【読書メモ】『合理的なものの詩学』第四章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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第四章 新感覚派の物理主義者たち
―― 横光利一と稲垣足穂の「現実」観

 加藤夢三は、同じ「新感覚派」とされる横光利一(1898~1947年)と稲垣足穂(1900~1977年)について、彼らの「現実」観(時間・空間認識)が互いにまったく違うものだったと指摘し、その違いを理解するための鍵は、両者がともに依拠した理論物理学にあると述べる。この章では、横光と足穂の「現実」観が、理論物理学とのかかわりという観点から比較・検討される。

 この章は、結論はシンプルだが、細かい議論は整理されておらず、錯綜している。科学・哲学的言説の意味づけと紹介がうまくいっていないせいだろうと思われる。
 とりあえず、次のように整理しておくが、この一覧表(引用ではないが見やすさのために引用の体裁にした)を見ながら加藤の本文を読むと、いろいろな疑問が湧いてくるかもしれない。

アイザック・ニュートン(1642~1727年)
❶時間と空間を絶対的なものとしてとらえる
❷人間が認識する対象は、認識されるとおりにそこに存在していると考える(加藤はこれを「素朴実在論」とみなす)→「現象」を超えた「物自体」を想定しない

イマニュエル・カント(1724~1804年)
❶時間と空間を超越論的与件としてとらえる(これはときに、「時間と空間を絶対的なものととらえた」と解釈される。加藤もほぼそのように扱っている)
❷人間の対象認識は主観的な作用であり、認識された「現象」と「物自体」は異なる(認識論)→「現象」を超えた「物自体」を想定

新カント派(19世紀後半~20世紀前半)
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821~1894年)、エルンスト・カッシーラー(1874~1945年)など

エルンスト・マッハ(1838~1916年)
❶時間と空間を相対的なものととらえる
❷「現象」を超えた「物自体」を想定しない

アルベルト・アインシュタイン(1879~1955年)
❶時間と空間が相対的なものであることを明らかにする
❷その理論は、「現象」を超えた「物自体」の水準を示唆するものとして(も)受容された


 以下、この章で論じられている(のであろう)ことを、本文の論述の順序はある程度無視して、図式的に整理する。

 「従来の自然主義的文学」(123ページ)とプロレタリア文学の「現実」観は、ニュートン的な世界像に対応する。
 この「現実」観には、ふたつの特徴がある。
 ❶今ある「現実」(「いま・ここ」)を規定する、時間と空間という枠組みを疑わないこと(時間と空間を絶対的なものとみなす)。
 ❷事物のありのままの姿を、人間が認識しているとみなすこと(人間の認識に現れる「現象」だけを「現実」とみなし、それを超えた「物自体」を想定しない)。

 新感覚派の作家たちは、このような「現実」観を、批判的に乗り越えることをめざした。彼らはおおむね、❷の方面を攻めようとした。カント的な問題意識をもち、人間の主観的な認識のはたらきに注目することで、「認識論」的なパラダイムシフトを引き起こそうとしたのである。
 特に横光利一は、プロレタリア文学が依拠するマルクス主義を「素朴実在論」と断じ、19世紀以降の理論物理学の知見を取り入れることで、それを「超克」しようとした。
 1920年代の横光の「現実」観は、「力」という絶対的な「法則」が世界を支配していると説く「力学主義」(ヘルムホルツ)や、それを批判的に継承した「エネルギー論」(ヴィルヘルム・オストヴァルト、1853~1932年)から影響を受けたものであり、また、自然現象を人間の認識作用の効果としてとらえる「現象論的物理学」(マッハ)にも近い。
 横光の自然科学受容というと、先行研究では、アインシュタインの相対性理論からの影響が強調されてきたが、1920年代の時点では横光は、相対性理論や量子論といった20世紀物理学の本質を吸収できていなかった。
 特に、❶の時間と空間のとらえ方に関しては、横光は新カント派的(カント的)な立場から、時間と空間を超越論的与件とみなしていた。これは加藤によると、時間と空間を絶対的なものとみなした従来の「現実」観と同じであり、時間と空間の相対性を説いたアインシュタインの相対性理論から遠く隔たっていることになる。

 一方、同じ新感覚派に分類されることの多い稲垣足穂は、非ユークリッド幾何学や相対性理論から強い影響を受けた。
 「アインシュタインの提出した可変的な時間・空間の枠組み」(136ページ)を受容した足穂は、「いま・ここ」という時間と空間の「現実」から逸脱するような「可能性」に目を向けていた。つまり足穂は、❶の面において、自然主義文学やプロレタリア文学、およびほかの新感覚派たちの「現実」観の、一歩先を行っていたということなのだろう。
 加藤は、横光と足穂を次のように比較する(139ページ)。

一九二〇年代の横光が、みずからの足場となる〈いま・ここ〉の現象論的な解明を目指し、足穂が〈いま・ここ〉を超え出ようとする無数の「可能性」としての異世界に思いを馳せた(後略)


