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zoom RSS 唐十郎戯曲のモチーフの変化 (初期から中期へ)

<<   作成日時 : 2018/09/23 19:13   >>

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唐十郎という劇作家の最大のテーマは、「制度」との葛藤である。
半世紀にも及ぶキャリアを通じて、このテーマが追究されてきた。
そして唐十郎にとって「制度」とは、自分たちの生きる日常を知らず知らずのうちに規定してしまっているフィクションであった。

それは具体的には、ある時期までは、欺瞞的な平和の中にある戦後市民社会を指していたが、ある時期以降は、グローバル資本主義に制圧された消費社会を指すようになった。
そういった社会のあり方に対し、悪意を突きつけ、戦い、そこから逃れ出ようとする試みこそが、唐十郎が戯曲によって表現したものだといえる。

初期唐十郎作品には、ふたつの軸がある。
「堕胎児」のモチーフをもつ「腰巻お仙」シリーズの軸と、「義肢」のモチーフをもつ「ジョン・シルバー」シリーズの軸である。

『月光町月光丁目三日月番地』(1964年)や、「腰巻お仙」シリーズ、『アリババ』(1967年)、『吸血姫』(1971年)などには、「堕胎児」のモチーフが見られる。
その「堕胎児」とは、戦後市民社会の中で生きることができなかったもの(抑圧され、圧殺され、忘却されたもの)の形象であり、これを舞台に登場させることは、戦後市民社会に対する、悪意の表明と挑発だった。

他方で、1965年の『淫劇ジョン・シルバー』に始まる「ジョン・シルバー」シリーズなどには、「義肢」のモチーフが現れる。
「ジョン・シルバー」とは、唐十郎が少年時代に読みふけった、ロバート・ルイス・スティーブンソンの小説『宝島』に登場する海賊で、非常に魅力的な悪のヒーローであり、片足が義足になっている。
唐十郎の「ジョン・シルバー」シリーズにおいて、ジョン・シルバーは、恐ろしくも輝かしい超越的存在であり、欺瞞的な戦後市民社会を破壊する、一種のメシアのようなものと考えられているが、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のゴドーのように、舞台上には登場せず、観客は、傷痍軍人を連想させるような、彼の義足を見せられるだけである。
唐十郎の作品に現れる「義肢」は、このジョン・シルバーの義足のイメージから生まれたものであり、戦後市民社会の欺瞞的な日常や、そこに安住している人間の生に対する、アンチテーゼのようなものだといえる。

初期の唐十郎作品において、「制度」との葛藤というテーマは、戦後市民社会へのいやがらせ≠フ形をとり、「腰巻お仙」シリーズの「堕胎児」も、「ジョン・シルバー」シリーズの「義肢」も、一種の「抑圧されたものの回帰」として、舞台に現れていたのである。

そしてこれらの形象は、戦後社会においてタブー視され抑圧されていた、「大東亜共栄圏の夢」を呼び込んでいく。
1969年に書かれた『少女仮面』と『少女都市』では、満洲がモチーフとして導入され、唐十郎作品に時間的・空間的な広がりが生まれた。
そして70年の『愛の乞食』では「ジョン・シルバー」シリーズが、71年の『吸血姫』では「腰巻お仙」シリーズが、満洲をモチーフとして展開することになる。
『愛の乞食』と『吸血姫』は、戦後市民社会に対するいやがらせ≠フ集大成だといえる。

しかし、同時代の制度へのアンチテーゼとして大東亜共栄圏を提示するという、1969年から1971年の唐十郎の戦略は、あまり筋がよいものではない。
この時期、日本の高度経済成長が安定期に近づく中、日本企業が新植民地主義的にアジアへ進出していた。
唐十郎にとって敵である戦後市民社会のほうが、大東亜共栄圏の夢を反復しつつあったわけで、つまり満洲や右翼のイメージは、敵のものなのだ。

1972年以降の唐十郎の作品からは、満洲に対するロマンティックな憧れが消えるが、おそらく唐十郎自身、大東亜共栄圏的な発想をむしろ批判しなければならないことに気づいたのだろう。
この時期から、「制度」との葛藤というテーマは、権力の支配との闘争、あるいは、権力の支配からの逃走という形をとるようになる。

また、唐十郎自身と劇団の事情を見てみると、1971年、『あれからのジョン・シルバー』を最後に、状況劇場の主力俳優であった麿赤児と四谷シモンが劇団を去り、唐十郎は、劇のフォーメーションを見直さなければならなくなった。
そして1972年の『二都物語』で、李礼仙を絶対的なヒロインとし、その相手役を根津甚八が受け持つ、ヒロイン・ヒーロー体制が成立する。
この体制の中で、李礼仙の演じるヒロインのキャラクター設定が、戦後市民社会に対するアンチテーゼの役割の、中心を担うことになるのである。

『二都物語』のヒロインは、かつての日本の帝国主義的植民地支配によって運命を狂わされ、現在も社会から疎外されている、在日コリアンの女性である。
彼女は、日本の戦後市民社会から黙殺されてきた存在であり、「堕胎児」や「ジョン・シルバー」といった観念的な他者ではなく、現実的な他者であるといえる。
こういったマイノリティの人物像が、同時代の社会に対して演劇が提示するべきもの、すなわち「特権的肉体」として、発見されたのである。

さて、『二都物語』のヒロインのような在日コリアン女性というキャラクターは、李礼仙が演じると、彼女自身の出自と呼応して強い説得力をもつが、それをいつも演じていると、芸術と実生活が「密着」してしまう(唐の特権的肉体論にとって、これは望ましくないことである)。
ゆえに、『二都物語』のあとの唐十郎にとっての課題は、在日コリアン女性ではない、別のヒロイン像を作ることだったはずだ。
そのキャラクターは、戦後社会の中で「抑圧されたものの回帰」である必要と、時間的・空間的な広がりを呼び込むものである必要があった。

そんなとき、1972年5月のことだが、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』が刊行される。
これは周知のとおり、幕末から大正中期までの間、海外へ連れていかれて外国人を相手に売春をさせられた「からゆきさん」を取材し、「底辺女性史」研究の嚆矢として位置づけられたノンフィクションである。
あまり指摘されることがないようだが、唐十郎はこの本を、おそらく刊行後すぐに読み、同年秋の『鐵假面』に、早くも「からゆきさん」のモチーフを取り込んでいる。
そして翌73年の『ベンガルの虎』では、ヒロインの人物造形に、「からゆきさん」を全面的に利用したのである。
唐十郎は、絶妙のタイミングで『サンダカン八番娼館』と出会ったといえるだろう。
私の考えでは、『サンダカン八番娼館』がなかったら、もしくはその刊行が何年かずれていたら、唐十郎の劇作家としてのキャリアは、かなり違ったものになっていたはずだ。

ともかく、1970年代前半から唐十郎は、社会との関係の中で悲惨な境遇に置かれたり、差別されたりする女性を、劇の中心に置くようになった。
そして、彼女たちが登場することにより、「堕胎児」のモチーフや「義肢」のモチーフは、唐十郎作品の中心の位置から退いたのである。


【2018年10月19日追記】
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