、理論を本格的に取り入れたのはこのとき)、自分の演劇論を科学的観点から更新しようとします。
おそらくその影響を受けて、安部もブレヒトを参照しつつ、演劇論を展開します。

日本共産党との決別から始まる安部の1960年代は、自らの作家としてのイメージを刷新するような仕事をしていった時期です。
初期の作品を改訂しつつ、代表作を生みました。(小説では『砂の女』、『他人の顔』など。戯曲では『友達』)

1970年前後から、安部は自分の戯曲を自分で演出するようになり、新劇(特に千田是也)から離れます。
「安部システム」というメソッドによって持続的に俳優訓練を行う劇団「安部公房スタジオ」を作った安部は、夢のイメージをそのまま舞台に乗せたような演劇を制作するようになります。

※安部公房の演劇活動については、「安部公房論―演劇編―」もご参照ください。

■■安部公房スタジオ 結成時のメンバー

田中邦衛、仲代達矢、井川比佐志、山口果林、佐藤正文、大西加代子ほか。
映画をとおして安部と知り合ったスター俳優と、桐朋学園の演劇コースで安部が育てた若い俳優との、混成的な集団でした。

■■安部はなぜ劇団まで作って演劇活動をしたのか

(1)外的な理由=新劇への不満

1960年代、新劇はいくつかの点で厳しい批判にさらされるようになっていました(菅孝行による政治的批判、アングラ演劇による美学的批判)。
安部の眼から見ても、当時の新劇のありようは、けっして望ましいものではなかったでしょう。

そして実際のところ安部自身、新劇の俳優の演技を
「型」芝居(うまい俳優の演技のパターンをまねること)
「気持」芝居(戯曲解釈によって準備した心理から演技を作ろうとすること)
と呼び、そういった演技はリアルでないし面白くないと繰り返し批判するようになりました。

(2)内的な理由(推測)

1960年代の安部は、いわゆる戦後作家としての(特に共産党と関わった作家としての)それまでの自分のイメージを抹消し、「普遍的」で世界的な芸術家としての作家像を構築しようとしました。
その一環として、いちおう社会主義リアリズムにもとづくものとされていた(そしてメンバーに共産党シンパも少なからずいたはずの)新劇に対して距離を置き、自分の手で一から自分の演劇を作ることが必要だったのではないでしょうか。

1960年代の安部の小説の分野での主な作品は、一人称を用いた「内面」描写を中心とするものでした。
そんな安部が小説だけで満足できず演劇まで作るのならば、演劇においては「内面」以外のものが表現されるべきでしょう。
上のことは理屈にすぎませんが、安部はこのような理屈に従って、「文学的」な「内面」を自分の演劇から排除しようとしたのではないでしょうか。
(安部は「文学的」な演劇を批判する一方で、現代の小説家はみな必然的に劇作家を兼ねねばならないとも述べています。それは結局、安部自身の以上のような事情をいっているのでしょう)

また、安部は何でも自分でやってみなければ気がすまない性格でした。
演出家としての専門的な「教養」がなくても、「芸術家」であれば演出ができるはずだと安部は考えました。

■■安部が目指したのはどのような演劇か

安部の作る演劇は段階を踏んで変化していきましたが、彼が目指した演劇は窮極的には、ドラマがなくても面白い演劇です。(ブレヒトの影響およびベケットへの参照)
それが面白くなりうるためには、
「型」(演劇の惰性としてのパターン)や「気持」(戯曲を文学的に解釈することによって準備される心理)ではなく、「生理」を通して、観客の感覚と直接的にコミュニケーションを取ることが必要だ、と安部は考えました。

ここで「生理を通した演技」というのはどういうことかというと、
たとえば安部はジャック・ルコックの「たまご焼きの演技」を例にとって説明しています。
俳優が「たまご焼きにされる卵の演技」をやると、「それは苦悩の表現にみえる」というのです。
これだけ聞くとバカバカしいと思われるかも知れませんが、
安部はこの例をとおして、「心理から作った主観的な演技」と「生理から作った客観的な演技」とのギャップを認識し、両者の間で弁証法を引き起こす(生理を利用して、心理の表現を客観的なものにする)ことを提唱しているのです。
ちなみに、スタニスラフスキーの演技システムの現代的な可能性はそこにある、と安部はいっています。(安部の「安部システム」という訓練法は、スタニスラフスキー・システムを「生理」の面からアップデートした演技術である、ということができます)

さて、「生理」を通した演技によって「ドラマがなくても面白い演劇」を作るためには、それを可能にするような俳優の訓練を行わなければいけません。
その訓練法として安部が生み出したのが、「演劇史上初めて」の試みと安部自身が誇る「安部システム」です。
「安部システム」は、次のようなことすら可能にすると安部はいいます。

たとえば、次のような情景を思い浮べていただきたい。開幕を告げる二ベルが鳴る。客席の明りが消え、期待と疑惑が入り混った、多少意地の悪い静寂が劇場を包み込む。そっけない音をたてて幕が上る。舞台は空白で、あいまいな光がその全景を平板に照し出している。その中央に、なんの特徴もない木の椅子が一つおかれている。俳優がひとり、ぽつねんと掛けている。刻々と時が過ぎていく。[……]俳優は無言である。無言であるばかりか、動こうともしない。身じろぎもせず、ただじっと坐りつづけている……
[……]この退屈の見本のような情景に[……]なぜか不思議にひきつけられ、いつまでも見飽きないというような場合は、ありえないものだろうか。現実にそんな場面に出会う機会はめったにないだろう。しかし想像することくらいは出来るはずだ。すくなくとも、ぼくには出来る。というより、俳優が表現体として舞台空間に存在するために、欠かすことの出来ない条件の一つとして、日頃ぼくが思い浮べていることなのである。
(「再び肉体表現における、ニュートラルなものの持つ意味について。――周辺飛行18」)


このようなことがもし本当に可能になるのであれば、「安部システム」を利用できないか試してみない手はない、という素直な気持ちを、今回のワークショップでの私のプログラムの前提としました。
参加者の方々にも、とりあえず安部のいうことをある程度信じて、信じられなくても安部と同じ目標を持って、「安部システム」を真面目に試してみましょう、というふうに提案させていただきました。

私は演出家ではありませんし、「安部システム」を実際にやってみるのも初めてですので、参加者の方々の取り組みに対して「それは違う」とか「こうすればうまくいく」とかいうことは言わず、
安部の考えたメニューを参加者の方々にご提供しつつ、みなさんの感想をそのつど確かめる、という立場で進行しました。

■■今回のメニュー

「ニュートラル」を作る
「ゴム人間のゲーム」
「写真のぞき」
「ガイドブック」

今回試してみたのは、「安部スタジオ」で実際に行われていた、「安部システム」の代表的なメニューです。
安部のテキストをもとに、これらを復元してみました。
ただ、時間の都合上今回は、ひとつひとつには限られた時間しかかけられませんでした。
「おそらく奥の深い訓練法だと思うので、今日はさわりだけ試してみることができればとりあえずよしとして、機会があればまたあらためてじっくりとやりましょう」というふうに申し上げたうえで、実践に入りました。