 この結論自体は、穏当なものだといえるだろう。しかし、この結論を出すために駆使されているロジックに、無理があるように思うのは私だけだろうか。
 科学にせよ哲学にせよ、理論をレトリカルに読み変えると、恣意的な解釈になってしまう。この章の議論の難点のひとつは、理論の解釈が恣意的すぎるところだ。

 たとえば、時間と空間の枠組みについて。

 ニュートンの「絶対時間」と「絶対空間」は、時間と空間は、それら自体以外の何ものにも依存することなく客観的に実在する、という意味の概念である。
 対して、カントの「超越論的与件」としての時間と空間は、事物そのものの側(客観)ではなく、主観の側に備わっているとされる直観の形式である。
 これらを「カント=ニュートン的な絶対時間・絶対空間のあり方」(136ページ)というふうにひとくくりにするのは、どう見ても無理があるし、時間や空間が「絶対」的であったり「超越論的与件」であったりすることと、横光のような作家が「みずからの足場となる〈いま・ここ〉の現象論的な解明」をめざすことの間には、とりあえず何の関係もない。
 また、加藤が横光と似ていると述べるマッハの理論では、時間と空間は相対的なものだとされるのだが、そのあたりは大丈夫なのだろうか。

 アインシュタインの相対性理論が、ニュートン的な「絶対時間」と「絶対空間」を否定する理論であることは間違いないが、カントの時間・空間論とどのような関係にあるかは、自明ではない。カント的な「現実」観とアインシュタイン的な「現実」観の間に、対立があるのか親和性があるのかは、議論が必要なところだろう。
 いちおう述べておくと、アインシュタインの相対性理論が明らかにしたのは、「運動量(=質量×速度)やエネルギーが大きいところでは、時空が歪む(時間がゆっくり流れ、空間が曲がる)」ということであり、「いま・ここ以外の時間や空間がある」といった並行世界的な(?)話ではない。「〈いま・ここ〉を超え出ようとする無数の「可能性」としての異世界」などとは、もともと無関係である。

 もうひとつ、重要なことがある。世界を支配する「法則」を重視した横光の「現実」観が、アインシュタインの相対性理論によって無効になったかのように加藤は論じているが(136ページなど)、これも論を成立させるための強引すぎるレトリックであり、不適当(間違い)だといわざるをえない。
 アインシュタインは特殊相対性理論の構築にあたって、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」のふたつの要請を絶対的なものとみなした。「特殊相対性原理」とは、「あらゆる慣性系において、まったく同じ物理法則が成り立つ」という内容であり、「光速度不変の原理」とは、「どんな運動をしている視点から見ても、光の速さは一定」という内容である。このふたつの「法則」を前提にすると、自然に特殊相対性理論が導き出される。特殊相対性理論は、「特殊相対性原理」と「光速度普遍の原理」を、いわば世界を支配する「法則」として認めているのである。
 また、「特殊相対性原理」は、やはり「あらゆる慣性系において、まったく同じ力学法則が成り立つ」という内容をもつ「ガリレイの相対性原理」にもとづいているのだが、20世紀初頭の時点で、「ガリレイの相対性原理」は電磁気学に対して成り立たないことが明らかになっていた。「相対性原理」は危機にさらされていたのである。だからアインシュタインにとって、「あらゆる慣性系において、まったく同じ物理法則が成り立つ」という出発点を採用しない(「それぞれの慣性系において、違った物理法則が成り立つ」とする)ことも十分に可能であった。それでもアインシュタインが「特殊相対性原理」を採用したのは、「世界を支配する「法則」が存在する」という確固たる信念をもっていたからであると考えられている。そしてそのような信念は、現代でも、おそらくほとんどすべての物理学者が抱いている信念である。

 何だか批判ばかりになってしまって心苦しいが、全体的に若書きで筆が滑りがちな本書(もちろん、面白いところはたくさんあるし、勉強になる)の中でも、この章は特によくない章のひとつである。そもそも書き出しからして、提示するべきことを提示できていない、あいまいなものなのではないか。

一九二九年、新感覚派の旗手として活躍していた横光利一は、「現実について明瞭に認識し直す」ために「現実」を「時間と空間の合一体」としてとらえることを主張した。ここには、書記の理論的なマニュフェスト「感覚活動(感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説)」(『文藝時代』一九二五・二、以下では「感覚活動」と略記)からつづく横光の「現実」観が明瞭に示されている。
私たちの世界認識を可能にさせていた時間・空間という概念を、認識対象としての「現実」を構成する当のものとして再定義してみること。一九二〇年代の横光は、そのようなかたちで既存の〈いま・ここ〉という秩序体系を把握するための新しい思考のあり方を、みずからの創作活動のなかに求めていたのである。



***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命 ←次はこちら
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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